私の記事をお読みいただく前に、
私の
プロフィールをご覧ください♪

 

裕福な家庭に生まれ、何不自由ない生活を送っていた少年。
しかし祖父の死をきっかけに家族は崩壊し、離婚、転校、貧困。
兄たちが順調な人生を歩むなか、劣等感と孤独に苦しむ日々。

そんな僕を救ったのは、歴史の授業で出会った『三国志』だった。
「俺も旗を立てたい」——そう思った20歳の春。
僕は衝動的に中国行きの飛行機に乗った。片道切符、行き先も、目的もないままに。

お付き合いくださいませ🌟^ ^

 

その日、蒸し暑い上海の夜。
僕はいつものように、志を共にする仲間を

探して復旦大学の周辺を歩いていた。

 

復旦大学――

中国を代表する名門校であり、

特に日本人留学生にとっても憧れの地。

僕はこの街で「次のステップ」へのきっかけを探していた。


そんなとき、偶然耳にした情報がすべてを変える。

 

「復旦大学の近くで、日中交流会

があるらしいよ。ピザ屋でやるってさ。」

 

ピザと交流。なんと魅惑的な組み合わせだろう。

僕は迷うことなく、情報を頼りに現場へと向かった。

 

 

🍕 ピザの香りと、不思議な重圧


会場はこぢんまりとしたピザレストラン。
中には中国人学生と日本人留学生が入り交じり、

笑い声と乾杯の音が響いていた。

 

その喧騒の中で、異様な存在感を放つ男がひとり。

明らかに違う。背が高いとかそういうレベルじゃない。

 

身長は180cmを超える堂々たる巨体。
姿勢はピンと伸び、スーツのシルエットがよく映える。
落ち着いた眼差しの奥には、国を背負ってきた重みが宿っていた。



🌏 その男、李氏。国際連合のナンバー2

 

彼の名は李(リー)氏。
国際連合において、ナンバー2の座にいる人物。

 

けれども、その肩書きを鼻にかける様子は一切なかった。

 

むしろ、日本に深い敬意を持ち、日本語も堪能。
言葉遣いは丁寧で、声は低く、優しい。
まるで、世界を見渡す“グローバルな紳士”そのものだった。

 

彼が手にしたワイングラスに少しだけ注がれた赤ワインの色が、
その夜の記憶を今もなお鮮やかにしている。

 

 

🍷 意気投合、そして朝まで語り尽くした夜

 

僕はすかさず近づいた。

 

「こんばんは。日本から来たジェッターです。

お話、ぜひ聞かせてください。」

 

彼は微笑みながら、流暢な日本語でこう言った。


「ようこそ、上海へ。君のような若者と話すのが、

私の楽しみなんだ。」

 

そこから先は、もう止まらなかった。

 

政治、経済、教育、民間交流――
ピザのチーズが冷めていく間に、

僕らの会話はどんどん熱を帯びていった。

 

彼の話は常に「未来」を見ていた。

 

「国家間の関係は、官僚や政治家だけで築くものではない。
本当の信頼は、市民と市民、若者と若者が築くんだよ。」

 

彼の言葉に、僕は完全に惹き込まれた。

 

🌟 そして僕の未来が、少し変わった

 

その夜は、まさに“運命の夜”だった。
李氏と肩を並べ、朝まで語り合った時間は、

僕にとって何にも代えがたい「扉」だった。

 

後日、彼からは国際系の会議の案内が届くようになり、
“日本と中国の若者をつなぐ架け橋”としてのチャンス

が舞い込んでくる。

 

僕はまだ無名の一学生だった。
でも、情熱と行動力が、国連の巨人の心を動かしたのだ。

 

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しかし祖父の死をきっかけに家族は崩壊し、離婚、転校、貧困。
兄たちが順調な人生を歩むなか、劣等感と孤独に苦しむ日々。

そんな僕を救ったのは、歴史の授業で出会った『三国志』だった。
「俺も旗を立てたい」——そう思った20歳の春。
僕は衝動的に中国行きの飛行機に乗った。片道切符、行き先も、目的もないままに。

お付き合いくださいませ🌟^ ^

 

“たった一枚の名刺が、人生を変える”


そんな言葉を初めて信じたのは、

異国の食卓だった。

 

 

