「人は2種類いて、まず自分にできることから始める人と、できない理由を探してやらない人がいる。」By石田純一


東電の記事の絡みで、官僚は「できない理由を考える」というのを目にしました。

受験用勉強のやりすぎでしょうか?

問題)
「以下の文章を読んで、できない理由を答えなさい。」~

「正しい」か「間違っている」かで解答が評価されます。

仮に、「~の目的を答えなさい。」という問題があったとすると、それは本人のみぞ知る意図の推測になるので、いろいろな解答が考えられ、「正解」というものを立てるのは難しい。

「~について答えなさい。」では、
「知っている」か「知らない」かで評価されます。


コーチングで、「視点を変える」という技術があります。

AI(Appreciative Inquiry:アプリシエイティブ・インクワイアリー)でも言われますが、「~の理由を答えなさい。」は、それ自体、ロジカルな問いですが、うまくいかないことに意識が傾くので、これからは、

①ターゲッティング(より大きな目的、ゴールを見る)
②小さく見る(因果関係、根拠を見る)
③大きく見る(MECE、バランスを見る)

のバランスで問いかければいいのではないでしょうか。


目の前に置かれている状況から一歩離れて、ロジカルワーズに視点を変える。

ロジカルな人は何気にやっていると思われ、そこで仕事力に差がつきます。
「現代の子どもたちに望まれる教育とは…」、と題したフォーラムに出たものの…

参考
http://pegasone.blog96.fc2.com/blog-entry-31.html

ガイドに書いていた、新学習指導要領で基本的な考え方とされる「生きる力」「思考力」「判断力」「表現力」等の学力の確立についてご議論いただかれることはなく…、

積極性がない…、根気がない…、ハングリー精神がない…、説明力がない…、
良い点に目を向ける…、負荷をかけなければ伸びない(ゆとり批判)…、
てなことを言っていました。

テレビでお馴染みの齋藤孝先生は、活動を通じ、日本社会の集団同調性をブレイクしようとしているようにも思いました。
国際性とは何なのか、改めて考えさせられました。
それは積極性なのか…、
あるいは自信なのか…、
言葉に対する自信なのか…、
自分の主張に対する自信なのか…、


文科省の梶山正司さんの話の中で、知・徳・体がありました。
勉強は教えてるが、善悪は教えていない…、そんな議論が何十年もされているように思いました。

「生きる力」「思考力」「判断力」「表現力」…
知・徳・体に代わる枠組み?として提唱されてはいるものの、どうするのでしょうか?
そこのところが聞きたかったです。

よく、社会の変化に対応していくためには、子どもたちが自ら課題を見つけ出す力、解決策を作る力、そのための柔軟な思考に基づく判断力が必要…、とか言います。

そのためには、教師と生徒が同じ目線で、思いや活動を引き出す協同創出、共同作業を促すコーチ的(ファシリテーター的)役割が必要…、とか言います。

アドラー心理学でも、同じ目線に立つよう…、子どもを褒めるのではなく、「ありがとう」と感謝しろ…、とか言います。

創造性を引き出すには、今のような一方通行の文化ではだめだというのはわかります。

本気でしょうか?

本当に文化を変える気でしょうか?

何のための「生きる力」「思考力」「判断力」「表現力」…なのでしょうか?

本気で国際競争に負けないシステムを作る気でしょうか?

「右」の人たちのような懐古主義の話ならそれまでです。

簡単に「子どもに向き合え」とか、「やることの意味や目的を説明しろ」とか言いますが、それは縦の文化教える文化からのパラダイムシフトの挑戦です。

実際、それらが目的志向性、疑問、本質の追求などを妨げ、少しでも意見すると、反抗的だ、生意気だ…などと波風が立ち、けんかになり、いずらくなり…、下のものが上のものをやり込められないようになっています。

そうすると、トップダウンでロジカルシンキング文化を広めるか、思考を知識化(教育科目化)、マニュアル化して広めたらどうか…となります。


巷には、許せるか許せないか、良いか悪いか、知ってるか知ってないか…のような、あまり人の意見に耳を傾けることのない2択基準が跋扈しています。

ロジカル、合理性、根拠、目的などは、それ自体が基準となるので、つまり、それはロジカルかどうか…などと当てはめて選択していく基準なので、おのずと他人の意見に耳を傾けるようになる、と思います。

どこに着目するか?

行為の是非、善悪、正誤に着目するか…、

目的、機能、根拠、システム、因果関係、背景、システム全体のバランス…に着目するか…、

着目点の違いで、選択、そしてその結果が大きく変わるように思います。


選択における知識量のもたらす影響は当然大きい…、

しかしながら、その判断における知識が不足している場合、知識、慣習、経験に基づく判断しかできない人と、ロジカルな着目点を持っている人との差は…


我々が思考とよんでいるものは、単に
①目的、ファンクション(  …などを離れて見る)
②因果(システム)、根拠、ロジック、合理性(  …などを離れて見る)
③バランス(整合性) MECE、概念(コンセプト)(  …などを離れて見る)

(注:語句、分類はテキトーなイメージ。ロジシンとかではなぜか「目的」の語句があまり使われないが、行動を明確化する要素なので1番!)

