ぼくは“遠い自然”という言葉をずっと考えてきた。(アラスカの)北極圏野生生物保護区を油田開発のために開放すべきだと主張するある政治家の行ったことが忘れらなかったからだ。つまり、アラスカ北極圏の地の果てに一体誰が行けるのか、カリブー(トナカイ)の季節移動を一体何人の人が見ることができるのか、そんな土地を自然保護のためのなぜ守らなければならないのかという話しだった。そして彼が言ったほとんどのことは正しかった。アラスカの北極圏の厳しい自然は観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅をみる人もいない。人々が利用できない土地なら、たとれどれだけその自然が貴重であろうと、資源開発のために使うべきではないか。が、私たちが日々関わる身近な自然の大切さと共に、なかなか見ることの出来ない、きっと一生行くことが出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。そこにまだ残っているということだけど心を豊かにさせる、私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である。
▽ 「星野道夫の宇宙」展から
*いつか友人が、この土地の暮らしについてこんなふうに言っていた。"寒さが人の気持ちを暖かくさせる。遠く離れていることが、人と人の心を近づけるんだ"と。
*あらゆる生命が、ゆっくりと生まれ変わりながら、終わりのない旅をしている。
*無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは何と粋な計らいをするのだろうと思う。一年に一度、名残り惜しく過ぎゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数を数えるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれない。
*想い続けた夢がかなう日の朝は、どうして心がシーンと静まりかえるのだろう。
*大切なことは出発することだった。
*人はいつも無意識のうちに、自分の心を通して風景を見る。オーロラの不思議な光が語りかけてくるものは、それを見つめる者の、内なる心の風景の中にあるのだろう。
*自然は時折、物語をもった風景を見せてくれる。いやそうではなく、きっと、僕たちをとりまく風景はすべて物語に満ちているのかもしれない。
*ぼくを見つめているこのハクトウワシは、過去にも未来にも生きてはいない。そんな時間などは存在しない。まさにこの一瞬、一瞬を生きているのだ。そしてぼくもまた、遠い昔の子どもの日々のように、今この一瞬だけを見つめている。
*いつに日か自分の肉体が滅びた時、私もまた、好きだった場所で土に帰りたいと思う。ツンドラの植物にわずかな養分を与え、極北の小さな花を咲かせ、毎年春になれば、カリブーの足音が遠い彼方から聞こえてくる。そんなことを、私は時々考えることがある。
*人間にとって、野生生物とは、遥かな彼岸に生きるもの。その間には、果てしない闇が広がっている。その闇を越えて、人間と野生のクマが触れ合う瞬間があるものだろうか。
*人間も動物も、季節を吹き抜けてゆく風さえも、自然という同じタペストリーの中に織られたそれぞれの糸のような気がしてきた。原野で出会うクマの生命が、自分の短い一生とどこかで絡まっている。
*人は、なぜ自然に目を向けるのだろう。それはきっと、そのクマや小鳥を見つめながら、無意識のうちに、彼らの生命を通して、自分の生命を見ているからなのかもしれない。
*人と出会い、その人間を好きになればなるほど、風景を広がりと深さをもってきます。やはり世界は無限の広がりを内包していると思いたいものです。
*生きるものと死すもの。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。
*風こそは信じがたいほどやわらかい真の化石だ、と誰かが言ったのを覚えている。私たちをとりまく大気は、太古の昔からの、無数の生き物たちが吐く息を含んでいるからだ。
*人間の為でも、誰の為でもなく、それ自身の存在のために、自然が息づいている。そのあたりまえのことを知ることが、いつも驚きだった。
*風の感触は、なぜか、移ろいゆく人の一生の不確かさをほのめかす。思いわずらうな、心のままに進め、と耳もとでささやくかのように。
*この世にいきるすべてのものは、いつか土に帰り、また旅が始まる。
*ひと粒の雨が、川の流れとなりやがて大海に注いでゆくように、私たちもまた、無窮の時の流れの中では、ひと粒の雨のような一生を生きているに過ぎない。
*目に見えるものに価値を置く社会と、見えないものに価値を置くことができる社会の違いをぼくは思った。そしてたまらなく後者の思想に魅かれるのだった。
*頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい…。ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。何も生み出すことにない、だた流れてゆく時を大切にしたい。あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。
*人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど
浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。