🍜 小籠包と名刺と、未来の匂い

 

中国で日本語教師として生き始めて3ヶ月。

気がつけば、生徒たちの家に招かれる日々。

餃子パーティーの隣に、証券会社の社長。

火鍋の向かいに、不動産王。

鍋を囲むたび、名刺が増えていく。


気がつけば――名刺は100枚を超えていた。


しかも、ただの100枚じゃない。

全員が中国の一線で戦う社長たちだ。

 

これを「偶然」と言ってしまえば簡単だ。

でも違った。これは、自分自身が“信用”と“立場”を

築いた結果だった。

 

 

🗾 帰国、そして名刺で切り拓く日本

 

「よし、次は日本だ。」

 

この人脈を武器に、日本側の扉も開けるべきだと。
まずは、自分の名刺を作成。

 

“上海で日本語学校を経営”という肩書を添えて。

 

そして、乗り込んだのは経営者交流会。

最初は誰も知らない若者。

でも僕には僕のやり方があった。


スーツの内ポケットから、

束になった中国の名刺を取り出す。


「僕、中国で日本語学校をやってまして、

すでに中国の社長の名刺が100枚以上あるんです。」


その瞬間、会場の空気が変わる。


「えっ?100枚?」
「若いのに行動力すごいな…」
「上海で学校を…?マジか。」


気がつけば、交流会の最後には日本の名刺が

100枚超え。行動と実績が、“年齢の壁”を

ぶち壊していった。

 

 

🇨🇳 再び中国、そして人脈はスパークする

 

僕は、その日本で得た100枚の名刺を

再び中国に持ち帰った。

 

そして、火鍋の湯気の中、また名刺を広げる。

 

「今度は、日本側の企業名刺が100枚増えました。」

 

中国の経営者たちの目が光る。

 

「なんて若者だ…」
「日中合わせて200枚?!」
「これは、まさに生きたネットワークだ!」

そこで生まれたのが、

**人脈が人脈を呼ぶ“両輪構造”**だった。

 

僕が動けば、名刺が舞い、人がつながり、

そしてビジネスが動き始める。

 

🚢 動き出したのは「貿易」

 

ジャンルは、貿易が中心。
でもただの物流ではない。
 • 中国側:物を持っているが、日本に販路がない
 • 日本側:仕入れ先がなく、新しい市場を探している

僕はその間に立ち、まるで文化の翻訳者であり、

ビジネスの導火線のように動いた。



💡 ゼロからイチをつくる男

 

僕はこの頃、

自分の中に「確信」を得た。

 

“実績がなくても、行動さえすれば、

人も、未来も動かせる。”

 

学歴も、資金も、人脈もゼロだったあの日。

でも今は、名刺という証明書を両手に抱えた

ビジネスアーティスト。

 

それが、あなたの新しいスタートだった。

 

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日本語教師になって数ヶ月。
教室では笑いとチョークの粉が舞い、

生徒たちの「先生!次回いつですか!」

の声に嬉し涙…

 

——って言いたいとこだけど、

実はそれ以上に、**とんでもない“副産物”**があった。

 

それが…「ご飯のお誘い」。

 

 

【え、今日ウチ来ない?】

 

授業が終わったある日。

生徒の一人、ジンくん(仮名)が、ふいに言った。

 

「先生、今夜、うち来ませんか?母が料理を作って待ってます。」

 

え?

家庭訪問⁉ ご飯付き⁉

 

日本だったら不審がられそうなこの提案。

でも中国では、“仲良くなったら家に呼ぶ”のが普通なのだ。

しかもそれが、一回二回じゃない。ほぼ毎週ごちそうツアー。

 

 

【テーブルの上は…家庭料理、

テーブルの下は…ビジネスチャンス】

 

招かれた家の多くは、普通の家庭…かと思いきや、

実は裏で経済を回している企業オーナーや不動産投資家、

証券会社のトップだったりする。

 

鍋を囲んでると思ったら、気づけば投資の話になり、

「日本と中国、ビジネスできませんか?」

という言葉が飛び交うようになった。

 

そう、僕は気づいてしまった。

 

**日本語教師という肩書は、言語を教えるだけでなく、

“信頼を得るための最強の武器”**だったのだ。

 

 

【先生という看板が人脈の扉を開く】

 

