前回の話をした後ふと昔のことを思い出しましてね。

2012年のマヤ文明の人類滅亡を覚えてますでしょうか?

当然今みんな生きてるので起きなかったわけだし、そもそもマヤ暦のひとつの循環が終わるって話であって人類の滅亡に関して何も言ってないということだったんですよね。


でも2012年当時恥ずかしながら100%信じるとはいわないまでも「自分の人生が唐突に終わるのかもしれないのか、それが本当なら残りの人生は時限式爆弾だと予言されたようなものではないか」と怯えておりました。


ところでその当時自分はピアノの習い事をしておりました。

そして発表会にむけてメチャクチャ気に入ったゲームのエンディング曲を弾きたいと思って滅茶苦茶練習してたんです。

ところがですねその発表会当日が2012年よりも後だったんですよ。日付の通達は自分がマヤ暦人類滅亡説を知った後だったように思います。


今の自分なら真偽はともかく己の中に人類滅亡の物語が心に固着したならば「何やっても無駄だやーめた」ってなること100%のはずだけど、当時の自分は滅亡の可能性に怯えながらも、その曲の完成度をあげ続けるため練習に邁進しておりました。

何故か出来ていたんです。少なくとも自分の中で全てが灰塵に帰す可能性が1/2あったのにもかかわらずです。


この話もずいぶん前に母にしたんですが、「人類が本当に滅ぶんならやっても意味ないじゃん?」ってコメントが返ってきてすごいごもっともなんだけど、今になって思えば無益有益の次元とは別の動機で頑張れてた貴重な体験でもあった気がします。


翻って今ではどうでしょうか、有益な報酬を期待しての努力以外実感がわかなくなり、さらにその期待も人の悪意、ある日の突然の事故問わず裏切られうるという事実で自分の心にデッドロックがかかっているような有り様です。

あとあわよくば隕石とかで人類もろとも自分の面倒なこと消えてくんないかなとか思ってます。2012年と真逆です。


こうして振り替えると子ども時代の自分の愚直さのなんと尊いことか。

ちょっと自画自賛になるけどジョジョで言うところの「未来なんて知らなくても覚悟があった」っていう勇気に近しいものをかつては持ってた気分になっちゃう。


「報われるかわからないけど何とか頑張る」のではなく「報われない前提の中で何とか頑張る」という心持ちを持てれば自分にとってある種の救いになるのではと思い、このときの心持ちというのが復活しないかなと願ってはいるのですが…

さて功利主義的な脳ミソになりつつある自分に舞い降りてきてくれるでしょうか。