JPのブログ

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ビルは高くなる一方だけれど、人の気は短くなる一方。

高速道路は広くなったけれど、人の視野は狭くなった。

お金はじゃんじゃん使っているが、得るものは少ない。

物は買いまくっているものの、楽しみは少なくなるばかり。

家は大きくなったが家族のかたちは小さくなり、ずっと便利になったのにも関わらず、私たちには時間が無い。

学のある者は増えたが常識がある者はめっきり減り、その道のプロフェッショナルと呼ばれるやつが増える一方で問題は一向になくならない。

薬が増えたのに、病気がなくなる気配はない。

飲み過ぎ、吸い過ぎ、浪費に走る。

それなのにほとんど笑うことはないし、スピードを出し過ぎるし、すぐに怒る。

夜更かしをし過ぎるあまり、朝起きた時にはすでに疲れている。

読書しなくなった分テレビばかり、そして祈ることもめっきり少なくなった。

たくさん物を持つ、その一方で物の価値が目減りする。

私たちはおしゃべりが過ぎる。

愛するということを滅多にしなくなって、いつのまにか憎むことばかりが増えていった。

私たちは生計の立て方は学んだが、生きることを学んでいないのだ。

寿命が増えただけで、真の意味で生きてなどいない。

月まで行けるようになったというのに、隣人とはトラブルばかり。

外側の世界を征服したところで、私たちの内なる世界はどうなんだ?

大規模なことは成し遂げてきたけれど、本当に善いことは未だ達成されていないだろう?

空気を洗浄したぶん魂を汚し、原子核をも支配したが差別は一向に消えない。

たくさん書いているのに多くを学ばず、計画は増えたのに成し遂げられていない。

急ぐことばかりを覚え、待つことを忘れた。

多くの情報を抱えるべくコンピューターを作り、どんどんコピーを生みだしたが、コミュニケーションは減る一方だ。

ファーストフードのおかげで消化は遅く、体ばかりでかくて人格は極めて小さい。

利益利益で人間関係は希薄。

共働きで収入が増えた分離婚も増え、見た目ばかり良い家が増えたけれど、その中は崩壊している。

手軽な旅行に使い捨ておむつ、モラルはなくなり、ワンナイトラブが溢れる。

太り過ぎの体を持て余し、死に急ぐため薬を多用する。

ショールームに物が溢れかえるなか、倉庫は空っぽのまま。

テクノロジーはあなたの元へすぐにメッセージを届けてくれるけれど、読むも読まないも、また消すのだって、今やあなたの指先ひとつですべてが決まる。


今はそういう時代なんだよ。

忘れないで、愛する人と多くの時を過ごすことを。

だってその時は、永遠には続かないのだから。

忘れないで、あなたに畏敬の念を抱く人たちに優しい言葉をかけることを。

だって彼らはすぐに大きくなって、いずれあなたの元を去ってゆくのだから。

忘れないで、側にいてくれる人に温かなハグをすることを。

だってこれがあなたが持っている1番の宝であり、しかもこれをするのに1円もかからないのだから。

忘れないで、愛する人に「愛している」と伝えることを。

そのときどうか、心をこめて。

心からのキスと抱擁は、相手の心をも必ず深く癒してくれるから。

忘れないで、相手の手を握り、共にいる時間を慈しむことを。

だってその人はいずれ、あなたの前からいなくなってしまうかもしれない。

愛するため、話し合うため、そして思いを共有し合うための時間を作って。

そしてどうか、これだけは覚えておいて。

人生は呼吸の数で決まるのではなく、どれだけハッとする瞬間があったかで決まる、ということを。



また、夏がやってきた。


今日も蝉たちが鳴いている。
蝉は7年土の中にいて、生きているのは7日らしい。
すげー命だな。多種多様な世界。おもしろい。




さて。そんな蝉たちが必死に生きている側で、相変わらず毎日がほんとになにもしていない僕がいます。

まぁ全ては自分が決めていること。

自分が決めていることは分かるが、自分が望んでいることなのか。

人生を楽しくするのも、しないのも、自分次第。

何故なのか。どうしてこうなのか。
俺は欲がなさ過ぎるのかもしれない。
やりたいことはあるが、そのやりたいことの為に何かアクションを起こす気になれない。

ほんとはなにがやりたいのか。俺がやりたいことってなんだ。

覚悟を決めたこともなく、なにか一つのことをロクに続けたこともない。

俺には自分の自信に繋がることがこれまで無かったような気がする。


だから島にいったんだ。自分を成長させる為、変える為に。
だが俺はやめた。チャンスを、自分で逃した。
あの時頑張っていれば。3年続けていれば。って後悔しても、もう遅い。


一般的に社会は20代で色んなモノを吸収して、30代でそれらを発揮するのかな。
俺はなにを吸収してきただろう。
旅にしても、季節労働にしても、路上にしても、自分なりに感じることは色々あったし、無駄だとは思っていない。

ただ俺は今まで周りの人に甘え、助けられ過ぎた。だから自分で考えて、動くことをしなくなり、流されて、意思がなかった。

そして気づいたら年を重ねる度に、闇は深くなっていき、光は遠くなるように感じた。

それも自分次第なんだろうけど、時々、全てがどうでもよくなって、生まれてこなければよかったと、早く死んでしまいたいと思う。
そう思う日が、ここ2、3年の間で増えてきていた。

完璧な人間なんていない。
小さな小さな生き物だから、常に謙虚で、感謝していたい。



そんな自分ではあるが、人一倍繊細でもある。周りからはそう思われないが、実際そうなんだ。


もう何年も前のこと。
仲が良かった友達の女の子が落ち込んでいて、俺に相談してきたことがあった。
その内容は確かこんな感じだった。
「ずっと仕事も楽しくないし、彼氏もできないし、自分に全然自信もなくて、毎日本当にしんどくて、私の人生どうなるんだろ」って。

