ヘルツォークは狼狽した。自らが溺愛してやまない娘、アイリーンが近隣の国レオルドの伯爵に誘拐されたという伝令が届いたからだ。世界の中心に存在すると言われる巨大な海原、リデリーン海の中央に位置するグランジーグ大陸。其処では壮大で怜悧な権力争いが行われていた。権力者達は自らの周りに存在する人間を駒として扱い、利用し利用され、やがて朽ち逝く。その現実に嫌気が差した農民や兵士は冒険者と成り下がり、剣や魔法を手にして偉大なる自然の骸と化す。死を恐れ、餓えや不幸を逃れようとする小心者は国にすがりつき、死ぬまで骨身を惜しんで働く。どこを見ても希望などない。それがこの世界の現状だ、それはグランジーグ大陸で四百年もの歴史を刻む大帝国ヴェルディアに居ればよく解る。
ヘルツォークは大帝国ヴェルディアの南、かつては産業貿易国として栄えていたレミウスで生を受けた。それから青年となり、ヴェルディアの狡猾な策に溺れ衰退していくレミウスの様を見届け、当時レミウスの兵士だったヘルツォークはヴェルディアへと移り住んだ。レミウスに愛着がなかったわけではない。夜風が運ぶ潮の匂いや、少し急な勾配の坂道の下に広がる港の広場、住宅街の道路際に小さな露店を構える老女。それら全てを感じて育ってきた、愛情や思いいれはある。だが、それでは飯は食えないのだ。
ヴェルディアに住んでから、世界には絶望と苦痛しかないのだと、ヘルツォークは身にしみて認識させられた。周りの大臣たちは常に相手の腹を探り合い、少しでも策に溺れた弱者を大勢で絡めとり、破滅へと導く。乞食の少女は貴族の捨てた泥だらけの饅頭を必死の形相で拾い集め、泥の混じった水で洗って貪りつく。まるで世界の終わりだ。しかしヘルツォークには、一筋の希望の光があった。
それがアイリーンだ。ヘルツォークの齢が二十を過ぎた頃、ヴェルディアと近隣国の戦争が活発化していた。その頃一端の兵士だったヘルツォークは戦場の最前線へと配置され、ヘルツォークは死ぬ気で戦った。生き残る為に友を利用し、全てを切り伏せた。結果、見事生き残ったヘルツォークは将来を約束された地位と名誉を与えられ、このめくるめく地獄の日々へと誘った。ヘルツォークは将軍となった後もただ生き残ることだけを考えた。レミウスの農民の生まれだったヘルツォークは、幼い時分から働かされ、毎日が食べ物の収穫だった。とにかく明日食べるものを、いや、今日食べるものをなんとかしなければならない。そればかりを両親に教えられ、いつからか、生きるという事だけに執着するようになってしまった。そして帝国の将軍へと上り詰めた今でも、それは変わらなかった。
そんなある日だった。毎月銀の夜に行われる貴族のパーティに、ヘルツォークは出席していた。基本的にパーティには貴族や大臣のみが出席し、将軍や長官等の軍事的な権力を持った人間は出席しない事になっている。それにヘルツォーク自体、そういった浮ついたものに興味がなかったし、貴族の下らない冗談や大臣達の下品な胡麻擂りにつき合わされるのも御免だったので、ずっと出席を避けていた。が、今回だけはどうしても、側近や交流のある大臣達との兼ね合いで、出席しなければいけなくなってしまったのだ。しかし渋々出席したヘルツォークが前向きにパーティを楽しむわけもなく、ただ薄ぼんやりと照らされた中庭を、テラスのベンチに座って眺めていた。
毎月一日だけ、淡い光を放つ月が銀色に染まる。それは美しいだけでなく神秘の力を秘めていると人々は信じており、銀の月の夜に願うと難病が治ったり、見えないはずの目に光が戻ったりするらしい。が、ヘルツォークはそんな迷信を完全に否定していた。こんな絶望的な世界に少しでも希望を持たせようとした哀れな人間たちが流した世迷いごと、程度にしか認識していない。しかしこの夜だけは、何故か少しだけ、不思議な力を感じていた。今思い返すとそれは、「奇跡」だったのかもしれない。
ヘルツォークは大帝国ヴェルディアの南、かつては産業貿易国として栄えていたレミウスで生を受けた。それから青年となり、ヴェルディアの狡猾な策に溺れ衰退していくレミウスの様を見届け、当時レミウスの兵士だったヘルツォークはヴェルディアへと移り住んだ。レミウスに愛着がなかったわけではない。夜風が運ぶ潮の匂いや、少し急な勾配の坂道の下に広がる港の広場、住宅街の道路際に小さな露店を構える老女。それら全てを感じて育ってきた、愛情や思いいれはある。だが、それでは飯は食えないのだ。
ヴェルディアに住んでから、世界には絶望と苦痛しかないのだと、ヘルツォークは身にしみて認識させられた。周りの大臣たちは常に相手の腹を探り合い、少しでも策に溺れた弱者を大勢で絡めとり、破滅へと導く。乞食の少女は貴族の捨てた泥だらけの饅頭を必死の形相で拾い集め、泥の混じった水で洗って貪りつく。まるで世界の終わりだ。しかしヘルツォークには、一筋の希望の光があった。
それがアイリーンだ。ヘルツォークの齢が二十を過ぎた頃、ヴェルディアと近隣国の戦争が活発化していた。その頃一端の兵士だったヘルツォークは戦場の最前線へと配置され、ヘルツォークは死ぬ気で戦った。生き残る為に友を利用し、全てを切り伏せた。結果、見事生き残ったヘルツォークは将来を約束された地位と名誉を与えられ、このめくるめく地獄の日々へと誘った。ヘルツォークは将軍となった後もただ生き残ることだけを考えた。レミウスの農民の生まれだったヘルツォークは、幼い時分から働かされ、毎日が食べ物の収穫だった。とにかく明日食べるものを、いや、今日食べるものをなんとかしなければならない。そればかりを両親に教えられ、いつからか、生きるという事だけに執着するようになってしまった。そして帝国の将軍へと上り詰めた今でも、それは変わらなかった。
そんなある日だった。毎月銀の夜に行われる貴族のパーティに、ヘルツォークは出席していた。基本的にパーティには貴族や大臣のみが出席し、将軍や長官等の軍事的な権力を持った人間は出席しない事になっている。それにヘルツォーク自体、そういった浮ついたものに興味がなかったし、貴族の下らない冗談や大臣達の下品な胡麻擂りにつき合わされるのも御免だったので、ずっと出席を避けていた。が、今回だけはどうしても、側近や交流のある大臣達との兼ね合いで、出席しなければいけなくなってしまったのだ。しかし渋々出席したヘルツォークが前向きにパーティを楽しむわけもなく、ただ薄ぼんやりと照らされた中庭を、テラスのベンチに座って眺めていた。
毎月一日だけ、淡い光を放つ月が銀色に染まる。それは美しいだけでなく神秘の力を秘めていると人々は信じており、銀の月の夜に願うと難病が治ったり、見えないはずの目に光が戻ったりするらしい。が、ヘルツォークはそんな迷信を完全に否定していた。こんな絶望的な世界に少しでも希望を持たせようとした哀れな人間たちが流した世迷いごと、程度にしか認識していない。しかしこの夜だけは、何故か少しだけ、不思議な力を感じていた。今思い返すとそれは、「奇跡」だったのかもしれない。
