まつ再び・・・ -20ページ目

まつ再び・・・

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地震以来、屋根養生に回ったり、家の中を片付けたり、確定申告したり、卒園式に出たりとなかなか仕事に行けなかったが、木曜日から現場に出た。

何かできるんじゃないかと思い巡らしてばかりいるので、アイデアが浮かぶたびに、協会の救援デスクに役立つんじゃないかと電話を手にしてみたり、とりあえず行ってみようって仕事を片付け始めたり、いやいや今は動けないから仕事に集中しようとまた始めてみたり…。

過去の経験が役に立つのか?

現地で目にした、耳にした、嗅いだ、触れた、感じた当時の光景が否が応でも去来する。ブラウン管からは感じることのできない現場ならではの空気感…、そして被災した方々の不安、癒される見込みがないようにも思える悲しみ…


まつにはいくらか災害救援の経験があります。すべてJWの組織がらみですが、その中には要請前に有志で出かけたものもあります。
災害の翌日、建設仲間に連絡が付き、今向かっている、様子を見て連絡するとのこと、その後、被害を受けたKHが救援本部に決まり、奉仕者が集まっていて救援委員会も立ち上げられているものの、現場を査定して救援を組織して段取りを組める人がいないと言っていました。

その夜、会衆の若いBを誘い、彼の大事なランクルにチェーンソーやらジャッキ、ワイヤー、ロープ、救急セット、いくらかの大工工具を満載して暗いうちに出かけました。
日帰りの予定でしたので、とりあえずその日はKHの被害部分の解体を大勢の奉仕者に指示しながら行いました。工具はまつたちが持っていったものだけ。泥に浸かりみんな“よくよく”になってしまいました。ま、そのための工具ですからね。
一度帰還し、その一日後、連泊の準備をして今度は本格的に工具類を、オペルに満載して一人で出かけました。
救援本部となったKHには朝から近隣の奉仕者達がほんとに大勢来てて、組織が大変そうでしたが、まずは被災した家の片付けに手が分けられていきました。

救援委員会のB達とまつを含めた数人は、被害の査定と、人員配置のための調査に被災された家々を回りました。
各家を査定しては、本部に必要な技術者と人員を回してくれるよう、要請したり、すでに業者さんが入っている場合には奉仕者を回して洗浄消毒などの下働きさせる旨交渉したりと、当時現場監督の仕事をしていた経験が生かされました。
まつを案内してくれた地元の若いBは、被災のときいち早く足の悪いお年寄りのSのところに急行し、首まで水に浸かりながらおぶったり担いだりして助けたと言う。
市街地の狭い道の両側に瓦礫がうず高く積み上げられ、異臭を放つ中、オペルのバンパーをこすりながら対向車とすれ違う、何度となく瓦礫にこすったドアミラーはリモートでたたんだまま動かなくなってしまった…。





…まつの経験はどうでもいいが、今回は比べ物にならない。
地震・津波・放射性物質。

被災地から遠く離れていても燃料さえ満足に入手できない。
とりあえずいけるとこまでバイクをトレーラーに積んで出かけて、バイクで回るかとも考えたが、そういえばこちらで用意して出かける燃料にも限りがある。

それにしても、病院から無事帰還したとはいえ、5年生存率が30%を下回ると言われた義母を含む弱りきった3人のがん患者と、けなげに家族の食を支える妻と、不安がっているチビたちを置いて危険な地域に出かけることはできないだろ。
ニュースを見ていると、子供達が聞く。「うちは流されない???」
「お父さんが作ったから大丈夫だよ」  根拠は無いが…。
あれ以来ニュース映像を子供達の前で見るのはやめた。

家族にこれ以上の心痛を負わせることはできない。

沸き立つ熱い想いを封印して、被災地のレポートや、これから救援物資を届けると言うリスナーのメッセージを伝えるラジオのスイッチを切った。

それにしても仕事に集中できない。
仕事仲間や、現場監督達からかかってくる電話のせいもある。
スタンドの情報交換だったり、今後の仕事の話だったり、家族のことだったり…
たわいもない話に貴重な電話回線を使っているのだが…。

こんなときにはみんな誰かと繋がっていたいのだろう。

とりとめもない話に付き合い、話をあわせる。


自分にだってそういう相手が必要だと考える。

手を取り合って助け合う。
そういうところから始まるのだろう。



そして老婆心からの蛇足だが、どんな形の救援であれ、現地に出かける方には、「自分がやりたいからさせていただいている」気持ちをどうか忘れないでいただきたい。