自助グループ物語
1.自助グループの誕生物語(アメリカ編)
1935年にアメリカでAA(Alcoholics Anonymos)が誕生した。19世紀に生れたが失敗に終わった「ワシントニアン・グループ」を自助グループにカウントしないなら、AAこそが世界初の自助グループと言える。
よく知られているところでは、証券アナリストのビル・Wと外科医であるDrボブが出会って話をしていると互いに飲まないでいられた、とあるのだが、そんな上っ面の話ではない。この出会いの前にも多くの物語(前史)があり、その歴史の中に、自助グループの本質が見えてくる。その辺りを整理して見てみよう。
*「自助グループ」を、その意味から「相互支援グループ」と呼ばれる場合もあるが、ここでは字数の関係もあり、「自助グループ」としておいた。
(1)Alcoholics Anonymos以前(ワシントニアン・グループ)
1840年に4人のアルコール依存症者によって立ち上げられた「ワシントニアン・グループ」が、世界初の自助グループということもできるが、なにぶん打ち上げ花火的に消滅していったため、自助グループとしてカウントされていない場合が多い。
「ワシントニアン・グループ」失敗の原因は、禁酒運動との違いが明確でなかったこと、人種差別問題など外部の問題に入り込んでいった点が指摘されている。
この失敗から初期のAAメンバーが学び、AAの「12の伝統」というカタチで生かされている。
(2)Alcoholics Anonymos前史
<ユング博士とローランド>
そもそもAAは、スイスのユング博士の診察室から誕生したとも言える。まだビルもボブも登場していない。
アメリカの実業家であるローランドが自らのアルコール問題を何とかしたいとスイスまで行き、ユングの治療を受けた。博士の治療と得られた知識によって、ローランドは「もう大丈夫だ」とアメリカに帰った。
しかし、間もなくローランドは飲みだし、再度ユングに治療をお願いしたが、ユング博士から「治る見込みがない」と治療を断られた。
ローランドはユング博士に「例外は一つもないですか」と訊ねたところ、「君のようなケースでの例外は、ずっと以前からあった」と。ユング博士の示唆を受けたローランドはアメリカへ帰り、オックスフォードグループというキリスト教グループの中で酒が切れた。
*オックスフォードグループは、キリスト教グループの一つで、アルコール依存症など問題がある人への支援もしていた。また、12ステップの下敷きともなった「6ステップ」があった。
☆オックスフォード大学からのクレームがあり、その後改名している。
<ローランドからエビィへ>
エビィの兄は、ある市の市長を勤めているという人物だが、兄への悪影響を恐れて世間に知られないように廃屋となった実家に帰って家のペンキを塗る生活をしていた。アメリカでは禁酒法もあり、それが廃止された後も部分的に禁酒法は残ったいた。エビィは「公衆酩酊罪」で懲役刑を受けたこともあった。そのこともあったのか、オックスフォードグループがエビィを支援していたようである。
家のペンキ塗りを終えたとき、鳩が屋根にとまっているのを見たエビィはライフル銃で鳩を撃ったため、また法廷に立たされた。そのとき、ローランドが情状証人に立つなどの介入と支援を受け、刑を免れてオックスフォードグループに身を置くことになった。ここでエビィの酒は切れた。
(3)Alcoholics Anonymosの歴史
①エビィからビル・Wへ
エビィとビル・ウイルソン(W)は学生時代からの友人で、飲み友達でもあった。
エビィはローランド、そしてオックスフォードグループの支援を受けて酒を切ったが、友人であるビルが酒でボロボロになっていることを風の便りで知り、1934年の秋にビルの家を訪れた。
ビルはやり手の証券アナリストであったが、1929年の大恐慌で全財産を失ってしまい、デパートでパートをしている妻(ロイス)の稼ぎを頼りに生活するという、ヒモのような生活になってしまっていた。
そんなビルに対して、エビィはローランドやオックスフォードグループから受け取った回復の希望と回復への道筋を伝えた。エビィからビルへの大事な会話は少なくとも2回あり、2回目はビルが最後のアルコールでの入院中にあり、エビィが帰った直後にビルの心の中に大きな変化が起こり、酒を完全に切るきっかけとなった。この体験は「霊的な体験」とも「ホワイトフラッシュ」とも言われている。ビルにとってそれは、心の奥底での、生きる原理そのものの変化だった。
*あまり知られていないようだが、エビィはビル・Wのスポンサーだった。