そんな相談に対して、その頃自分が好きで、自分の考えが正しいと思ってた俺はこんな感じでその友達に話した。
「大丈夫や。仕事も嫌なら辞めたらいい。
一人一人違うからこそ、人間は素晴らしいねん。今辛くても、それはまず無駄にはならんし、悩んだり、傷ついたりした分、人に優しくなれるから。少なくても俺はお前って人間が好きやし、一緒にいて落ち着くし、いつでも相談しろよ」って。こんな感じの事を言ったと思う。
俺はその時自分が言ったことに嘘はなかったし、真剣に話も聞いた。


その2週間後。その子は自殺した。

普段から明るい子だった。友達も少ないわけじゃなかったし、容姿もどちらかといえば美人だった。

だからその時俺には分からなかった。なんで死ぬことがあるのか。そんなに辛かったのか。そんなに思い詰めてたのか。
考えても分からなかった。まさか死ぬなんて、想像もつかなかった。
もっと頼ってほしかったし、もっともっと話を聞いて少しでも元気にしてあげたかった。


でも今なら分かる。本当の自分の苦しみは言いたくても、言えない気持ち。
人に会う時はそんな闇をなるべく出さないようにすることも。
そして自殺してしまうことも。今なら分かる。


きっとあいつも人一倍繊細で、何より心から頼れる人がいなかった。
俺に相談をしてきた時、SOSを出してたことに、あの時の俺はそれに気付かなった。
その場で励ましただけ。そんなのは誰にでもできる。薄っぺらい自分だった。

生きるってなんなのか。死ぬってなんなのか。友達とはなんなのか。自分とは。って色々考えた。
答えなんて出ない。人間はすぐに忘れてしまう。

理由は様々だけど、鬱になる人は増えている。
育った環境や、時代や、誰かのせいにしたくなる時もある。
でも辛いと想いながら生きたい人なんて、まずいないんだ。皆強くありたいし、幸せになりたい。

そんな闇の中で生きている人達の気持ちを簡単に理解してくれとは言わないし、まず自分がそんな心境にならない限り、なかなか本質は理解できないだろう。


俺はかつて病んでいる人のことを、正直どこかでバカにして、見下していた。
死にたいなら死ねよとか、仕事辞めたいなら早く辞めろよとか、やりたいことあるならウダウダ言ってないでやれよって。
そう思ってた。でもそんなことは、浅はか過ぎてもう言えない。


ここ数年。俺自身、ちょっとしたバランスが崩れれば、何度も消えてしまいたい衝動に駆られる。
でも少しずつ慣れてきたし、受け入れるようになってきた。

本当にやばい時もあるけど、あらゆる世界や宇宙を想像すること、自然の中に身を置くことで、救われてきたし、不安定こそ宇宙のリズムだから、これからもそんな波はやってくるだろうけど、上手く付き合っていきたい。


そして1番想うこと。
それはやっぱり人は人に傷つき、人は人に救われるんだと思う。
自然や動物、音楽やスポーツ、手芸や読者。
それぞれ好きなことが色々あって、生き甲斐にしている人もいるけど、人間の愛には、俺は何も勝らない気がする。

誰かを本当の意味で救い出すことができるのは、きっと誰かでしかない。


他人にどう思われようが、気にしない。って言ったら嘘になる。
俺は周りの目を気にしてたっていいと思う。それがその時の自分なんだから。

何を言っても簡単に他人は変えれないし、自分がどうありたいかでしかない。

努力や継続や忍耐なんて言うのは人間だけ。まぁそれが人間らしさでもあるのかな。
全てを分かったようにモノを言う人は苦手だ。
自分の考えをハッキリ持って、何事にも自信を持って答えれることはすごいと思うけど、本当に想像できる人は、本当に優しい人は、コレって答えは出せないと思うんだ。

俺はすごい人になりたい。おもしろい人間になりたい。ぶっ飛んだことして、周りをアッと言わせたい。と思ってきた。

でも大切なのは、自分にとってなにが大切かを知ることなんだ。
俺にとって大切なことは、目の前の人に優しくあること、そして喜ばて、笑い合いたい。
それだけで、自分は幸せになれる。




そして、そんな俺も、来年には親になる。

自分の子供は、何より大切に想うだろう。

子供の為に、自分の人生を捧げたいとは思わないけど、ナマケモノの俺にはやることがあった方がいい。

結婚や子供なんて、想定外だったけど、人生なるようにしかならないものってことかな。

全ての出来事には意味がある。


だからさ。まじで。仕事探さないと( ゚д゚)

こんなブログ書く暇あったら、ハローワーク行かないと( ゚д゚)

でも就職とかしたことないけど( ゚д゚)


これからが大変だ。親になるとか信じられんが、時間は待ってくれない。


とりあえず貯金0… お金ください( ゚д゚)


さぁなにしよう。どこに住もう。

直感を信じよう。宇宙は味方してくれる。

今日も生かされている。

自分は発する言葉に気をつけよう。それが思考になって、現実になるから。


まずは、しっかり、呼吸。

現状を変えたくて

行動を変えたり

外見を変えたり

態度を変えたり

引っ越ししたり

イメチェンをしたり

いろいろ変えたくて

変えようとしても

なかなか変えられなくて


周囲も変わって欲しいし

変化を望むなら


言葉を変えるといい

伝え方を変えるといい

表現を変えるといい

言い方を変えるといい

言葉選びをもっとするといい

ニアンスを変えたり

いろいろな言葉を変えてみるといい


人生は言葉を変えると変わってくる


自分も周囲も変わってくる


己の発言がすべての原因で

何を発信しているのか


言葉をまず変えてみると

不思議と周囲は変わってくる


もっと言葉を意識して

自分の目指すところに

自分の夢や希望が叶うような

言葉を選ぶ


どんな言葉を使えばいいかわからないなら

あこがれの人

なりたい人と同じような表現を使うようにするといい

言葉が似れば

発言が似れば

人生も似てくるもの


発言を変える

言葉使いを変える

表現を変える

伝え方を変える

言い方を変えると

人は変わる

心や態度や外見を変える前に言葉を変えれば人は変わり始めるもの


小さなトマトで 小さな玉ネギ 
小さな野菜で 小さな畑で
それで十分なのに それで十分なのに
それなのになぜ それなのになぜ
人は貧しいの 人は貧しいの

がんばって働けば山が死んで行く
がんばって働けば川が死んで行く
がんばって働いても失うばかりなのに
それなのになぜ それなのになぜ
人はがんばるの 人はがんばるの