「うちの子が先生にお世話になってるから…」

 

その一言が、どれほどの信頼を生むか。
 • 不動産会社の社長のコネで、上海の高級住宅街に知り合いが増え
 • 投資家の父から、中国株や人民元の裏話がポロリ
 • 輸出入をやってるお母さんと一緒に、貿易の世界へ片足イン

 

「教える」ことが、いつの間にか「信頼される」ことに繋がり、
それが「ビジネスのきっかけ」に変わっていく。

 

先生という仮面の裏にあった、“ビジネスマンとしての本能”

 

僕は、教壇の上で“教える”と同時に、
食卓の上で“聞き出し”、信頼を築き、人脈を繋ぎ始めた。


「教育を入り口に、ビジネスを築く」

そんな未来が、ほんのり見え始めていた。

 

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しかし祖父の死をきっかけに家族は崩壊し、離婚、転校、貧困。
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“生徒1人”から始まった日本語教室。

 

それはまるで、砂漠に1滴の雨が降った

ような出来事だった。しかし、そのたった1滴が、

想像を超える波紋を呼ぶことになる——。

 

翌週。僕が教室に向かうと、教室のドアの前に

3人の中国人学生が立っていた。

 

え…なにこの急展開。

どうせまた「炊飯器の試食会」とか勘違いしてない?

と思ったら、先週の彼女が友達を連れてきてくれてたのだ。

 

「日本語、めっちゃ面白いって聞いたよ!」

「先生(←俺のこと)がおかしいって!」

 

いや、褒めてんのかバカにしてんのか分からんけど、

とりあえず“おかしい先生”として噂になったらしい。

 

ありがたき不名誉。

 

【増える生徒、パニック授業】

そこからは、まさに雪だるま式。

 

「あの変な日本人の授業、行ってみたら?」

という謎の口コミで、1人が3人、3人が5人、

5人が7人と、毎週人数が増えていった。

 

ある日など、教室のイスが足りずに、

生徒が教室の後ろで正座して受講してた(←どこの道場だよ)。


【先生との距離も“グッ”と縮まる】

 

生徒の数が増えるほど、先生たちの目も変わってきた。

 

最初は「よくわからん日本人が何かやってるな」くらいだったのに、
いつの間にか職員室で「最近、日本語クラス人気ですね〜」と話題に。


ある日、中国人の先生がこっそり言ってくれた。


「…実は、うちの学校、日本語部門も作りたかったんです。

でも人手がなくて」
「あなた、続けてくれませんか?」

 

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 

ついに…ついに……!

“空き教室で勝手に始めた非公式講座”が、
公認クラスに昇格する日がやってきた。



「旗」は、ひとりで立てるものじゃない。

 

生徒がいて、応援してくれる先生がいて。
僕は、日本語教師として少しずつ“先生っぽく”なっていった。


授業の準備に追われ、夜はコンビニ弁当。
黒板にチョークの粉を飛ばしながら、生徒たちと笑っていた。
完璧じゃないけど、誰よりも本気だった。


そして何より、僕の心にはいつも、

あの一人目の生徒の笑顔が残っていた。

 

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待ちに待った日本語教室、記念すべき第1回。

教室に入ると、なんとそこには生徒ゼロ人――。

 

…って、オイ‼

 

先生に泣きついたところ、「掲示板に貼ったけど、

誰も申し込まなかったみたいですね」とのこと。

そんなもん、掲示板の横に炊飯器置いといた方が

人集まるわ!!

 

だがここで、奇跡が起きた。

 

遅れてひょっこり顔を出した女の子が一人。

「你好,我想试试学习日语~」

 

おおぉっ!これは神様がくれた

“たった一人のチャンス”!

