以下の文章は以前書いたものの再利用です。
いま読み返すと恥ずかしいばかりですが、
年末に過去の恥を晒すのも一興かと思い、
掲載させていただきます。
修正もほとんどしていないので恐ろしいことに。
ほんとは小説のレビューが載る筈だったんですが……
(冒頭における注意、この文章には『容疑者Xの献身』『アクロイド殺し』『十角館の殺人』『鴉』『扉は閉ざされたまま』各作品の結末を明示あるいは示唆する記述が含まれます。それを望まない方はこの文章を読まれないことをお奨めします)
『容疑者Xの献身』(以下『X』と略す)にまつわる議論は、2006年9月現在、未だに生き残っている。ミステリマガジン誌上では、『X』関連の討論特集コーナーが作られ、11月号では我孫子武丸、佳多山大地の両氏が見解を載せていた。『X』の単行本の初版が発売されたのは2005年8月25日。それから一年以上経ったいまでも作品が採り上げられ議論される、というのは異例の事態だと思われる。
ここまで議論が発展・存続したきっかけは幾つかある。まず『X』は『このミステリーがすごい!』『本格ミステリ・ベスト10』『「週刊文春」ミステリベスト10』各2005年度刊行作品を対象としたランキング誌の1位を総ナメにした。これを受けて、二階堂黎人氏が自身のHP上で発言、波紋を呼ぶ。一方、笠井潔氏も自己の受け持つ評論で『X』について持論を展開。「本格」ひいては「ミステリ」というジャンル全体にまで議論は発展を見せていく。『X』自身は直木賞にノミネートされ、賞を獲得した。
ここで、僕のスタンスをハッキリさせておこう。僕は『X』を非常に楽しんだ肯定派だ。だが『X』が「本格」に属するかどうかという点については少々ややこしい。
ミステリ評論のジャンルに於いて顕著なのだが、各人が用いる用語がそれぞれの書き手にしか「正しい」イメージで理解できない場合がしばしばある(勿論、そうでない人もいる)。「本格」という言葉ひとつをとっても、多者多様という有様だ。読者それぞれの数だけ「本格」がある、と言っていい。今のところは。
ここで、僕は提案する。評論者各人が心に描いている「本格」像を読者に把握し易くさせるための指標を作るべきではないだろうか。
まずは、「本格」という問題に「叙述」を絡めて考えてみよう。ここで「叙述トリック」については代表例として『アクロイド殺し』や『十角館の殺人』を思い浮かべていただきたい。倒叙あるいはそれに類する形式(例えば登場人物の一人が犯人であることを伏せながら一人称で登場している作品)において、犯行時の描写を作者が意図的に省くトリックが用いられる場合、を僕はここで想定している。さあ、これを「本格」と言っていいものかどうか――「本格」というのは畢竟「フェア」である作品のことを指すのだと僕は思っている。だから「叙述」作品に「本格」は有り得ない(なぜなら示されるべき全ての手がかりが開示されていないから)という主張も理解できる(または想像できる)。しかし『アクロイド』はともかく『十角館』は綾辻行人による新本格の到来を告げる作品と目されている。新本格という言葉が旧来の「本格」を否定する意味合いのものであったとしても、そこに幾許かの「本格」のニュアンスは含まれる。実際『十角館』を「本格」と評価する人は少なからずいるだろう。そこには手がかりが示されており、読者が真相にたどり着く可能性が充分にある、と主張する人たちだ。僕自身は鈍感な読者なので、「本格」と惹句がついた作品を読んでも推理パートの前に真相がわかることは滅多といっていいほど無い(作品によっては探偵役の推理が終わってもわからないことさえある)。だから『十角館』などの作品が「本格」だといっている人がいるなら、たぶん「本格」なんだろうな、とぼんやり思ってしまうこともある。両者の意見を完璧に汲み取らないにしても、ある程度、把握はしているつもりだ。前者は読者が“唯一”の結論に達することを「本格」にもとめ、後者は結論を想像し得る手がかりさえ充分にあれば「本格」だ。と言っているのだ。主張している当人たちは自分のものが正当だと思っているだろうし、僕は正直どちらの考え方も否定し難い。そこで苦肉の策を考えた。受け容れていただけるかどうかはわからないが。
前段落に登場する「叙述と本格の共存」否定派と「共存」肯定派が読者に区別できればこれほど親切なことは無いんじゃないか。例えば、筆者紹介の欄に「アクロイド―○ or ×」なんてパラメータ表示を書きこむのだ。これをアクロイ度と呼ぼう――というネーミングに関する冗談はともかく、この試み自体を僕は結構本気で提案している。