丸あるい地球に風が吹きぬける
太陽はあつく小鳥たちは歌う
それで十分なのに それで十分なのに
それなのになぜ それなのになぜ
人は悲しいの 人は悲しいの

一人の乞食が村を通りすぎ
何もいわなくても太陽は道にあふれ
何もしなくてもいのちにあふれてる
それなのになぜ それなのになぜ
人はあらそうの 人はあらそうの

太陽にように生きる 
いのちのように踊る
とぶ鳥たちのように 
自由にはばたけよ
自由に歌えよ


俺は近頃俺は近頃路上で弾き語りをしている。
なんのために?お金の為。音楽で生きていきたいという気持ちはまだ俺の中にある。
ただその為に本気で努力なんてしてこなかった。
箱でのライブもほとんどしてこなかったし、音楽仲間もいない。

俺の理想は自分の曲で、たくさんライブをして、仲間もできて、なんとか少しずつ音楽で食べていけるようになっていく。
こんな感じだった。もちろん今でもそれはやれるんじゃないかって思う。

だけど俺はどこかで比べている。自分の好きなミュージシャンと自分を。
そして俺なんかこんないい曲は作れないと思う。
本来音楽なんて比べるものじゃないし、自分がやりたいようにやればそれでいいのかもしれないけど、納得いく曲ってどうすればできるんだろうか。

音楽やってる人はたくさんいる。正直なんだこれってのは多い。
でも本人はそれに納得してやっている。
それでいいんだよな。俺もそうしたいんだけど。。
そんなことを考えてると音楽も楽しくなくなってきて。

でもやっぱり俺は音楽が好き。どんな形であれ、続けていきたい。
そこで俺でもやれると思ったのはギターと場所さえあればすぐに歌える路上ライブ。
ただ路上で自分のオリジナルを歌うわけじゃない。
バスキングといって路上パフォーマンスをしてチップを稼ぐ人達のことをバスカーという。
ミュージシャンだけでなく、大道芸人やマジシャン、ダンサーや絵描きとたくさんのタイプがいる。
見てくれている人達を喜ばせたり、感動させるのが仕事だ。

そんなバスキングを俺がまともに始めたのはここ一年ぐらい。
パフォーマンスとしてはまだまだやけど、バスキングだけで世界を周れる自信はこの一年でついた。実際何人もそれで旅をしている人はいる。

俺はまだ看板やマイクパフォーマンスを使っていないけど、これらを加えたら稼ぎの部分では良くなると思う。
そしてなにより大事なのは場所。それを見極める嗅覚は場数を踏んで磨いていけばいい。
バスキングは稼ぐことが全てじゃないし、素敵な出会いもある。
話しかけてきた女性と仲良くなってその後結婚した人もいるぐらい。
そして俺が思うに1番大切なことは、決してどれだけすごいパフォーマーだとしても、感謝の気持ちは忘れたらいけないってこと。

俺も路上を始めた数ヶ月の間で色んな出来事があった。
全部は言えないけど、美味しいご飯をご馳走になったり、泊めていただいたり、真冬の凍えそうな日にずっと終わるまで聴いてくれる人がいたり、有名人に話しかけられてテンパったり、雑誌の取材があったり、大合唱になったり、めっちゃ歌いながら泣いてしまったりと、路上に出る度に色んなことがあった。
音楽はどこにいたって世界を旅してくれるんだ。だからこそいい歌を歌いたいし、気持ちは込めたい。


でも俺は調子にのって、気がついたら周りを気にしながら歌うようになってた。
この人はお金を入れてくれそうだから歌おうとか、この人は興味なさそうだから歌わないでおこうとか。
そうやってチンケなことをしていると、やっぱり人には伝わるもので、誰も立ち止まらないし、チップも入らなくなった。

これじゃダメだと思いながらも、俺は何度かそんなバスキングを続けてしまった。
もちろん最初の30分真剣に歌って反応が薄ければ場所を移るなり、中断することはいいと思うけど、俺の場合は真剣に気持ち込めて歌う大切さを数ヶ月で忘れてた。


そして新たな場所で、気持ちを切り替えて、久しぶりに路上に出て歌った。一生懸命歌った。
3時間後にはギターケースの中にたくさんのお金が入ってた。これまでで最高額だった。なにより歌うことが楽しかった。


音楽は難しい。でも楽しんでナンボだ。いい歌を歌うには、とにかく自分が楽しむことなのかもしれない。
歌うことをいつまでも楽しめるのか、それは分からない。仮に楽しめなくなったら楽器を変えたり、大道芸をしてもいいと思う。
そんな柔軟さも持ちつつ、路上を続けていこう。

でもやっぱり時々好きなミュージシャンのライブに行くと、あぁやっぱりこっちのスタイルでやりたいんだな。って思うんだけど。。

路上で歌っているのは多くの人が知っている曲がほとんど。歌える曲ならリクエストに答えたり。
それで喜んでもらえたらなによりだ。
何回かCDは出してないのって聞かれたこともある。
やっぱり納得いくオリジナルを何曲か作ってCDにしないとな。

ここ数年ろくに働きもせず、周りに甘えて、留まってきたけど、そろそろ無期限の旅に出ようかと考えている。
俺はすぐに鬱になる性格だ。
でも鬱は「うた」なのだと思うだけでも、少しだけ気が楽になるし、1人勝手に勇気が持てる。鬱でいることに勇気が持てると、「うた」が生まれる。恐れることなかれ。人が年間3万人死んでいて鬱にならない人間の方が機械である。絶望しているのは健全なのではないか。
だから死ぬのではなく歌うんだ。




