「現代の子どもたちに望まれる教育とは…」、と題したフォーラムに出たものの…
参考
http://pegasone.blog96.fc2.com/blog-entry-31.htmlガイドに書いていた、新学習指導要領で基本的な考え方とされる「生きる力」「思考力」「判断力」「表現力」等の学力の確立についてご議論いただかれることはなく…、
積極性がない…、根気がない…、ハングリー精神がない…、説明力がない…、
良い点に目を向ける…、負荷をかけなければ伸びない(ゆとり批判)…、
てなことを言っていました。
テレビでお馴染みの齋藤孝先生は、活動を通じ、日本社会の集団同調性をブレイクしようとしているようにも思いました。
国際性とは何なのか、改めて考えさせられました。
それは積極性なのか…、
あるいは自信なのか…、
言葉に対する自信なのか…、
自分の主張に対する自信なのか…、
文科省の梶山正司さんの話の中で、知・徳・体がありました。
勉強は教えてるが、善悪は教えていない…、そんな議論が何十年もされているように思いました。
「生きる力」「思考力」「判断力」「表現力」…
知・徳・体に代わる枠組み?として提唱されてはいるものの、どうするのでしょうか?
そこのところが聞きたかったです。
よく、社会の変化に対応していくためには、子どもたちが自ら課題を見つけ出す力、解決策を作る力、そのための柔軟な思考に基づく判断力が必要…、とか言います。
そのためには、教師と生徒が同じ目線で、思いや活動を引き出す協同創出、共同作業を促すコーチ的(ファシリテーター的)役割が必要…、とか言います。
アドラー心理学でも、同じ目線に立つよう…、子どもを褒めるのではなく、「ありがとう」と感謝しろ…、とか言います。
創造性を引き出すには、今のような
一方通行の文化ではだめだというのはわかります。
本気でしょうか?
本当に文化を変える気でしょうか?
何のための「生きる力」「思考力」「判断力」「表現力」…なのでしょうか?
本気で国際競争に負けないシステムを作る気でしょうか?
「右」の人たちのような懐古主義の話ならそれまでです。
簡単に「子どもに向き合え」とか、「やることの意味や目的を説明しろ」とか言いますが、それは
縦の文化、
教える文化からのパラダイムシフトの挑戦です。
実際、それらが目的志向性、疑問、本質の追求などを妨げ、少しでも意見すると、反抗的だ、生意気だ…などと波風が立ち、けんかになり、いずらくなり…、下のものが上のものをやり込められないようになっています。
そうすると、トップダウンでロジカルシンキング文化を広めるか、思考を知識化(教育科目化)、マニュアル化して広めたらどうか…となります。
巷には、
許せるか許せないか、良いか悪いか、知ってるか知ってないか…のような、あまり人の意見に耳を傾けることのない2択基準が跋扈しています。
ロジカル、合理性、根拠、目的などは、それ自体が基準となるので、つまり、それはロジカルかどうか…などと当てはめて選択していく基準なので、おのずと他人の意見に耳を傾けるようになる、と思います。
どこに着目するか?
行為の是非、善悪、
正誤に着目するか…、
目的、機能、根拠、システム、因果関係、背景、システム全体のバランス…に着目するか…、
着目点の違いで、選択、そしてその結果が大きく変わるように思います。
選択における知識量のもたらす影響は当然大きい…、
しかしながら、その判断における知識が不足している場合、知識、慣習、経験に基づく判断しかできない人と、ロジカルな着目点を持っている人との差は…
我々が思考とよんでいるものは、単に
①目的、ファンクション( …などを離れて見る)
②因果(システム)、根拠、ロジック、合理性( …などを離れて見る)
③バランス(整合性) MECE、概念(コンセプト)( …などを離れて見る)
(注:語句、分類はテキトーなイメージ。ロジシンとかではなぜか「目的」の語句があまり使われないが、行動を明確化する要素なので1番!)
などの語句に着目して選択する、シンプルなものなのだろうか?
そして、それらへの着目は、先人の慣習を否定するがごとく覚悟が必要なのです。