4年に1度、全世界のスポーツ選手が集って世界一を競う大会、オリンピック。現在も冬季オリンピックが開催されているまっただ中だ。
古代ギリシアのエーリス地方で開かれたオリンピュア大祭から始まるこの大会は、19世紀の終わりの1896年からクーベルタン男爵の提案により開催された。
別名「平和の祭典」といわれ、古代でのオリンピック開催中は停戦するという合意に基づき、現在でもそれが守られようと決議されている。
ところで、この大会に出場する選手は皆国旗を背負っている。政治的な意図は持ち込まないという理念は存在するが、単純に世界中の国々と競争するという形で一種の代理戦争をしているわけである。
そして、その根底にあるのは自国への執着、すなわちナショナリズムである。だが、それを否定的にとらえる必要性はない。なぜならそれがあるからこそオリンピックは今日も世界中の人々の関心を大きく集め、巨大な経済効果を与えているからだ。
しかし、その民族主義的オリンピック、いわばナショナル・オリンピックが今揺らぎはじめている。それが今回のバンクーバオリンピックでは顕著になった。
オリンピックに出場する際にはある国の代表であるという条件が必要になる。生まれ育った国の代表として出ることになるのが普通である。
しかし、今問題となっているのはまさにそこである。サンケイスポーツに記事を引用しよう。
> バンクーバー五輪で表彰台に立ちたい。その一念で国籍変更を決断したフィギュアスケートペアのロシア代表、川口をはじめ、国籍を変更して五輪の舞台に立つ選手は多い。背景には、川口のように五輪への思いもあれば、商業主義の発露など様々だ。
(中略)
> 五輪憲章では、変更前の国で最後に代表になってから、3年経過すれば新たな国の代表として五輪出場は可能。この期間を短縮、解消するには出身国オリンピック委員会の承認が必要だ。
> 07年までスノーボード男子ハーフパイプのロシア代表で今大会はスイス代表として臨むポドラドチコフも、ロシアが了承してのことだ。このほか陸上界では、中東諸国などが豊富な資金を背景に、ケニアなどから長距離選手を“獲得”していることが問題視されており、卓球では中国系選手の多さが懸念されている。
http://www.sanspo.com/vancouver2010/news/100215/oap1002152349001-n1.htm
もし、オリンピックに出場するということに執着する選手が居たら、国籍を変更するくらいそうたいした障壁にはならないだろう。ましてそれが多重国籍の許される国ならなおさらである。
国によって代表枠がある以上突出して得意な競技のある国では、五輪で優秀な成績を収めうるのに出場すらできないという事態も起こりかねない。そのような問題も国籍を変更するという手段で解消できてしまうのだ。
そうなれば、オリンピックは純粋に選手の実力をはかる大会となる。
選手側としてみればそれはメリットにもなるだろう。しかし、見る側はそうではない。
テレビに自国の代表等として現れる選手が自分の国の言葉を話せなかったらどうだろう。宗教や民族、文化が違えば、まして人種までちがっていたらもはやそれは外国人と同じではないだろうか。
その状態でナショナリズムを煽り、興味関心を引きつけられるだろうか。答えはNoである。
これはオリンピックのグローバル化、ナショナル・オリンピックがグローバル・オリンピックへと変貌を遂げる問題なのだ。
このとき、オリンピックは今までと同様の大会として機能できなくなる。おそらく、何らかの策を講じねばならなくなるだろう。
それが、国籍変更出場に制限を課すものであるか、逆にオリンピック自体を変革させるものであるかは分らない。だが、現在このオリンピックという大会が岐路に立たされているという事実だけは変わらないのである。