まだまだ整理しないといけないことがあるけど、まだ見ぬ美しい世界を想えば、高揚してくる自分の心。
好奇心が旺盛な俺は他にもやりたいことがある。
一体どこへ向かうのか。答えはきっと、どこかの風の中にある。



誰もが輪廻転生の途中。その過程でもがきながらも、未来に願望もなく、過去に悔恨もなく、ただただその時を生きていたいな。



あぁ、月がきれいだな。。



鳥が飛んでった
鳥は飛んでったけど
ボクは鳥を見失わなかった
鳥は飛んでったけど
ボクはずっと鳥を見ていた
鳥が飛んでったら
ボクはしばらく
鳥に心をうばわれていた
鳥が見えている間
ボクは
自分を見失っていた
自分を見失っていた







太陽を見るだけ
空を見るだけ
海を見るだけ
星を見るだけ
鳥を見るだけ
花を見るだけ

ただ見るだけ

それがあなたを気づかせる

あなたは太陽や月やバラの花を理解しようとか肯定しようとかしないでしょ?

まず自分の人生も
評価を入れることもなく
ただ見ること
それがあなたを気づかせる

ただ見ることが
あなたを救うことでしょう



ぼくは“遠い自然”という言葉をずっと考えてきた。(アラスカの)北極圏野生生物保護区を油田開発のために開放すべきだと主張するある政治家の行ったことが忘れらなかったからだ。つまり、アラスカ北極圏の地の果てに一体誰が行けるのか、カリブー(トナカイ)の季節移動を一体何人の人が見ることができるのか、そんな土地を自然保護のためのなぜ守らなければならないのかという話しだった。そして彼が言ったほとんどのことは正しかった。アラスカの北極圏の厳しい自然は観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅をみる人もいない。人々が利用できない土地なら、たとれどれだけその自然が貴重であろうと、資源開発のために使うべきではないか。が、私たちが日々関わる身近な自然の大切さと共に、なかなか見ることの出来ない、きっと一生行くことが出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。そこにまだ残っているということだけど心を豊かにさせる、私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である。

▽ 「星野道夫の宇宙」展から

*いつか友人が、この土地の暮らしについてこんなふうに言っていた。"寒さが人の気持ちを暖かくさせる。遠く離れていることが、人と人の心を近づけるんだ"と。

*あらゆる生命が、ゆっくりと生まれ変わりながら、終わりのない旅をしている。

*無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは何と粋な計らいをするのだろうと思う。一年に一度、名残り惜しく過ぎゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数を数えるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれない。

*想い続けた夢がかなう日の朝は、どうして心がシーンと静まりかえるのだろう。

*大切なことは出発することだった。

*人はいつも無意識のうちに、自分の心を通して風景を見る。オーロラの不思議な光が語りかけてくるものは、それを見つめる者の、内なる心の風景の中にあるのだろう。

*自然は時折、物語をもった風景を見せてくれる。いやそうではなく、きっと、僕たちをとりまく風景はすべて物語に満ちているのかもしれない。

*ぼくを見つめているこのハクトウワシは、過去にも未来にも生きてはいない。そんな時間などは存在しない。まさにこの一瞬、一瞬を生きているのだ。そしてぼくもまた、遠い昔の子どもの日々のように、今この一瞬だけを見つめている。

*いつに日か自分の肉体が滅びた時、私もまた、好きだった場所で土に帰りたいと思う。ツンドラの植物にわずかな養分を与え、極北の小さな花を咲かせ、毎年春になれば、カリブーの足音が遠い彼方から聞こえてくる。そんなことを、私は時々考えることがある。

*人間にとって、野生生物とは、遥かな彼岸に生きるもの。その間には、果てしない闇が広がっている。その闇を越えて、人間と野生のクマが触れ合う瞬間があるものだろうか。

*人間も動物も、季節を吹き抜けてゆく風さえも、自然という同じタペストリーの中に織られたそれぞれの糸のような気がしてきた。原野で出会うクマの生命が、自分の短い一生とどこかで絡まっている。

*人は、なぜ自然に目を向けるのだろう。それはきっと、そのクマや小鳥を見つめながら、無意識のうちに、彼らの生命を通して、自分の生命を見ているからなのかもしれない。

*人と出会い、その人間を好きになればなるほど、風景を広がりと深さをもってきます。やはり世界は無限の広がりを内包していると思いたいものです。

*生きるものと死すもの。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。

*風こそは信じがたいほどやわらかい真の化石だ、と誰かが言ったのを覚えている。私たちをとりまく大気は、太古の昔からの、無数の生き物たちが吐く息を含んでいるからだ。

*人間の為でも、誰の為でもなく、それ自身の存在のために、自然が息づいている。そのあたりまえのことを知ることが、いつも驚きだった。

*風の感触は、なぜか、移ろいゆく人の一生の不確かさをほのめかす。思いわずらうな、心のままに進め、と耳もとでささやくかのように。

*この世にいきるすべてのものは、いつか土に帰り、また旅が始まる。

*ひと粒の雨が、川の流れとなりやがて大海に注いでゆくように、私たちもまた、無窮の時の流れの中では、ひと粒の雨のような一生を生きているに過ぎない。

*目に見えるものに価値を置く社会と、見えないものに価値を置くことができる社会の違いをぼくは思った。そしてたまらなく後者の思想に魅かれるのだった。

*頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい…。ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。何も生み出すことにない、だた流れてゆく時を大切にしたい。あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。

*人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど
浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。

*誕生、死、そして再生という無窮のサイクル。木はその一生を終え、地に倒れても、別の形になってさらに生き続ける。きっと、無駄に見える無数の倒木こそが、この森を支える母体なのだろう。

*いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって。写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。人の一生のなかで、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。