②ビル・WからDrボブへ
ビルは完全に酒を切った後、オックスフォードグループやエビィの手伝いをしていた。まだ酒が切れない仲間に対して酒を止めるように説得をしていたが、そんな活動に物足りなさも感じていた。主治医であるシルクワース博士から「説教ばかりしていないで、君の経験を他のアルコホリックに話してあげたらどうかね」とアドバイスもあったが、その機会はなかなか訪れなかった。
そんななか、1935年の春(4月)に仕事で田舎町(オハイオ州アクロン)を訪れたとき、ビルの最大の危機が訪れた。仕事は上手くいかないばかりか、仕事仲間はみんなビルを残して帰ってしまい、週末を一人アクロンで過ごすことになった。
ビルは強烈な飲酒欲求に襲われ、飲む寸前まで行ったものの、その時シルクワース博士のコトバが蘇り、教会へ電話し、10人の連絡先を教えてもらった。
ビルは次々電話したものの9人目までは空振り、最後の電話でだめなら諦めよう(飲もう)と電話したところ、電話に出た女性(ヘンリエッタ)の知人にアルコール問題があり、ビルのような人を待ち望んでいて “なんてラッキーなこと”と。ヘンリエッタを通じてビルが出会ったのが、まだ飲んでいる外科医のDrボブだった。
ビルとボブとの話は最初15分との約束だったが数時間に及び、その後もアクロンに滞在したビルの支援もあってボブの酒もいったん(あくまでも「いったん」)は切れた。
ところが、6月にボブは学会に出席することになり、帰りの汽車で泥酔してしまった。その後はビルとDrボブの妻であるアンの助けを得て酒を切ることが出来た。
1935年6月10日の朝、ボブは仕事(外科手術)をするために出なければいけないのだが、離脱症状による手指振戦があり、最後のビールを飲み離脱症状を誤魔化して手術に出て行った。
・・・しかし、いつになってもボブは帰ってこない・・・
ボブの帰りをビルとアン(ボブの妻)は心配して待っていたところ、夜遅くボブは帰宅した。ボブは飲んでいなかった。そればかりではなく、ボブは自分の酒で迷惑をかけた人たちを訪れ、謝罪をしていた(埋め合わせ)とのことである。
この日(1935年6月10日)がAAの誕生日である。
③グループとしてのAAへ
ビルとボブは、まだ苦しんでいる仲間を訪れ、回復を手渡していたが、なかなか仲間は増えなかったし、グループ崩壊の危機も何度もあった。
その中でAAで初期の仲間(最初の100人と言われている)は、自分達の回復の道具を手渡していくために、口伝えでは内容がブレてしまう恐れもあるため明文化しようということになり、何年もかけて直接、あるいは手紙などを使ってすり合わせして出来上がったものが「Alcoholics Anonymos」(ビッグブック)だった。
この初期のAAは、自らの体験から得た「12ステップ」とともに、グループと自分たちが生き残るために必要な「12の伝統」を作り上げたのだが、ここにワシントニアン・グループの失敗も生かされていた。
AAはその後も苦しい時期が続いたものの、AAを取り上げた新聞記事やロックフェラーⅡ世などとの出会いもあり、グループとして資金的には援助を受けていないものの、少しずつ知名度は高まっていった。
その後、アメリカだけではなく全世界にAlcoholics Anonymosが広まって今日に至った。
④ALーAnonの誕生
AA誕生後初期には家族もミーティングに一緒に来ていたが、ミーティングに入るのではなく隣の部屋でトランプなどをしていたそうである。当時の家族は、殆ど妻(全員?)の立場だった。
確かにアルコール依存症本人は酒を止め、家庭は少し平和になったものの、家族の想いは複雑で、 “私らがあんだけ協力したのに酒を止めてくれへんかったのに、AAで酒を止めるって、なんやの!(何故かここだけ関西弁)” という気持ちも強かった。いわば夫たちの回復に付いていけず「置いてきぼり」となっていた。
その家族の想いを分かち合って解決していくため、夫たちが使っている12ステップを使おうと1951年に誕生したグループがALーAnon。その中心人物のロイスさんはビルの妻。
なお、ALーAnon立ち上げ時のアンさんはドクターボブの妻ではなく、ロイスさんの近所の友人だったとのことである。
(ドクターボブの妻「アン」の死去は1949年で、ALーAnon誕生の2年前)。
*このAlcoholics Anonymos略史は、ビッグブックやその他の文献などから私が勝手に拾ったものであり、
微妙な点で事実と異なる部分もあるかも知れないが、お許しを。
2.自助グループの誕生物語(日本編)