 

「い、いらっしゃいませっ!」と気合が空回りし、

ついコンビニ店員みたいな挨拶で迎えてしまう。

もう恥ずかしい。顔が火を通り越してフライパン。


でも、彼女はニコニコして座ってくれた。

そこから、授業という名の…カオスが始まった。

 

1時間の授業は、涙が出るほど笑って、

言葉の壁を乗り越えて、

 

まるで二人だけの秘密基地のようだった。

 

そして最後、彼女が言った。

「今日はとても楽しかった。また来ていいですか?」

 

その瞬間、僕は心の中で小さく旗を立てた。

“生徒、1名獲得。”

誰かの人生に、ほんの少しでも影響を与えられた気がした。


こうして、日本語教室は正式にスタートを切った。

まだまだ先は長い。でも、僕にはもう仲間がいた。

たった一人でも、その一歩が、全ての始まりになるのだ。

 

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しかし祖父の死をきっかけに家族は崩壊し、離婚、転校、貧困。
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そんな僕を救ったのは、歴史の授業で出会った『三国志』だった。
「俺も旗を立てたい」——そう思った20歳の春。
僕は衝動的に中国行きの飛行機に乗った。片道切符、行き先も、目的もないままに。

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「日本語学校を作る!」
そう高らかに宣言したはいいものの、

現実は残酷だった。

 

資金ゼロ。人脈ゼロ。

そもそも日本語を教えたこともない。

 

——おいおい、詰んでるじゃねえか俺。

 

しかし転んでもタダでは起きないのが、

僕という男である

(※当時はまだ気づいてなかったが)。

 

作戦変更だ。学校がないなら、

まずはどこかの学校に潜り込めばいい。

 

というわけで、僕は地元の金融専科学校という

大学にしれっと入学した。(※あの有名な復旦大学の

近くであった、これが後に功を奏す)

 

もちろん、最初は言葉なんて一ミリもわからない。

授業中、先生が何か尋ねてくるたびに、

 

「ハイ!アイムジャパニーズ!」と返していた。

 

それが果たして肯定か否定かもわからない。

もはや反射神経ゲームだ。

でも、そこで気づいた。
「わからないことを堂々と答える力」って、

意外と先生にウケる。

そして僕は思った。

 

この先生たちと仲良くなって、彼らの懐に忍び込めば、

校内に“日本語教室”をこっそり作れるんじゃないか?

いわば、学内クーデター計画である。

 

さっそく放課後、先生のところに突撃した。

「老师、我有一个主意!一起搞个日语教室吧!」

 

すると先生は、怪訝な顔で一言。

「你在说什么?(何言ってんの?)」
はい、完敗。発音が全然ダメだったらしい。

 

でも僕はめげなかった。

なぜなら…そもそも慣れてるからだ。

 

この人生、踏んだり蹴ったりされてナンボである。

むしろ軽く小突かれるくらいがちょうどいい。

 

それからというもの、

僕は毎日放課後に先生の荷物を持ち、

わざとらしく手伝いを申し出ては、

 

「先生〜今日もいい天気ですね〜」

と片言中国語で話しかけ続けた。

 

いわゆる“押しかけ助手”である。

ある日、ついに先生が根負けして言った。

「…じゃあ、交流イベントで試しに日本語教えてみたら?」

 

やったーーー!!

 

心の中でガッツポーズ。しかもその場でジャンプしたら、

教室の天井に頭をぶつけた。

…痛い。でも嬉しい。

 

こうして、貧乏・素人・ガッツだけの日本人が、

中国語学校で“日本語クラス”を立ち上げるという
前代未聞のミッションが、ついに始まったのだった。

――薄曇りの空の下。

重たく沈んだ灰色の雲は、

まるで異国の地に生きる僕の不安を具現化

したかのように、低く垂れ込めていた。

 

その日、僕はたった一人で中国の地に立っていた。

 

遥か彼方、成田空港を飛び立ってから幾時間、

窓の外に流れ去った雲海は今や地上の埃混じりの

空気に変わり、熱気と雑多な匂いが容赦なく

肺に押し寄せてきた。

 

胸に抱えていたものは、未来への微かな期待と、

それに寄り添うかのようにまとわりつく不安、

そして、根拠もない、薄っぺらな自信だけだった。

 

いや、自信と呼ぶにはあまりにも頼りない。

むしろ、それはただの虚勢だったのかもしれない。

 

「……何をすればいいのか……」

 

誰に向けるでもなく、僕は呟いた。

 

目の前には無限に続くような大都市の雑踏。
押し寄せる人波、騒然とした喧騒、車のクラクション、

屋台の呼び込み、意味もわからないまま耳に飛び込ん

でくる異国の言語。

 

それはまるで、音の洪水に飲み込まれるような感覚だった。

 

僕はただ、彷徨った。

 