*さまざまな人間の物語があるからこそ、美しいアラスカの自然は、より深い輝きに満ちてくる。人はいつも、それぞれの光を捜し求める、長い旅の途上なのだ。


▽ 目に見えないものに価値を置く社会の思想に僕はたまらなく惹かれる。

▽ 十代の頃、神田の古本屋で、ある1冊のアラスカの写真集を見つけた。なぜ、こんな地の果てのようなところに人が暮らさなければならないのか。いったい、どんな人々が、何を考えて生きているのだろう。僕はどうしてもその人々に出会いたいと思った。もし、あの時、あの本を手にしていなかったら、僕はアラスカに来なかっただろうか。いや、そんなことはない。それに、もし、人生をあの時、あの時とたどっていったらただ、限りなく無数の偶然が続いてゆくだけである。人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で無数の人々とすれ違いながら私達は出会うことがない。その根元的な悲しみは、言いかえれば、人と人が出会う限りない不思議さ、素晴らしさに通ずるのだ。

▽ 例えば、アラスカの自然の中で熊がいますよね。熊が一番すごいのは何かっていうと、一撃で人間を倒せるからだと思うんですね。それで、時々熊による事故を新聞で見ますよね。僕はなんかそういう記事を見ると、ほっとする部分もあるわけです。それは、やっぱりまだ、熊に人間が殺されるような自然が残っているってことだとおもうんですよね。熊がどこかにいて、もしかしたら自分がやられるかも知れないという感覚はいろんなことにすごく敏感な気持にさせてくれるんです。

▽ たった一人で森を歩いていると、ふと森に見つめられていると感じることがある。遠い昔、倒木の上に落ちた幸運な種子のひとつがその栄養を吸いながら1本の大木に成長する。長い一生を終え、養木と化した幹に目を近づけると数センチほどの若木の芽が、万に一つのチャンスにかけてびっしりとはびこっている。もりの主人公とは、天空に伸びる生者たちではなく、養木となって次の世代を支える死者たちのようなきさえしてくる。ぼくは、「人間が究極に知りたいこと」を考えた。一万年の星のきらめきが問いかけてくる宇宙の深さ、人間が遠い昔から祈り続けてきた彼岸という世界、どんな未来へ向かい、何の目的を背負わされているのかという人間の存在の意味そのひとつひとつがどこかでつながっているような気がした。けれども、人間がもし本当に知りたいことを知ってしまったら、私たちは生きてゆく力を得るのだろうか、それとも失ってゆくのだろうか。そのことを知ろうとする想いが人間を支えながら、それが知り得ないことで私たちは生かされているのではないだろうか。(森と氷河と鯨)

▽ アラスカっていうのは、自分の一生がすごく短いことを、なんか教えてくれる。でも、別にそれは、そんなに悲しいことでもなくて、なんとなく元気が出てくるような力づけられるような・・・・・。例えば自然を見てて、気持がほっとしたり、何かを感じるってのは熊だからじゃなくて、やっぱりそこに鳥が生きてる不思議さっていうのは、最終的に自分自身が生きてる不思議さなんで・・・・・。

▽ 結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして、最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

▽ ぼくは"遠い自然"という言葉をずっと考えてきた。北極圏野生生物保護区を油田開発のために開放すべきだと主張するある政治家の言ったことが忘れらなかったからだ。つまり、アラスカ北極圏の地の果てに一体誰が行けるのか、カリブーの季節移動を一体何人の人が見ることができるのか、そんな土地を自然保護のためのなぜ守らなければならないのかという話しだった。そして彼が言ったほとんどのことは正しかった。アラスカの北極圏の厳しい自然は観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅をみる人もいない。人々が利用できない土地なら、たとれどれだけその自然が貴重であろうと、資源開発のために使うべきではないか。が、私たちが日々関わる身近な自然の大切さと共に、なかなか見ることの出来ない、きっと一生行くことが出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。そこにまだ残っているということだけで心を豊かにさせる、私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である。(ノーザンライツ)

▽ 風景とは言いかえれば、人の思い出の歴史のような気もする。風景を眺めているようで、多くの場合、私たちは自分自身をも含めた誰かを思い出しているのではないか。誰だって、他人の人生を分かち合うことなんてできはしないように、それぞれの人間にとって、同じ風景がどれほど違って映るものなのだろうか。(ゴンベ)

▽ タンザニア人でごった返す露天の風景を眺めながら、この大陸が抱える悲劇性をふと思った。が、アウトサイダーが決めつける客観的な悲劇性と、そこで日々を生きる人々の想い必ずしも重ならない。「過酷な自然の中で生きるエスキモー」と私たちが思うとき、「過酷な自然」と感じながら生きているエスキモーは、おそらくひとりもいない。きっと、何と豊かな世界に生きている、と思っているだろう。見知らぬ異国にやって来て考えることは、そこで暮らす人々と自分の埋めようのない距離感と、同じ時代に生きる人間としての幸福の多様性である。どれだけ違う世界で生まれ育とうと、私たちはある共通する一点で同じ土俵に立っている。それは、たった一度の人生をより良く生きたいという願いなのだ。そう思ったとき、異国の人々の風景と自分が初めて重なり合う。(ゴンベ)

▽ 旅とは、さまざまな意味において、今自分がいる場所を確認しにゆく作業なのかもしれない。(ゴンベ)

▽ 人と人が出会うということは、限りない不思議さを秘めている。あの時あの人に出合わなかったら、と人生をさかのぼってゆけば、合わせ鏡に映った自分の姿を見るように、限りなく無数の偶然が続いてゆくだけである。が、その偶然を一笑に付するか、何か意味を見出すかで、世界は大きく違って見えてくる。(ゴンベ)

▽ ストーブの炎を見つめていると、木の燃焼とは不思議だなと思う。二酸化炭素、水を大気に放出し、熱とほんのわずかな灰を残しながら、長い時を生きた木は一体どこへ行ってしまうのだろう。昔、山に逝った親友を荼毘に付しながら、夕暮れの空に舞う火の粉を不思議な気持ちで見つめていたのを思い出す。あの時もほんのわずかな灰しか残らなかった。生命とは一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれでる、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。(イニュニック(生命))