などの語句に着目して選択する、シンプルなものなのだろうか?


そして、それらへの着目は、先人の慣習を否定するがごとく覚悟が必要なのです。
最近、討論番組をよく見てます。

↓こんなのとか
http://blog.livedoor.jp/yoheitsunemi/archives/51212035.html

↓こんなのとか
http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-821.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1152839961

朝生とか


誰かがきちんとファシリテートしないと軸ずれ、論点ずれ、見当違い…、各々が自分の立場で主張しあい、平行線をたどっています。

例えば勝間さんの「働き方の多様性」のプレゼンでは、
前提のすりあわせが(時間的に?)不十分で、危機感を十分に共有できておらず、議論を前進させることができませんでした。

提案の前に十分にその案を出すにいたった背景、過程を話しておくとよかったのかもしれません。


そもそも「何かを変える」ということは、合理的、目的的に考えなければ受け入れられることはありません。

そうでもなければ、基本的に「知らないことは受け入れられない」という結論に至ります。

優秀な勝間さんとはいえ、外資系のコンサル会社で議論するのとは勝手が違います。


たけしのガチバトル「死刑制度の是非」では、
テレビ的な対立の演出がなされていて、建設的な話し合いとしては(ファシリテーション的見地から)最悪でした。

それぞれが自分の基準(価値観)に照らして「正しい」、「間違っている」と言い合い、
「人の意見を聞いたら負け」の、力の意思決定原理が働いていました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1152839961
で、bisuke7770624さん
も指摘されていますが、

八田さんは本質的な質問をしていましたが、
質問の内容よりも権威の力のようなものが働いて一蹴されてしまいました。
それを糺すファシリテーターも当然いません。

そもそも正解がないような問題であり、
建設的に話し合うならば、(テレビ的にはだめなのかもしれませんが、)賛成、反対がどのような判断基準に基づいているかを出し合うのがセオリーかと思います。

賛成案、反対案に至るプロセス、背景をお互いに聴きあう番組は、社会的な影響から考えてもベターです。


何かを決めるときは、何らかの判断基準があります。

せめて、①背景、②判断基準の2点を語り合えば、
どのレベルで意思決定がなされているか、選択のプロセス(意図、目的)が明確になります。

例えば、永山基準を使ったならば「法と秩序志向」に基づいて意思決定がなされたとわかります。

案の正誤、(自分の基準に勝手に照らして正しいか、間違っているかを判断すること)よりも選択の高度さが重視されてきます。


自分と異なる意見はなかなか飲めるものではありません。

しかしながら、その案の背景、感情、判断基準といったものは、少しは黙って聴くことができます。(アサーションか?)

(恐ろしいことに!?)基準のレベル、スケールの違いも明らかになってしまい、単純な思いつきで言ってるのか、いくつもの基準に基づいて精緻な選択がなされているかもオープンになります。


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「海上保安官を逮捕しないとする捜査当局の判断を評価するか」
→評価する92%
(産経新聞朝刊11月26日)

各々がどのように判断し評価したのか…

「評価する」として取り上げられた一部の意見には、「民意」、「国益」を判断基準として用いられたものがありました。

保安官自身が「国益」の語を用い、判断基準としていたためでしょうか…

「民意」、「国益」の2語は、認知発達における判断基準の観点からは、性質が大きく異なる言葉です。

参照:『ウィルバー哲学に思う』(Interpersonal知性と、セルマンの役割取得能力)
http://blog.zaq.ne.jp/nagamasa/article/128/
参照:心理学COCOROの法則 (コールバーグの道徳性発達の6段階)
http://rzt.sakura.ne.jp/shinri/001050/001117/

今回、評価するとした人々が、どのような判断基準を元に「評価する」としたのかは定かではありません。

保安官は指揮命令によらず、「国益」という自律で判断しました。(事実として)

ここでどの判断が正しかったのか、ビデオ流出の是非自体は、大きな関心を払うところではありません。


今回は、ビデオの非公開自体が、情報隠蔽という悪いイメージを持ち、「民意」に反したため、92%もの人が「評価」にまわったと思われます。

前々回の日記で合意形成について書きました。

何を基準に(どのレベルで)判断したか以上に、何が多数か…、数は大きな力を持ってしまいます。


先日、ヨットで太平洋を横断した堀江謙一さんのことがテレビで取り上げられていました。

日本では、密出国の犯罪者として報じられ、一方アメリカでは名誉市民の称号を贈られ、冒険に対する日米の評価の違いが浮き彫りとなりました。

参照
http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/200904180000/
http://datazoo.jp/w/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E8%AC%99%E4%B8%80/4869811


もし「民意」が、「法治国家である以上、法律を優先するのが筋である、罪は罪として問うべきだ」というレベルで判断したならば、保安官は逮捕されていたのでしょうか…?



