真っ当な高等教育 | JetClipper's Bar

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東京生まれですが、沖縄、多摩ニュータウン、横浜、尼崎、川崎を経て、三鷹市民になりました。

先日、私は高校までの義務教育延長・内容見直しと成人年齢の引き下げをセットで行うべきだとこのブログに書いた。高等教育という点では以前からエンジニアを育成する高専や工科大学のようなものと、そこまで行かない専門職業教育をする学校、生涯教育を目的とするコミュニティカレッジのような短大・地域の公共教育機関、そして国際レベルの教育をする大学にするべきというのが元々の持論だ。

日本では大学・短大に約4割の人が進学するが、大学教育は実務教育ではないので企業としても即戦力としては使えない。また大学教育も実際諸外国と比べて同等とは言い難いレベルにある。英語も第二外国語も使えず、少なくとも専攻したものについてそのまま大学院まで行くとか、専門的な論文が書けるというレベルに達する人はごくわずか。経済学部を出ても経済学の変化をキャッチアップしないからいまだにケインズが正しいと思い込んでいる人がいかに多いか。(そして困ったことにマルクス経済学しか知らない人もまだご存命だ)

本当は初等・中等教育でやるべきなのだが、日本人は言葉の定義や統計の見方、論理思考力、論理をもって議論し、論理的な文書を書くことをやってこなかった。だから専門家同士の話であっても言葉の定義が違っていたり、統計の信憑性に疑義がついたり、これが専門家かという論理を振りかざす低脳もゴロゴロいる。
だからそういう基礎的なトレーニングは義務教育の見直しの中できちんとやっているという前提で話しを進める。

義務教育レベルで論理思考力と科学や学問の体系についてアウトラインを学んでいれば、大学教育の専門基礎教育はかなりレベルを上げることが出来る。また教養という点についても基本的な体系は理解しているという前提で話が出来るようになるはずだ。

今までの大学は極論すれば海外のテキストを翻訳して、それを輪読し、あたかも自分の論理であるかのように論文が書ければそれでよかった。でもそれはコピーでしかなく、自分のロジックというものがない。
うがった見方をすればまるで共産党世界の政治教育と変わらない。党の発表した論文のてにをはを変えて鸚鵡返しで主張すればよいという価値観だ。

本当は大学教育では自らのロジックで問題のレベルを評価してどうあるべきかをきちんと論証できるようになっているべきだろう。出来れば新しいことの取っ掛かりぐらいは論文で書けるというのが望ましいレベルだろう。

また、もっと先になるだろうが、英語で授業をするのが当たり前になるかもしれない。韓国はすでに始まっている。世界中の知見が英語で発表されるならば英語で学んだほうがタイムラグもなくストレートに入ってくるはずだ。

で、大学教育を受けて社会で10年も働けば大学で最低講座の講師を数回できるぐらいの知的レベルは持っているのが当たり前でなければいけない。もっといえば一年間ゼミを持てるぐらいのレベルで当たり前にならなければならない。

その為にどうするべきだろうか。
金太郎飴のように全国の大学を一律同じにする必要はない。大学は世界中から研究資金と教授陣と学生を集めるために大学の理念やビジョンを明確にして、ここでしかないというオンリーワンを目指せばいい。個性がない大学は淘汰されてなくなってもよい。
その為に国は一部の国立大学、たとえば防衛大学や自治医科大学のような特殊な公務員を養成する為の学校や昔の師範学校のような物は残す必要はある。東京大学や京都大学のような旧帝国大学については完全民営化し国から切り離す。
教育の国からの助成はバウチャーでやるのが望ましいと考える。