▽ いつか読んだ本(「ものがたり交響」谷川雁)にこんなことが書いてあった。"すべての物質は化石であり、その昔は一度きりの昔ではない。いきものとは息をつくるもの、風をつくるものだ。太古からいきもののつくった風をすべて集めている図書館が地球をとりまく大気だ。風がすっぽり体をつつむ時、それは古い物語が吹いてきたのだと思えばいい。風こそは信じがたいほどやわらかい、真の化石なのだ"(イニュニック(生命))

▽ 地球の歴史を振り返るとき、たとえば一億年というタイムスケールは、私たちの想像を超えている。恐竜が滅びたという六千五百万年前さえ、やはりどう考えても手は届かない。しかし、一万年前は違う。人間の一生の長さを繰り返すことで歴史を溯るならば、一万年前は、実はついこのあいだの出来事なのだ。(イニュニック(生命))

▽ この短い時間の間に、私たちがどこまで来てしまったのか、そして一体どこへ向かっているのか。その道は本当に袋小路なのか、それとも、思いがけない光を人間はいつか見出すことができるのか。日々の暮らしに追われながらも、誰もがふと、種としての人間の未来に憂いをもつ時代である。もうすぐ二十世紀が終わろうとしている。きびしい時代が待っているだろう。進歩というものが内包する影に、私たちはやっと今気付き始め、立ち尽くしている。なぜならば、それは人間自身がもちあわせた影だったのだから種の始めがあれば、その終りもあるというだけのことなのか。それとも私たち人間は何かの目的を背負わされている存在なのか。いつかその答えを知る時代が来るのかもしれない。(イニュニック(生命))

▽ グレイシャーベアはついに姿を現しはしなかった。それでよかった。グレイシャーベアがこの世界のどこかにいること、その気配をぼくは感じていたからだ。見ることと、理解することは違う。たとえぼくが餌付けをしてグレイシャーベアをおびき寄せても、それは本当に見たことにはならない。しかし、たとえ目に見えなくても、木や、岩や、風の中に、グレイシャーベアを感じ、それを理解することができる。あらゆるものが私たちの前に引きずり出され、あらゆる神秘が壊され続けてきた今、見えなかったことはまた深い意味を持っているのだ。(森と氷河と鯨)

▽ 人が人を何かの方法で癒すことはできないと思う。そのかわりその苦しみをもった人を見つめながら共にいてあげることはできる。(森と氷河と鯨)

▽ 夜になり、森から少し入った川原で、野営をした。久しぶりに晴れ上がった夜で天井を仰げば、黒い木のシルエットに囲まれるように星空があった。無数の星のまたたきは、時間のもつ意味をいつも問いかけてきた。一万年前の光が今届いているということは、そして無数の星がそれぞれの光年を放っているというということは、綿々と続いてきた宇宙の時間を今一瞬のうちに見ていることなのだ。(森と氷河と鯨)

▽ 自然とは人間の暮らしの外にあるのではなく、人間の営みさえ含めてのものだと思う。美しいもの、残酷なのも、そして小さなことから大きく傷ついていくのも自然なのだ。自然は強くて脆い。人は、なぜ自然に目を向けるのだろう。アラスカの原野を歩く一頭のグリズリーから、マイナス50度の寒気の中でさえずる一羽のシジュウカラから、どうして僕たちは目を離せないのだろうか。それはきっと、そのクマや小鳥を見つめながら、無意識のうちに、彼らの生命を通して自分の生命を見ているからなのかもしれない。自然に対する興味の行きつく果ては、自分自身の生命、生きていることの不思議さに他ならないからだ。僕たちが生きてゆくための環境には、人間をとりまく生物の多様性が大切なのだろう。(Alaska風のような物語)

▽ 世界とは、無限の広がりをもった抽象的な言葉だったのに、現実の感覚でとらえられてしまうと不安です。地球とか人類という壮大な概念が、有限なものに感じてしまうどうしていいかわからない淋しさに似ています。(旅をする木)

▽ 私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。動物たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。つまり、この世の掟であるその無言の悲しみに、もし私たちが耳をすますことができなければ、たとえ一生野山を歩きまわろうとも、机の上で考え続けても、人間と自然との関わりを本当に理解することはできないのではないだろうか。人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的に離れてゆくのかもしれない。(旅をする木)

▽ 大人になって、私たちは子供時代をとても懐かしく思い出す。それはあの頃夢中になったさまざまな遊び、今は、もう消えてしまった原っぱ、幼なじみなのだろうか。きっとそれもあるかもしれない。が、おそらく一番懐かしいものは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もないただその一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である。過去とか未来とかは、私たちが勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない。(長い旅の途上)

▽ 幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしようもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ。きっと、私たちにとって、どちらの時間も必要なのだ。さまざまな過去を悔い、さまざまな明日を思い悩みながら、あわただしい日常に追われてゆく時間もまた、否定することなく大切にしたい。けれども、大人になるにつれ、私たちはもうひとつの時間をあまりにも遠い記憶の彼方へ追いやっている。(長い旅の途上)

▽ 子どもの頃に見た風景が、ずっと心の中に残ることがあります。ルース氷河で見た壮大な自然が、そんな心の風景になってくれたらと願います。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり、勇気を与えられたりすることがきっとあるような気がするからです。(長い旅の途上)

▽ 夜の世界は、いやおうなしに人間を謙虚にさせる。さまざまな生きもの、一本の木、森、そして風さえも魂をもって存在し、人間を見すえている。いつか聞いたアサバスカンインディアンの神話。それは木々に囲まれた極北の夜の森の中で、神話を越え、声低く語りかけてくる。それは夜の闇からの呼びかけが、生命をもつ漠然とした不思議さを、真すぐ伝えてくるからなのだろう。僕たちが生きていくための環境には、人間をとりまく生物の多様性が大切なのだろう。オオカミの徘徊する世界がどこかに存在すると意識できることそれは想像力という見えない豊かさをもたらし、僕たちが誰なのか、いまどこにいるのかを教え続けてくれるような気がするのだ。

