地域コミュニティに明日はある

地域コミュニティに明日はある

地方の地域コミュニティには希望がある。地域コミュニティの発展に一役買いたい。

我が家は古い造りになっており、二階に一段高い部屋がある。先日、そこに行くための階段を作った。廃材を切り、組み立て、板を敷き、フローリング材を貼った。

 

フローリング材は、以前、業者に依頼してやってもらったフローリングで余ったもの。なので、お金は一切かかっていない。我ながら上出来。着手時には、いつまでかかるか、どのくらいの材木が必要か、上手くできるか、何もかも見当がつかなかった。「とにかく、やってみよう」と考え付くままに、寸法を計ったり、木材を切ったり、ネジで打ち付けたりして、その時々の工程を進めていった。写真は一区切りした時に撮った。

 

当初は、たぶん足を載せるとギーギー音がするだろうな、と素人なりの妥協を覚悟していたが、ところがどっこい、全く音がしない、安定した階段になった。色々、自作してきたが、この階段を作ったことは私の大きな自信となった。ステップが上がると、見える景色も違う。何事もやってみなけりゃ分からない。こんな素人でも、その時々の工程を着実に進めていけば、ゴールを極めることができる。

 

ここにきて、東京五輪を中止しろ、という声が大きくなっている。私からすれば「はぁ?」って感じ。中止論者はスポーツ精神、スポーツのもたらす希望が分からない、運動音痴か運動嫌いとみる。

まあ、こんな状況で開催したところで、赤字にはなるだろう。そのツケを払わされる羽目にはなるだろう。でも、中止すると、そのマイナスはとんでもなく大きくなる。

 

中止論者は「人の命が大事」とコロナ感染による死亡者について語る。確かに、母国の選手が勝った喜びで、騒いで飲んで感染するというリスクは増す。では、それを恐れて、五輪を中止した場合、どうなるだろう。

五輪に賭けてきた選手や関係者は意気消沈。スポーツがもたらすエネルギーが薄れ、個人や国のパワーは減退する。良くなろうとする“免疫力”は下がる。生きる力、国力、そういったものが低下し、健康を損ねる人、自殺する人、殺し合う人、そういう人が増えるのではないか。それは感染対策を万全にして五輪を行った場合の死者数よりも多いのではないか。

 

昨年7月、白血病にかかった競泳の池江璃花子選手はスピーチの中でこんな話をしている。

「スポーツは、人に勇気や、絆をくれるものだと思います。
私も闘病中、仲間のアスリートの頑張りに
たくさんの力をもらいました。今だって、そうです。
練習でみんなに追いつけない。悔しい。
そういう思いも含めて、前に進む力になっています」
「逆境からはい上がっていく時には
どうしても、希望の力が必要だということです。
希望が、遠くに輝いているからこそ
どんなにつらくても、前を向いて頑張れる。
私の場合、もう一度プールに戻りたい。
その一心でつらい治療を乗り越えることができました。
世界中のアスリートと
そのアスリートから勇気をもらっているすべての人のために。
一年後の今日
この場所で希望の炎が
輝いていてほしいと思います」

 

希望の炎を消そうとする中止論。耳を貸すな、とは言わないが、やるかやらないかではなく、やるために何をするかを考えてほしい。

一つ一つの工程をこなしていけば、後で振り返って、思いもよらない次なるステップに登っていたことに気付く。あの時は五輪をやって良かった、と思える時が必ず来る。希望の炎のために五輪は予定通り開催すべきだ。