裁判員裁判と2審判断が違うという報告がある。
なぜこうなったのだろうか。1人-3人の裁判官は何を理解したのだろうか。
福岡でも、母子殺しで警察官に死刑判決が1審で出されたが、2審ではどうなるのだろうか。
ただ、本当の殺したのか?という問題もある。殺すのに事情がある、という問題もある。判決には書かれていない内容も実はある。
最近、ある弁護士が、裁判所で、裁判の古い資料(裁判の準備書面など)が重要なものでもかなり捨てられる、ということを問題にしていた。判決等は残しているそうだが、準備書面は捨てられているそうである。法令で捨てないように改正すれば捨てなくてよいわけだが、どうもそこまでに思いは至らないらしい。
高度情報化社会において、日本の現役警察官が家族を殺害する?疑惑まで起きている。世も末である。
回復するかもしれないが、警察官が家族殺しなんてひどい話だ。否、えん罪で捕まったのならさらにひどい。(その人は無実を主張している)
社会がひどいと、犯罪が増えるのは自明の理である。
日本は危険だ!と、安全面から叫ばねばならないこともある。「えん罪」だって起こりえるだろう。
死刑廃止論は、そのために必要である。
ただ、今の世の流れとして、自殺することを自死と呼び、それを権利という人もいるそうだ。
自殺するために殺人する、出所したら何度も殺す、というような主張を展開する犯罪者(それを認めているため)もいる。
無関係の第3者が殺されるのは大変おかしなことである。ただ、なぜその人を殺したのか。これは常に問わねばならない。
また、犯罪が山のように地域で起きるのであれば、地域に着目し、ケアをする必要があるだろう。
ただ、マッチポンプなんじゃないのか?という話も最近ネットで書かれるようになった。
映画のように、わざと犯罪を起こし、わざと有名刑事や有名弁護士が出て、シナリオ通りに事件が解決していく。
自作自演的な話を、マッチポンプというそうだ。それが権力者であれば、誰もが、マッチポンプにのまれていくかもしれない。
そして、そのマッチポンプは、周囲の背景を無視され、結果的に、悪い結果しか生まないことの方が多いようである。
これは、個人で決めようが、集団で決めようが、関係はないようだ。
そして、マッチポンプがさらにおかしくなると、死刑であろうがなかろうが、時として、拘置所や刑務所から這いずり出てきて、街を徘徊するようなことになるかもしれない。そうなれば質が悪い。(現実として、警察署などからの脱獄などもたまにあるようだが・・・ゆるみが出てきている)
死刑になるにしても、その期間がかなり長いこともある。えん罪を主張するならよいのだが、その罪を認めていても、である。
世の中、いろいろ矛盾している面もある。死刑廃止論の主張のひとつはそこになる。
なお、それとは別に、こういう話もあった。
『母子3人が殺害された家の2階窓から転落したところを身柄確保されたナカダ容疑者。熊谷市内の病院に入院したが、10月8日に回復したとして退院し、殺人容疑などで逮捕された。 当初から「事件のことは知らない、分からない」と容疑を全面否認。それどころか、空腹時に大声をあげるなどの奇行が目立った。
「『怖いから早く退院させてほしい』という深谷の病院の看護師たちからの声がかなりあったことも少なからず影響しているようだ。6人殺害犯が院内にいることが嫌だったのだろう」。捜査員はそう振り返る。
実は、最初の退院の時点で、ナカダ容疑者の回復は不十分だった。接見した弁護人に「左目が見えない」「顔がしびれている」などと訴え、検査すると目の奥を骨折して鼻から髄液が漏れている状態。10月15日に再入院し、22日に髄膜炎を予防するための頭部手術を受けた。捜査関係者によると、手術後、ナカダ容疑者の奇行はなくなったという。』(産経新聞:ペルー人・ナカダ容疑者が頭部の手術で別人に! 奇声・奇行はなくなったが「私はやっていない…」 2015.12.26 10:00)
鼻水がだらだら出ていた某卓球選手をTVで見たことがあるが・・・奇行や鼻水が危険なメッセージなのだろう。最近、京都アニメーションの容疑者もそうだが、容疑者になると、手厚い看護が受けられるようになるのか・・・と皮肉めいた書き込みをしたくなる。たしか、容疑者になると、かなり大量の報告書を必要とするらしく、そのため、かなりの検査もしないといけなくなるようだ。
そういう話を聞いて、少しカチンと頭にきてしまったこともあった。恐れて何もしないのも問題だが、一般が受けられないような手厚い看護って・・・どうなんだろう。矛盾を感じざる得ない状況も医療現場にはあるようだ。これもマッチポンプなのだろうか。