▽ 遠い子どもの日/おまえはものがたりの中にいた/ところがあるとき/ふしぎな体験をした/町の中でふと/おまえの存在を感じたんだ/電車にゆられているとき/横断歩道をわたろうとするしゅんかん/おまえは/見知らぬ山の中で/ぐいぐいと草をかきわけながら/大きな倒木を/のりこえているかもしれないことに/気がついたんだ気がついたんだ/おれたちに同じ時間が流れていることに(「クマよ」より)

▽ 手が届きそうな天上の輝きは、何万年前、何億年前の光が、やっと今たどり着いたという。無数の星々がそれぞれの光年を放つなら、夜空を見上げて星を仰ぐとは、気の遠くなるような宇宙の歴史を一瞬にして眺めていること。が、言葉ではわかっても、その意味を本当に理解することはできず、私たちはただ何かにひれ伏すしかない。「ルース氷河」(「旅をする木」より)

▽ 引き潮になると、海にくずれ落ちた氷河のかけらが、たくさん浜辺にとりのこされます。のみ水がないので、その氷をわって火にかけ、水をつくりました。ぴしぴしと音をたてながら、氷河の氷は水になります。遠いむかし山にふった雪が氷河となり、それをとかしてのんでいると思うと、ふしぎな気持ちでした。「氷河の海の旅」(『アラスカたんけん記』福音館書店)

▽ この島に人が住んでいた形跡は七千年前までさかのぼるという。そして神話の時代を生きた最後のトーテムポールは、あと五十年もたてば森の中に跡形もなく消えてゆくだろう。そこに刻まれた、どこまでが人間の話なのか、動物の話なのかわからないさまざまな夢のような民話は、彼らが自然との関わりの中で本能的に作りあげた、生き続けてゆく知恵だったのかもしれない。それは同時に、私たちが失った力でもある。人間の歴史は、ブレーキのないまま、ゴールの見えない霧の中を走り続けている。だが、もし人間がこれからも存在し続けてゆこうとするのなら、もう一度、そして命がけで、ぼくたちの神話をつくらなければならない時が来るかもしれない。「トーテムポールを捜して」(「旅をする木」より)

▽ 人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしょうもなく些細な日常に左右されている一方で、 風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。 きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。(「旅をする木」より)

▽ 無窮の彼方へ流れてゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、何と粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数をかぞえるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません。(「旅をする木」より)

▽ 日々の暮らしのなかで、"今、この瞬間"とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは"自然"という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。"内なる自然"との出会いである。何も生みだすことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである。

▽ わずか数メートル横に座っている人の人生を何も知らず、結局知り合うこともないというのは面白いですね。あたりまえのことなのにぼくは見知らぬ土地を旅しているとすぐそんなことを考えてしまいます。

▽ その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を発展させた。それは実に不思議なことでもあった。バスを一台乗り遅れことで、全く違う体験が待っているということ。人生とは人との出会いとは、つきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。

▽ 世界の広さを知ったことは、自分を解放し、気持ちをホッとさせた。ぼくが暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今を生きている世界を相対化して視る目を初めて与えてくれたのだ。

▽ 深い森の中にいると川の流れをじっと見つめているような、不思議な心の安心感が得られるのはなぜだろう。ひと粒の雨が、川の流れとなりやがて大海に注いでゆくように、私たちもまた、無窮の時の流れの中では、ひと粒の雨のような一生を生きているに過ぎない。川の流れに綿々とつながってゆくその永遠性を人間に取り戻させ、私たちの小さな自我を何かにゆだねてさせてくれるのだ。それは物語という言葉に置き換えてもよい。そして一見静止した森、また私たちの知らない時間のスケールの中で、永遠性という物語を語りかけてくれるのかもしれない。

▽ 私はいつしか、目に見えるあらゆるものは、地球という自然が再生しているつかの間の表現物にすぎないのではないかと思うようになった。人間さえその例外ではない。植物が大地から顔を出し、再び土に還ってゆくように。



▼ (番外ですが星野道夫へのある若者の感謝のことばを載せます。僕の気持ちと驚く程一致している。もうしばらくしたら、自分のことばでつむぎます。)

ありがとう。あなたに出会えて、あなたの本に、生き方に出会えて僕は幸福です。僕は今、あなたの言葉のすべてを逃すまいと耳をすませ、あなたの言葉よりも雄弁な写真を、飽かず眺めています。出来ることなら、もっと早く出会い、あなたの言葉をキャッチしたかった。僕の知らないところ、遠いアラスカで生きたあなたの一歩一歩の足跡に想いを馳せたかった。あなたの友人達が出てくる、「地球交響曲第三番」という映画を観ました。誰もがあなたを惜しみながら、あなたの死を冷静にとらえ、肯定し時に笑顔で語る姿は美しく、アラスカに生きる者の覚悟、強さも弱さも知っている姿は脳裏に焼き付いて離れることはありません。あと何年かたてばわかることだけれどきっと僕はあなたに出会う前と後では変っていると思う。それはきっと、僕にとって決定的なことなのです。何がどう変るのかは、わからないけど。今、僕も楽しみにしているところです。
初めて会った人が大体聞いてくること『なにしてるんですか?』
 特に日本人は名前よりも先に職業、肩書きに興味を持つ人が多い。
友達が誰かを俺に紹介する時、俺は旅している奴だったり、音楽している奴ってよく言われる。
別にいい。俺のは肩書きでもなんでもないから。ただ皆がそう言うのがいつもしっくりこない。
こいつはバカだけどいい奴とか。フラフラしてる包茎野郎とか。そんな風に言ってくれる方がいい。包茎じゃないけども。
なにもない自分を大切にしたいし、なにもないその人をちゃんと見たい。

素敵な世の中だ。色んなことに挑戦できて、色んな人に出会える。
便利で活気的な社会は素晴らしいって思えないのはどうしてだろう。
なかなかシンプルにはいかない。
人間は頭が悪くて欲深く、そして弱くて脆い生き物だ。
同情が好きで、妬んで、駆け引きばかりして、何にでもすぐに意味や答えを見出そうとする。
まずは自分の足元見つめねぇとな。