同様にさまざまなタイプの作品について、本格か否かを、その好みを、評してもらう、なんならA~Eの五段階評価とかだっていい。そうだ、他のパラメータはファイロ・ヴァン度とかEQ度とか二階度とか京極度(失礼)とか、なんていいんじゃないか。
ちなみに僕のパラメータは以下の通り(笑)
アクロイ度 A
ファイロ・ヴァン度 E
EQ度 C
二階度 C
京極度 C
めっちゃ新本格派ですね。これは僕が「叙述と本格の共存」を肯定していることを示していると言えるでしょう。ファイロ・ヴァン度が低いのは、現在読むと心理的探偵法があまりにも胡散臭すぎるから。EQ度・二階度・京極度に関して言えば、驚愕し感嘆するという意味ではやはりアクロイ度に劣ると考えるためです(なかでも京極度はやや特殊だが)。
僕は「本格かどうか」に当て嵌まるかを論じるよりも、「本格」ならではの謎解きや伏線回収の面白さがあり、それを表現するために「本格」という言葉が使えればいいな、という考え方を持っています。
もちろんここで展開したパラメータについては、一例であり、もっと優れた指標となるべき作家・作品はあるでしょう。多くの方がそれぞれ主張したい○○度があっていいと思います。その中から、代表的なものが定着するようになればこの上ありません。
さて話を『X』に戻そう。「叙述」と「本格」の対応についての考察と、僕の「本格」観はこれまでに示した。では僕は『X』を「本格」として評価するのか否か。その前に読者諸氏には二階堂黎人氏の主張を踏まえておいて欲しい。
二階堂黎人氏は『X』という作品自体を認めていないわけではない、事実、『X』を自身のHP内の日記「恒星日誌」で採り上げ、各誌ランキングが発表された後(2005.12.05.参照)にこう書いている。
一連の記述において、私が『容疑者Xの献身』を非難しているなとど誤読するような人の書き込みには、申し訳ないが、時間的余裕から、今後は無視せざるを得ない。私はあくまでも、「本格ではない『容疑者Xの献身』を、本格だと誤解(無理解)している評者を批判している」のである。つまり、ブッシュ大統領をつかまえて「あの人は立派な日本人だ」という者がいたら、「いいえ、ブッシュ大統領はアメリカ人ですよ」と誤解を解くだろう。立派かどうか(本が面白いかどうか)は別の問題だ。それと同じことなのである。
二階堂黎人氏は初めから、『X』の作品としての評価と「本格」としての評価は別物だ、と明白に主張している(後半の例え話は過激すぎると思うが)。この主張をわきまえない非礼な反論が多数目に付いたのは甚だ残念だった。そのような反論の形式を取ること自体が、氏の主張の以下の部分(「恒星日誌」2006.01.06)を皮肉にも実証しているのは明らかだ。
今回の問題を含めた、最近の本格系評論シーンのダメぶりを、たとえ話をまじえて説明しよう。ダメぶりとは、本格系評論家がろくに評論活動もせず、印象的読書感想ばかりを垂れ流して、それで責任を果たしていると思っている悲惨な事態のことだ。『容疑者Xの献身』を「純愛だ」「感動だ」などと本格系評論家が思考停止状態で競ったように言い合うのは、その最たるものである。
ここまで『X』に関する議論を拡げた功績があり、また自身の本格観を惜しげなく披露してくださった二階堂黎人氏に心から敬意を捧げたい。
さて、まだ僕自身の主張を示していない――『X』は本格か否か。これまでの話の流れを汲めば以下の二通りの結論が想定される。
僕は「叙述と本格の共存」を容認するので『X』は本格である。
僕は「叙述と本格の共存」を容認しないので『X』は本格ではない。
さあ困ったことになった。というのも実は、僕自身の主張は上記の二つのどちらにも属さないからである。
結論を言おう。『X』は本格だと思う、だがその理由は「叙述と本格の共存」が可能だと考えるためではない。『X』はその「本格」たる所以を、叙述以外のパートに根ざしていると僕は考えるからなのだ。
『X』の真相とは――もっとも衝撃の大きいものは、ダミーの死体を容易し犯行日を誤認させ、花岡母子のアリバイを確保することだ、と思う。この花岡母子をも本人が知らないうちに巻き込んだ大掛かりな仕掛けは、さながら作品を支配するパラダイムをシフトさせる。この試みに成功した作品に僕は高い評価を与える傾向にある(麻耶雄嵩『鴉』がその好例といえる)。笠井潔氏はこの作品を「難易度の低い本格」と呼んでいるそうだが、恥を承知で言えば僕にとってこの真相はちっとも明々白々なものじゃなかった。成程、「難易度の低い本格」と読む向きがひょっとしたら一般的なのかもしれない。だが当然のことながらそこまで読み切れない読者もいるのだ。