<断酒会>
1958年に高知県で立ち上げられた「高知県断酒新生会」と、それに先立つ1953年に誕生した「東京断酒新生会」が日本の断酒会のパイオニアであった。その初期の歴史を見てみよう。
*高知の歴史を中心にというか、東京断酒新生会のことは私も知らないが・・・
①飲んだくれ政治家が断酒会会長へ
高知県の社会党書記長(当時)だった松村春繁氏は、酒のために家庭崩壊寸前で、社会的な信用などもほとんど失ってしまった。教師であった妻のヒモ的な生活。ビルと同じだ。
しかし、松村氏は友人との繋がり、主治医である下司孝麿氏との関係などもあり、長い苦しい時期を経て酒がなんとか切れた。それでも時々襲われる飲酒欲求に苦しめられていた。
そんなとき、主治医の下司氏から「AAの話が聞ける」と勧められて参加した講演会で初めてAAを知り、「時折酒を飲みたくなるのも、自分が一人でやめているためだ」と納得がいったそうである。その講演会の場で断酒グループの結成準備会が松村氏の発案で生まれ、それが高知県断酒新生会となっていった。
AAは禁酒運動の限界という現実の中で誕生したが、断酒会の初期には、禁酒運動家の助力があって誕生したという若干違う背景があった。もっとも禁酒運動家によるAAへの理解があったからとも言える。
②全国行脚と全断連結成
松村氏は、下司氏などの支援もありつつ、アルコールで傷めた身体に鞭打って、全国の精神科医療機関や、まだまだ少ない断酒会員に会いに全国行脚をしていた。
松村氏は、仲間に会いに行くとともに、信頼できる医療者(なだ いなだ氏など)との交流を重ね、駅での汽車待ちを使って仲間に葉書を書いて回復を手渡していた。 ☆小林哲夫氏の小説「松村春繁」を!
高知より5年はやく誕生していた「東京断酒新生会」とともに、1963年に「全日本断酒連盟」が誕生し、松村氏が初代会長となった。
松村氏の残したコトバは今でも「松村語録」として伝わっている。時代的な限界に縛られている部分を考慮する必要はあるものの、大事なコトバである。
★断酒会立ち上げという偉業を成し遂げた松村氏だったが、暴言や暴力こそなかったものの、娘には特に重大な傷を残したのも事実で、春繁氏の葬儀に娘は出なかった。神格化されている部分も大きいが、やはりその一方で「等身大の人間」としての松村氏も見落としてはいけない。
③それ以後の全断連の歴史、「東京断酒新生会」についても省略した。詳しくは私も知らない。
現在は全国各地に断酒会が誕生し、各地方にブロックを置き、全体を統括するように全断連がある。
なお、あえて全断連に所属していない断酒会も少数ながらある。
<日本のAA>
①日本にAAを伝えたM神父
・1960年に日本の教会に就任したM神父(アメリカ人神父)は、自らのアルコール問題で、1970年代前半に治療やリハビリのためアメリカへ帰国、回復のきっかけを掴んだ。
・1974年にM神父はスポンサーの提案(迷惑をかけた人への埋め合わせ)と、日本におられた別のアメリカ人神父から「まだミッションが残っている! それは山谷だ!」との誘いがあって再び来日、アルコール問題に苦しむ人たちへ回復へのメッセージを手渡し始めた。そんな中で②のP神父とも出会いもあった。
・当時はまだ日本で今のようなAAミーティングはなく、アメリカ軍基地でのミーティング、教会内でのミーティング(いずれも英語)しかない時代だったが、意を共にする断酒会の仲間との繋がりもできていた。
・後で述べるP神父、Tシスターとともに、日本のAAの基礎作り、後のMAC設立に力を注いだ。
②酔いどれ神父(P神父)
・メリノール宣教会の日本人神父(P神父)は、酔ってミサにも出られなくなったりと問題が・・・。
その後も飲酒はやめられず入院を繰り返したものの、回復のきっかけは掴めなかった。
・そんなとき、同じメリノール宣教会のM神父と出会った。酔いどれ神父はM神父に、何をすれば良いのかとたずねたところ、M神父は「歩くことだ」と答えた。
・当時、断酒会はあったものの今のようなAAミーティングはない時代で、M神父と一緒に、米軍基地でのAAミーティング、その他のAAミーティング、断酒会などに出席する中で、P神父も飲まない生活が送れるようになった。
・そして、1975年に日本語AAミーティングが開始、これが日本におけるAAの誕生とされている。また、ビッグブックの翻訳にも力を注がれた。
③M神父とP神父、そしてTシスター
・アルコール依存症ではないが深い理解を示したTシスターにM神父は、AAによる回復を手渡していく仲間として「一緒に歩いてくれますか」と頼んだそうである。その後もM神父、P神父と一緒に歩かれた。