人の知恵は愚かな牙を剥いている。
この瞬間にも誰かが噛み砕かれる。
矛盾だらけで、時代の流れがとても早いけど、時代や環境のせいにはしたくない。俺にかやれないことがあるんですよ。


悪いことすればいつか自分に嫌なことが降りかかってくるとか、生まれ変わりや霊がどうだとか、色々あるけど俺は正直そういうのどうでもいい。
法律なんか破ってもいいし、神様に中指立てたっていいし、誰かを傷つけたっていいだろう。
ただそこに自分が納得しているかどうかなんですよね。
love&bluesですよ。



宇宙の中に小さな小さな星が生きていて、そんな小さな小さな星に自分がいる。俺はそんなことがまだ信じられない。
大きな砂漠の中の一粒の砂の中に、皆がいるんですよ。いや、もっともっと目には見えない中に生きてるんだな。
そんなどこにも辿り着かないイメージこそが、自分自身を救ってくれる。

僕らを生かしてくれているなにかが今も旅を続けてくれている。
全ての灯が星となるその瞬間までは、その旅が終わることはないのかもしれない。

光も闇も、善も悪も、嬉しいもかなしいも、切ないも、喜びもなく。
音もなく、風もなく、痛みや心地よさもなく、豊かさも貧しさも、得ることも失うことも、生も死も、なにもなかった。
元々なにもなかったように、いつかまた全てが無になるのだろうか。

そして俺がそんなことを想ったように、遠い昔に同じことを想った人が、遠い未来に同じことを想う人がいるのかな。そんなこと考えたら自分も周りも愛おしくなった。
そうやって今自分の番を生きてると思ったら、本当に言葉にならない気持ちになる。
まじで色々あるけど、ずっと移り変わってきたんだよな。

辿り着かないゴールがあっていい。

大いなるものに、流されていたい。

そしてこれからも、俺は俺でいたい。





そんなネクラの俺は夜行バスで東京に向かいながらこのブログを書いている。腰痛持ちにはチョベリバだ。
バスで爆睡できる人が羨ましい。
時間だけはあるから小刻みにヒッチハイクで行こうかと思ったが、最近まじでオナラが1日に20,000発は打ち上がるのでヒッチは止めておいた。
バスは金払ってるから15,000発までは遠慮なく点火させてもらおう。
いい加減余裕持ってのぞみ様で行けるぐらいにはなろう。

全財産 8千円也… 世間はもうすぐボーナスかな。僕は顔面に火傷するボーナスをもらいました。なかなか痛いっす。
ぐちゃぐちゃ言ってないで、路上に出よう。



よし。もう今日はいいや!と思ったら乗ってるバスが追突事故…やはり俺の旅はスムーズにはいかない。ありがとう。
誰かコッペパンくれないかな。生きてるからお腹すくんだよ。
てぃやんでぃ‼︎
俺は学校の教室のような場所にいて、窓際の席に座っていた。
他の席にも人がいて、騒がしかった。

少し周りを観察してから、俺は自分の真横にあった小窓を開けた。

そこには海が広がっていた。しかも海面に手を触れることができる程海は目の前にあった。
ポカポカ陽気の眩しい光とそよ風が気持ち良く、水は青く澄んで輝いて、ウミドリが元気よく鳴いていた。
他の皆もそれぞれ楽しそうだった。
ただ俺以外の人には俺が見ているモノは見えていないようだった。
それからも俺は教室の窓からずっときれいな景色を見て心地良さを感じていた。 


そうこうしてると先生らしき人が教室に入ってきた。
俺はまだまだ海や空を眺めていたかったが仕方なく窓を閉めて海に背を向けた。

そして。その先生らしき人がいきなり席替えをしようと言い出した。
え?うそだろ?待ってくれ。それだけは嫌だ。勘弁してくれ。
ただの席替えなのに、俺はもうこの席へは二度と戻れないような気がして、ここから離れてしまったらこの景色が消えてしまいそうな気がしていた。
そう思った俺は怒りを露わにして、席から動くことを拒んだ。
それほど俺にとって今の席は居心地がよくなっていた。

しかし周りには理解されない。俺にしかその景色は見えていないんだから。
皆が席替えを拒む俺を冷たい目で見ているようだった。
仕方がない。ただ最後にもう一度。
もう一度だけ海を見ようと俺は窓を開けて外を見ることにした。



景色は一変していた。
空はスモッグで覆われたように灰色に染まり、海の色はほとんど黒に近くなっていた。
空気が重たくて、風もなく、寒気がした。
自分の目を疑った。あのきれいな景色はどこにもなく、もうこんな海に触れたいとは思わなかった。


すると数メートル先で黒い何かが泳いでいるのが見えた。
よく見ると、それはシャチだった。
俺は興奮してシャチ!シャチがおるぞ!と1人で叫んでいた。
それからも汚い海の中でシャチは俺の目の前を何回も横切っていく。
そしてそいつが急に俺の目の前で止まった。手が届くほんとに側に。
シャチは鋭く、どこか哀しげな眼差しで俺をずっと見つめてきた。
俺も目をそらさずに、ただただジッと見つめていた。
とても、とても静かだった。









そんな不思議な、夢を見た。

旅に出る      ここではない何処かへ
               ここにはないものを求めて


不満だらけの日常     命令と時間に追われ    手に入れる   はかないもの

       
         華やかに飾られた街で   
心を感じることが出来ず  求めても 聞こえない
心が繋がらず  孤独になる心

         身構えて        
 外見を整えて街へ  駆け引きの場所
         装おって      
 誰もが見せない   内面
          飾る          
 心の探り合い  鎧に隠される心  偽りの姿

      閉ざされた
 決められた場所で   冷たいものに囲まれ
       心     
真実の自由を 見失い
はかないものの ために  
擦り減らした自分


      自分を    飾らない心で
 取り戻す   偽りのない真実を求めて
     ために  温かい心と 触れ合える場所へ

                  青空の下
       風を味わい 人を楽しみ
               地の上で 笑う