少し話が跳躍してしまった。そしてその真相は、消えたホームレスや石神が弁当を買いに行った時間(とかなんとかいろいろ、調べるのが面倒である。が、あとできちんとやるのである。)などの手がかりによって示されていた。とわかったとき、僕は心の底から驚きの息を洩らした。さあ、ここまでは何の不思議も無い(と少なくとも僕は思う)。
何故『X』の「本格」たる所以は「叙述」に因らないなどと言ったのか。『X』が犯人・石神の視点を絡めた倒叙作品である以上、そこにフーダニットは存在し得ない。上記の真相はハウダニットの答えに属する。そして『X』に於いて読者は石神以外の人物の視点をも借りてストーリィを進めていく。この点が重要だ。つまり、石神の視点で犯行の真相が描写されてはいないが手がかりは示されている、ので本格だというのではない。むしろ、石神以外の視点から真相が掴める、ということが湯川の推理の形を伴って表されている。読者は探偵役である湯川の思考が石神の視点によって示された手がかりにも及ぶ可能性に気付くべきだった(読み終える前に可能かどうかはともかく)。これでもまだ足りないならこう言おうか。読者は探偵役である湯川よりも多くの情報を提示されているのだから、「犯人―探偵」の形式ならともかくも「作者―読者」の関係におけるフェアプレイの精神に於いて何ら不充分は無いのだ。
以上が僕の『X』に関する本格観である。あとは蛇足を承知で書き足しておきたいことがある(もし何らかの媒体にこの文章が転記される場合、この文以下を問題ありと判断したら、ばっさりカットしていただいてかまわないが、最後に示される文はこの文章を締めるに相応しいと思っているので考慮していただけるとありがたい)
上記でフーダニット・ハウダニットと思考を進めてきた。推理小説にしては珍しいが『X』はウェンダニット(明確な問いかけは為されないが)の性格をも保持していたと言えよう(ジョークです)。まだ問われていないのはホワイダニット(動機)だろう。おそらくこの部分は多くの読者・評論家の琴線に触れ、良かれ悪しかれ意見を噴出させた。「純愛」云々の議論がまさにそれだ。
この点、ミステリマガジンに載った我孫子武丸氏の評に対し警句を発したい。氏は90年代最中に起こったサイコ・スリラーのブームを採り上げ、そこに一般人の理解を超えた狂える犯人像を見出す。その文脈で氏の作品『殺戮にいたる病』は書かれたと明かす。そしてサイコ・スリラーの隆盛が落ち着き、新たな犯人像として善意の殺人者というものが発明されたと主張する。石持浅海『扉は閉ざされたまま』を引き合いに出し、非常に特殊な動機(性感染症の疑いから臓器移植を防ごうとしての殺人)に作者の価値観を託し、善意という表層的な響き・感触の助けを借りて、押し付けを行っているに過ぎないというのだ。もちろん『X』もこの文脈によって氏に貶される。だが読者というのはそこまで愚かなものだろうか、氏の主張は読者を馬鹿にしすぎている感はどうしても拭えない。
さらに言おう。『扉は閉ざされたまま』では犯人の目的は遂行され、犯人の価値観は生き延びる。だがしかし『X』は違う! 最終的に石神の思いは靖子の自首によって踏み躙られる。孤独な石神の価値観は作者によって徹底的に踏み躙られ、犯人の価値観は断末魔の叫びを上げる。これでもまだ安易な押し付けだといえるのか! 恥を知れ!
ふう、ついヒートアップしてしまいました。ここまで長い文章になるとは思いませんでしたが、そろそろ幕を引こうと思います。
『X』は直木賞の受賞もあり売れ続け、多くの人に読まれました。そして数多くの作家・批評家が『X』を扱った評論を手がけています。途中でアクロイ度の話を持ち出しましたが、既にその試みのひとつは達成されているといえます。『X』のように「叙述」「倒叙」「本格」(「純愛」(笑))と多様な特徴を孕んだ作品をどのように評価するかによって、その評者の性格を読者は知ることができます。「本格」ひいてはミステリ評論に馴染みが無かった人に対して、新たな道へと続くドアは開かれてきていると言えるでしょう。
2006年10月6日
Future Sound of Londonの「Papua New Guinea」を聴きながら
(10月10日時点で数箇所の手直し、いずれも細かな語句の修正や語感の違和の消去)
(10月12日、自分自身の主張を少し加えた)
(2008年12月、web掲載のために再読、微修正)