昼と夜の区別もつかないような眠りと覚醒の狭間で、

地図も持たず、行くあてもなく、ただ歩き続けた。
屋台の灯りが滲む夜の路地、肩がぶつかり合うほどの

通勤ラッシュ、どこへ行っても自分が異物であることを痛感する。

 

言葉の壁は高かった。

耳に届く全ての会話が呪文のように聞こえた。

 

商店の店主、通りすがりの人々、バスのアナウンス、

どこにも自分が介入できる余地はない。

それどころか、視線すら冷たかった。

 

「ここで僕は、何者なんだ?」

 

問いかければ問いかけるほど、心の奥底で何かが軋んだ。

だが、そんな孤独の中で、確かに芽生えた感覚があった。

 

――僕は、日本人なんだ。

 

そんなこと、当たり前のことのはずだった。
けれど、それを痛烈に実感したのは、

ここ中国の片隅に立ち尽くすこの瞬間が、

人生で初めてだったのかもしれない。

 

他人の目に映る自分は、「ただの外国人」。

 

それは、肩書きも、地位も、存在感さえもない、透明な存在。

だけど、その一方で、彼らが僕に貼りつけている唯一のラベル

――それが「日本人」という属性だった。

 

そうだ。この肩書きは、もしかすると…武器になるのではないか?

ふと、頭の片隅でひとつの言葉が脈打つように浮かび上がった。

 

「日本語学校――」

 

胸の奥で、何かが微かに震えた。

 

もし僕が「先生」と呼ばれる立場になれば?
ただの通りすがりの異邦人から、「知識を与える存在」

へと変貌できるのではないか。

 

教える側に立つことで、地元の人々との距離は一

気に縮まるはずだ。

 

敬意、信頼、そして、ほんの少しの優越感

――そうしたものが、否応なく僕の周囲に集まり始めるかもしれない。

 

それは、もはや妄想に近い幻想だった。

けれど、人は追い詰められると、そうした幻想にすがらず

にはいられないものだ。

 

自分には何もない。

 

学歴も、財産も、コネクションも、名声もない。
ただひとつ、胸を張って言えることがあるとすれば、

それは「日本語を話せる」という事実だけ。

 

滑稽か?

 

いや、むしろ悲しいくらいにリアルだ。

 

その夜、僕は安宿の薄汚れたベッドに寝転びながら、

天井の染みをぼんやりと見つめていた。

 

裸電球の明かりが、部屋の隅に奇妙な影を落としている。
壁には誰がいつ描いたのかわからない落書きが、

まるでこの街に取り残された亡霊たちのメッセージの

ように歪んでいた。

 

「……やるしかないか……」

 

小さく、息を吐いた。

放浪していた心が、ようやくひとつの

方向に定まり始めた。

 

それはまるで、暗いトンネルの向こうに、

微かに差し込む一条の光を見つけたような感覚だった。

 

これが、僕の再出発の第一歩になるかもしれない。

だが、その先に待ち受けるのは、果たして光か、

それともさらに深い闇か――。

それを知る者は、まだこの世界のどこにもいない。

はじめまして。
マルチビジネスクリエーターのジェッター

と申します。東京都在住のアラフィフ、バツ2です。

約25年前、20代半ばの頃に単身で中国へ渡り、

5つの大きな事業を成功させました。
その結果、個人で総額10億円以上を稼ぎました。

現在は日本に帰国し、東京を中心に複数の事業を

展開していますが、インターネット上で事業

パートナーを探すためにブログを立ち上げました。

私のブログを読まれて、私にご興味を

持ってくださった男女問わず起業家のお方は、
ご連絡いただけると嬉しいです^^

では、少しだけ私のことをご紹介させてください。
以下、お読みいただますと幸いです。
 





私のジェットコースターのような人生は、

 

幼少期から始まりました。

小学生の低学年の頃、私は大きな一軒家に住んでおり、

何不自由なく暮らしていました。
 

しかし、祖父が亡くなったことをきっかけに、

状況は一変してしまったのです。

(遺産相続のこと)
祖父が亡くなったことで、

ジェッター家は分裂しました。

もともとジェッター家は地主で、

広大な土地と家を所有していました。
 

しかし、時代が進むにつれて、

土地は次第に失われ、

縮小していく歴史がありました。

その理由は、私の先祖が非常にお人よしで、

騙されて土地を奪われてしまったからです。

それでも、残された遺産を巡って

父は兄と激しく争い、坊ちゃん育ちの父は

次第に孤立していきました。
※父は兄と姉の3人兄弟です。

さらに、嫁いだ父の姉も遺産を

狙っていることが明らかになりました。

遺産相続に敗れた父は、精神的なショックから

自暴自棄になり、体調を崩してしまいました。

 

