幸せは感じることができない。
ある瞬間、もし幸せを感じたならば、
それは唯物的な論理の幸せであって
(悪く言えば誰かと比べての幸せであって)、
生理的な、たとえば「楽しい」「気持ちいい」という悦楽であって、
論理と悦楽に心が占拠された状態である。
では幸せはどこにあるのか?
幸せは現在にあるのではなく、過去にしかない。
過去は私たちの心に“秘められている”。
「あの頃は幸せだった」
これは幸せか? 否、それも違う。
記憶においてさえ、幸せなど感じることができない。
それは時間軸における相対的かつ唯物的な論理の幸せであって、
また記憶という生理的な悦楽であって、
つまりは刹那的な幸せと同じである。