気ままな独り言...... -2ページ目

 江戸の三大怪談といえば、「東海道四谷怪談」「牡丹灯篭」「番町皿屋敷」となる。
「四谷怪談」は鶴屋南北、「牡丹灯篭」は三遊亭圓朝の作であるが、夫々モデルになるような話が元々あったようです。「皿屋敷」については日本各地に似たような話があって、それの総まとめという感じです。これに「怪談累ケ淵」を加えて江戸四大怪談ということですが、「累ケ淵」は実は実話である。顔は醜いが土地付きの累という女に婿養子で入った与右衛門という男が、羽生村絹川で彼女を殺してしまった。田畑を手
に入れた与右衛門は若い嫁を迎えるが、次々と5人も死なれてしまった末に6人目でやっとお菊という娘を得る。
このお菊に何かが取憑いたのである。村人が問い質すと、与右衛門に殺された累と名乗る。これを取り鎮めたのが祐天上人であるが、この後又お菊がおかしくなる。累の義理の兄、助がその前に同じ様に殺されており、それが又取り憑いたのである。同じ様にして祐天上人によって鎮められたのであるが、この事件は江戸でも随分評判になったという。

僧侶残寿により「死霊解脱物語聞書」としてまとめられた。     
ところで、芭蕉の「奥の細道」の中で昔から気になる一句がある。那須の原野で道案内の馬を借りたときに読んだ「かさねとは八重撫子名成るべし」という句です。曾良が読んだことになっているが、嵐山氏は芭蕉の句と断定しています。私が気になるのは、芭蕉は累の怨霊話を知っていてあえてこの句を読んだのではないかということです。容姿ゆえに殺害され、村民たちに事件を隠蔽された累を哀れに思い、旅で出会った幼女の名に触発されたのでは無いだろうか。と、勝手に想像し「奥の細道」関係の手元にある数冊を読んでみるのですが、この句に関しての説明は実にあっさりとしたものがほとんどです。
この事件が起きたのは1653年(承応2年)、「死霊解脱物語聞書」が著されたのは169年(元禄3年)である。芭蕉が本所深川の「草の戸」を引き払って東北に向け出立したのは1689年。「聞書」の著される前の年とはいえ、江戸で話題になったこの話を芭蕉が聞き知っていることは充分考えられる。私のAB(頭の整理・ボケ防止)年表でも芭蕉翁と祐天上人はほぼ同じ年代である。そして見つけました。それらしき文章を.......。

嵐山光三郎氏の「芭蕉という修羅」のこの句の説明のところにこうあります。
 蓑笠庵梨一の注釈書「奥の細道菅菰抄」に「ほそ道」の「かさね」は鬼怒川与右衛門の妻(怨霊)のことだと書いてある。と書いてありました。やっぱりそうだったんですね。そうじゃないかと思っていました何十年も。ただそれだけの話ですが個人的にはめでたし、めでたし。

 

PS......
「奥の細道菅菰抄」は手元の本にありました。今日発見しました。萩原恭男耕校注・芭蕉おくのほそ道 付曾良旅日記 奥細道菅菰抄 という文庫本にもろに入ってました。曾良旅日記の方に気持ちが行っていて気が回りませんでした。以下原文です。
 名をかさねと云按ずるに、世に云、祐天上人の化度有し、鬼怒川の与右衛門が妻、かさねと云いしは、或いは比子姫の成長したる後か。大概時代相応にて、きぬ川も亦比あたり近し。
結局私と同じ想像の範囲のようですが、同一人物というのはちょっとという感じです。

場所も句を読んだ「那須の黒羽」現在の栃木県大田原市と「羽生村」現在の千葉県常総市は直線で70km位はなれています。どちらも鬼怒川添ということにはなると思いますが.........、

まあ昔のお話です。