そして、追い打ちをかけるように、

両親は離婚することになりました。

そして、私たちは古びたアパートの

一部屋に住むことになりました。
母と私、次兄の3人で暮らすことになったのです。

 

ちなみに長兄は地方の大学に通っていたため、

なんとかお金の不自由を免れた状況でした。

(兄貴のこと)
ここで少し、私の兄たちについて紹介したいと思います。
私には2歳差で兄が二人います。

二人とも非常に頭が良く、器用で芸術的な

センスにも優れており、小学校時代から展示会で

優秀賞に選ばれることが多かったです。
 

その後、兄たちは20代で最年少で

一級建築士に合格し、先生と呼ばれるような

存在になりました。兄たちの頭脳は本物だと、

改めて私は感じました。

一方で、私は兄たちとは違い、勉強が得意では

ありませんでした。勉強が嫌いで、机に向かうより

外で遊ぶことの方が多かったため、

通知表はいつも最下位でした。
 

そのため、長兄に馬鹿にされることが多く、

ある時、怒って通知簿を破り捨てたこともあります。
その時、大きな劣等感を感じていました。

しかし、私は天真爛漫な性格だったので、

いつもニコニコしていたようです。
幼少期に感じたこと、それは

「普通にしていたらダメだ」ということでした。

小学生の私には、何ができたでしょうか。
何もできなかったはずです。

 

親の相続争いにアドバイスをすることも、

親の離婚に仲裁に入ることもできませんでした。

もちろん、小学生の私にとってはあまりにも無力でした。

しかし、このような環境の中で感じたことは、

現状を変えなくてはならないという思いでした。

普通にしていたら「落ちていく...」と感じ、

そういう感覚に陥っていました。

特に生きていく上で直面したのは、金銭的な不自由でした。
母についていった私たちは、お金がないことで

苦しんだことは言うまでもありません。

その中で培われたのは、

「自分でお金を稼ごう」という強い気持ちでした。

ここで少し、私に影響を与えたことについて
触れたいと思います。
私が特に好きな授業科目は『歴史』でした。


ある時、先生が中国の歴史に登場する三国志の話を

したことがあり、その時に強い衝撃を受けたことを

今でもはっきりと覚えています。

日本の隣にある広大な土地を持つ中華人民共和国。

そこで読んだ「三国志」という歴史小説を通じて

感じたことがあります。

 

この物語は、英雄たちがそれぞれの理念を掲げて

領土争いを繰り広げるフィクションです。

それは、まさに私の先祖である
ジェッター家、土地、一族が縮小
していく様、そして父、兄弟が争う様、


それらが私自身の状況と重なり、

滅びゆくジェッター家や優秀な兄たちの姿と

共鳴しました。強い劣等感を抱えていた私は、

その現実に追い詰められてしまったのです。


あるとき、

私はもうじっとしていられなくなりました。
家族内のドロドロとした争いや、

 

優秀な兄たちの中で肩身の狭い思いをしている現状

に耐えきれず、ついに一つの結論にたどり着いたのです。


「中国で旗揚げしよう!」

 


そう思い立ったら行動は早かったです。
近くにあったカバンに着替えを詰め込み、

その勢いのまま飛行場へ向かっていました。
※これ、本当にリアルなんです。

若干20歳だった頃の私が繰り広げた

三国志ともいえるリアルな物語を、

あなたにお届けします。


冒頭に書いた出来事も事実ですが、

実はこんな経験もしているのです。

→30年前(1994年)に上海で日本語学校を設立!
→国際通信事業で中国全土、イタリア、オーストラリアへ進出!
→国際連合UNDP/TIPS開発局の理事に就任する
→eコマースで中国と日本間の物流会社を発足

次は、ネットでも
三国志のようなドラマをやりたいと思います!

どうぞよろしくお願いいたします!

 

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