・Tシスターは、M神父やP神父とともにAAの基礎、MACの基礎作り、AAの多くの文献の翻訳にも力を注がれた。
・50年前に日本でAAグループが誕生した背景には、アルコール依存症ではないが深い理解をもとに一緒に「歩いた」Tシスターの存在が大きい。Tシスターが、支援者ではなく仲間として「歩いた」ということが重要なポイント。
*初期のAAは教会の支援を受けて誕生したが、現在は友好関係はもちつつ教会からは完全に独立している。
☆日本におけるAAの誕生には、メリノール宣教会の神父の存在が大きかった。これは1975年のことだが、それよりもっと古い1950年代に禁酒運動家がAAの存在を知って、その情報が下司医師を通じて松村春繁氏に伝わり、今日の断酒会につながったという歴史も見逃してはいけない。
また、現在のAAとは直接の繋がりはないものの、AAに理解を示した医療者主導的な「AA会」も存在していた。
断酒会については、そのときすでに「全断連」として活動していた。
3.今日の自助グループと、医療の関係性
自助グループがもたらしたものは、アルコール依存症の専門医療の初期のカタチづくり(久里浜方式など)と、医師を頂点としたヒエラルキーの部分的否定だった。
関西でも、浜寺病院、新生会病院や新阿武山病院、小杉クリニックなどアルコール依存症治療としての先進的な医療機関が生まれ、自助グループ(当時は断酒会が主)、行政との連携を始めた。
それが関西圏に広がって「大阪モデル」または「関西モデル」と呼ばれ、京都でも嵯峨病院の退院者を中心に京都断酒会、宇治黄檗病院の退院者からは京都府断酒平安会が生れた。
同じように三重県でも、医療機関と行政、自助グループとの連携が出来上がった。これは当時の高茶屋病院などが大きな役割を果たしていた。
その影響もあるのだが、断酒会は「西高東低」で関西圏に強く、逆に関東では断酒会の代わりにAAが強いという地域性がある。
①自助グループ低迷期にある問題点
・現在は自助グループの低迷期に入っている。
これは、医療と自助グループのメンバーとの関係が遠くなってきているという背景があり、それも医療が積極的に自助グループへ送り出さない原因の一つと言える。
②自助グループそのものに内在する問題点など
・断酒会へのアクセスをよくする目的で行っている「SBIRTS」も、実際にはあまり効を奏していない。一回は出席するものの、断酒会への定着が得られていない。単に「繋げれば良い」というものではないことが、ここでうかがえる。
・自助グループを「回復の場」として運営できることが自助グループに望まれる部分である。
・AAもメンバー数の頭打ち状態という危機感から、ステップに戻るという動きもある。自助グループ自体の本気度が重要なのだと言える。
③医療者など、支援者の問題意識
・医療者が多くの治療的な道具を持ちすぎると原点を忘れる傾向がある。
久里浜病院から、新たなアルコール依存症の治療のための方法が発信されると、久里浜の社会的な立ち位置も考えずに真似をする医療機関などもあり、カタチだけ真似るが「魂」はそこにないという状況にある医療機関もあった。そのような状況のなか、原則である自助グループとの関係性についても薄れがちとなった。
・「減酒治療」なども、十分な議論がなされていないまま安易に広がっており、それによる弊害は今も大きい。
★「人は変われる」という、ある意味での「信仰」のようなものが次第に弱まっているように思われてならない。
④問題解決するうえで可能なこと
・やはり支援者自身が自助グループへ出向くこと、回復者と出会うことからしか始まらない。
・回復イメージを適切に持つには、回復者と実際に出会わないと無理である。頭だけの知識と、実際に回復者に出会うということから医療者、支援者として「腑に落ちる」ことには雲泥の差がある。アルコール依存症を「病気」と認識するうえで大事なのは、回復者との出会いであるが、その距離は広がりつつある。
∴支援者が回復者、家族に会いに行く、「歩く」ことが重要で、ここから始めないといけない!
<参考文献>
・Alcoholics Anonymos(ビッグブック)
・アルコホリックスアノニマス 成年に達する
・ドクターボブと素敵な仲間たち
・「輝ける人との出会いの中で」 ~メリノールレジデンス・AA・マックとの経験~ 井上 茂 著
・「松村春繁」 小林哲夫 著
・現代のエスプリ別冊(255号) 「アルコホリックの物語」 斉藤 学 著
☆その他 多数あり。
最終更新日 2024年12月31日