最近、日本では虐待だと大袈裟に宣伝され、虐待誤認、冤罪、捏造によって、多くの親子、家族が分断され、破壊されている、現在の状況にとても腹が立ちますし、親子の受けた心の傷には、はかり知ることのできないものであると思います。


さて、そこで聖書は、子供の教育をどのようにすべきだと書かれているかに、焦点を当てて参りたいと思います。

訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。(箴言6:23)

子どもを懲らすことを差し控えてはならない。

むちで打っても、彼は死ぬことはない。(同23:13)

あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(同23:14)

 

むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(同29:15)

わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、
私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、
しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、
霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、
懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、
これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。(ヘブル12:5~12)

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今、国会では、特別養子縁組の年齢引き上げや、民法での懲戒権を削除などの審議が行われていますが、それはとんでもないことです。

聖書では、子供に訓戒を与えること、過ちがあれば叱責すること、むしろ叱責をしなければ、子供を愛していることにはならないのだと、はっきりと記されています。


父と子、親子の関係は、神と人間の型でもあるということです。

なので、モーセの十戒で人に対する命令の第一が「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)となっているのです。

それは、親であっても、罪びとのひとりであり、間違った教育やしつけをしてしまうことがあります。例え、そうであっても、子は父に聞き従いなさいと言うことです。これは権威の問題です。

ピリピ
2:22では、このように書かれています。

しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。


親と子の関係は、神と人間との関係と同じ。愛の絆がそこにはある。モーセの十戒の人に対する命令の第一は、「あなたの父母を敬え」です。

また、「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:17、マルコ7:10、レビ記20:9)とも書かれています。

 

また、エペソの手紙6:2∼3でも、「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。