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先日、宮本算数塾がテレビでやってたのを機に色々ググっています。
http://miyamoto-puzzle.com/movie/index.html
http://www.manabinoba.com/index.cfm/4,5499,81,html
http://syougakusei.gjgd.net/Entry/18/

前に国語専科教室のことを書いたのですが、
http://ameblo.jp/jiritucoach/entry-10421283612.html
http://www.kokusen.net/kokusen/index.php?%B9%F1%B8%EC%C0%EC%B2%CA%B6%B5%BC%BC%A4%C8%A4%CF
あれを思い出しました。

あの塾も子どもたちがひたすら読書しているのが印象的でした。


宮本算数塾でも教えることはせず、発するのは「マル」、「ボツ」、「終わり」の3言です。

話しぶりから目的探求型の合理的思考の人だとうかがい知れます???

あれを奇妙な授業だと言う人もいるかと思いますが、「そもそも授業の目的は何なのか」というところから考えれば、まったく無駄のない授業だと思いました。
(「授業」という日本語自体に「教える文化」が現れています。)

「子どもは環境と材料を与えておけば勝手に伸びる」
「教えたがりの人が先生になる」


「知識と思考のバランス」から…


現状は「知識」に傾きすぎて世の中がおかしくなっているのですから、多少センセーショナルな揺り戻しの動きがあっていいと思います。


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ファシリテーション協会関西支部、テーマ「合意形成」の分科会にて…

課題1)
電車内のマナーで許せないもの順に並べるというもの。

目的、目標、前提条件、基準などをすり合わせて合意を取っていくのですが、いつものことですが、私の意見は他のメンバーと合わず、最終的には私が折れました。

以下のものを順位付けしました。
A 席に座った女性の化粧
B パンを食べる
C 出入り口付近での座り込み
D 老人に席を譲らない
E 携帯電話で話す
F 子どもが駆け回るのを注意しない親
G 足を広げて寝る
H ヘッドホンから音が漏れる

私は、上の項目を1、快適さと、2、安全上の問題(機能上の問題)と大きく2つに分けて、C(出入り口付近での座り込み)を最も許せないものに順位付けしました。

一方、他のメンバーは、まず主観的に「自分にとって許せないこと」と考えることからはじめたり、社会、教育上、最も影響のあるものという順番で考えていました。

その結果、Dの、「老人に席を譲らない」が1番に上がりました。

ここで言いたいのは、何が正しくて正しくないかということではなく、

一度選んだ基準を、他の人の意見を聞いた後で変えることの難しさ、
やはり物事は、声の大きい人の意見や多数派意見、あるいは年長者(経験者)の意見で決まりやすいということ、
です。

ファシリテーター、あるいはメンバーの中で、熱くなったりするのを制する働きがあれば、少しは違う合意形成ができるのかもしれません。

例えば、意見を褒める人には、
「意見の評価はいりません」と、場の空気を恐れずに言うことです。
褒められることは、下に見られているに過ぎません。


私の意見が孤立しがちなのは、あえて常識的に考えないためでもあります。
あえて俯瞰したり、単純化したり、システマチックに考えたりするせいです。
そのように考えると多くの場合、孤立します。孤立しないこともあります。

企業に絡むものはすべて、本質的に考えると、その目的は、売上最大、コスト最小で利益を大きくということなのですが、言葉を選ばないと逆鱗に触れることがあります。

短期での、過度の利益追求に対するイメージによる抵抗が大きいためです。システム的で冷たい感じもあります。

最近は、「コミュニケーション信奉があるのでは」と思うことがあります。
コミュニケーション絡みの活動に参加しているのでなおさらですが…

「多くの企業の問題が、コミュニケーションの問題に起因する」という考えには同感ですが、本質的にはコミュニケーション自体は目的ではなく、利益のための手段であると私は考えます。


いかなる場合も行き過ぎを止めるものは、熱心な学習意欲ではなく、常に大きな目的、長期展望を見据えてバランスをはかる思考の力だと思います。



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応援団はアメリカにはないらしい。
応援団は日本の文化なのか?
体育会系は日本の文化なのか?

参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%8F%B4%E5%9B%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E8%82%B2%E4%BC%9A%E7%B3%BB

爽やかとか青春とか言って、涙して、そこに感動があればいいのか?


「縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である」 『アドラー心理学入門』岸見一郎著

体育会系が文化として影響力を持ってしまったら、進歩を忘れていくだろう。


すべてに質問を!(Question Everything) アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein  

質問力が様々な経営手法に取り入れられている。

質問力が企業の命運を握る。

「戦略構築とは、質問するプロセスである」。
アインシュタインは「60分間で、これから出す問題についての解決策を見つけなければお前の命はないと言われたら、どうするか?」と聞かれたとき、「55分間は、適切な質問をするために使う」と答えたという。
つまり適切な質問をすることほど、適切な答えを導き出せるものはないということだ。 『60分間・企業ダントツ化プロジェクト』神田昌典著


「教える」と「質問する(考えさせる)」のバランスのとれた文化


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広める価値のあるもの、その2…

ファシリテーション。

妄想)

大本営会議でのファシリテーター…?

$自律学研究所-御前会議

ファシリテーションは意思決定マネジメント。

知っているあらゆる経営手法、コミュニケーション手法を総動員。

ポジティブアプローチで案を考え、目的展開を使って大きな目的を明確化、意思決定基準をつくる。

意見をくまなく抽出。

三行提報。
http://www.huemec.co.jp/melmag_backnm/org_backnum/org_9.html

トップダウンとボトムアップのバランス。

WIN-LOSEの多数決でなく、WIN-WINのコンセンサスへの努力。


敗因は?


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質問せよとは言うものの…

「普段の会話」と「苦言を言いたいときの会話」


普段の会話の中でオープンクエスチョンを多用して会話することは難しくないと思います。

しかし、もし相手から何かきついこと、あるいはきつい言い方で言われたとき、「オープンクエスチョンで相手に考え直してもらう」というやり方はかなり難しいのではないかと思います。

そのときはアサーションを使うのが無難だろうと思います。(私自身あまりできてませんが…)

前に書いたブログ(アサーション):
http://ameblo.jp/jiritucoach/entry-10500251213.html

DESCで考えて、例えば、
Describe:○○という言い方をされると、
Express:責められている感じがする。
Specify:○○と言ってくれたら、
Choose:素直に聞けるのに…

のような感じです。(あまり上手な例ではないと思いますが…)
アサーション・トレーニング』(平木典子著)を引用します。

D:あなたが服を床に置いたままにしていると、(相手の動機、意図ではない客観的言動、状況)
E:私が片付けなきゃいけないのかという気持ちになって、すごく悲しくなってしまう。(自分の感情)
S:あなたが服を自分で洗濯機に入れてくれたら、(相手に望む行動、提案)
C:家事が楽になるし、私はすごくうれしい。

D:ここは喫煙席に近いので、煙が流れてきますね。
E:私はタバコの煙が苦手で、のどが痛くなってきました。
E:あなたはタバコが吸いたくなっているかもしれませんね。(共感)
S:そろそろここを出ませんか。
C:そうすればあなたはタバコの誘惑から逃れられますし、私は助かります。(肯定的結果)
C:もしあなたが一服したいのでしたら、あちらの席に行って一服してから、喫煙席から離れたところに移りませんか。(否定的結果)

DESC、DESC…
なかなか身につきません。第一子だからでしょうかwww

参考:エチカの鏡、生まれ順のタイプによって…
http://d.hatena.ne.jp/kageura_MAX/20100613/1276439127


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自立心、自発的に…

指示待ちではなく、自ら考えて課題を見つけ、取り組んでいって欲しい…


そう言ってる当人が、さっきから一方的に熱く語っている…

(要するに質問がない。)


「教えることと、質問すること」


その主語にあたるのは誰か?

例えば、会社においては、
「(上司が)教え、(部下が)質問する」、
という固定観念がある。

部下に、自ら考え、主体的に判断できるような人材になってもらいたいならば、
「(上司が)教え、(上司が)質問する」、
にパラダイムシフトしなければならない。

そのときの質問は、知識を問う正誤質問ではなく、
~」、や「どんな~、どう~」などの「」から始まるオープンクエスチョンといわれる質問。

推奨は「何のために~?」の目的の質問。


教えようとする人はけっこういるが、質問して考えさせようとする人はあまりいない。

一般的に日本語では、teachは、教える。teacher(ティーチャー)は、先生とされる。

コーチが(話を)聴く認める…、から入るのに対し、
ティーチャーは、相手の現状の知識を無視しがちになる。

極端になると、独善的に自分が正しく、相手は自分より劣るという前提(相手を全面否定)での、上下関係コミュニケーションになる。


ティーチ(知識)とコーチ(思考)のバランスの乱れによる「よのなかの歪み(進歩性、創造性の喪失)」という持論の前提に立てば、ここでもパラダイムチェンジが必要である。

まずは社会一般において、ティーチングとコーチングの違いが明確に認識されるよう、コーチングの普及を図る必要がある。


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