*誕生、死、そして再生という無窮のサイクル。木はその一生を終え、地に倒れても、別の形になってさらに生き続ける。きっと、無駄に見える無数の倒木こそが、この森を支える母体なのだろう。
*いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって。写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。人の一生のなかで、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。
*さまざまな人間の物語があるからこそ、美しいアラスカの自然は、より深い輝きに満ちてくる。人はいつも、それぞれの光を捜し求める、長い旅の途上なのだ。
▽ 目に見えないものに価値を置く社会の思想に僕はたまらなく惹かれる。
▽ 十代の頃、神田の古本屋で、ある1冊のアラスカの写真集を見つけた。なぜ、こんな地の果てのようなところに人が暮らさなければならないのか。いったい、どんな人々が、何を考えて生きているのだろう。僕はどうしてもその人々に出会いたいと思った。もし、あの時、あの本を手にしていなかったら、僕はアラスカに来なかっただろうか。いや、そんなことはない。それに、もし、人生をあの時、あの時とたどっていったらただ、限りなく無数の偶然が続いてゆくだけである。人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で無数の人々とすれ違いながら私達は出会うことがない。その根元的な悲しみは、言いかえれば、人と人が出会う限りない不思議さ、素晴らしさに通ずるのだ。
▽ 例えば、アラスカの自然の中で熊がいますよね。熊が一番すごいのは何かっていうと、一撃で人間を倒せるからだと思うんですね。それで、時々熊による事故を新聞で見ますよね。僕はなんかそういう記事を見ると、ほっとする部分もあるわけです。それは、やっぱりまだ、熊に人間が殺されるような自然が残っているってことだとおもうんですよね。熊がどこかにいて、もしかしたら自分がやられるかも知れないという感覚はいろんなことにすごく敏感な気持にさせてくれるんです。
▽ たった一人で森を歩いていると、ふと森に見つめられていると感じることがある。遠い昔、倒木の上に落ちた幸運な種子のひとつがその栄養を吸いながら1本の大木に成長する。長い一生を終え、養木と化した幹に目を近づけると数センチほどの若木の芽が、万に一つのチャンスにかけてびっしりとはびこっている。もりの主人公とは、天空に伸びる生者たちではなく、養木となって次の世代を支える死者たちのようなきさえしてくる。ぼくは、「人間が究極に知りたいこと」を考えた。一万年の星のきらめきが問いかけてくる宇宙の深さ、人間が遠い昔から祈り続けてきた彼岸という世界、どんな未来へ向かい、何の目的を背負わされているのかという人間の存在の意味そのひとつひとつがどこかでつながっているような気がした。けれども、人間がもし本当に知りたいことを知ってしまったら、私たちは生きてゆく力を得るのだろうか、それとも失ってゆくのだろうか。そのことを知ろうとする想いが人間を支えながら、それが知り得ないことで私たちは生かされているのではないだろうか。(森と氷河と鯨)
▽ アラスカっていうのは、自分の一生がすごく短いことを、なんか教えてくれる。でも、別にそれは、そんなに悲しいことでもなくて、なんとなく元気が出てくるような力づけられるような・・・・・。例えば自然を見てて、気持がほっとしたり、何かを感じるってのは熊だからじゃなくて、やっぱりそこに鳥が生きてる不思議さっていうのは、最終的に自分自身が生きてる不思議さなんで・・・・・。
▽ 結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして、最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。
▽ ぼくは"遠い自然"という言葉をずっと考えてきた。北極圏野生生物保護区を油田開発のために開放すべきだと主張するある政治家の言ったことが忘れらなかったからだ。つまり、アラスカ北極圏の地の果てに一体誰が行けるのか、カリブーの季節移動を一体何人の人が見ることができるのか、そんな土地を自然保護のためのなぜ守らなければならないのかという話しだった。そして彼が言ったほとんどのことは正しかった。アラスカの北極圏の厳しい自然は観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅をみる人もいない。人々が利用できない土地なら、たとれどれだけその自然が貴重であろうと、資源開発のために使うべきではないか。が、私たちが日々関わる身近な自然の大切さと共に、なかなか見ることの出来ない、きっと一生行くことが出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。そこにまだ残っているということだけで心を豊かにさせる、私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である。(ノーザンライツ)
▽ 風景とは言いかえれば、人の思い出の歴史のような気もする。風景を眺めているようで、多くの場合、私たちは自分自身をも含めた誰かを思い出しているのではないか。誰だって、他人の人生を分かち合うことなんてできはしないように、それぞれの人間にとって、同じ風景がどれほど違って映るものなのだろうか。(ゴンベ)
▽ タンザニア人でごった返す露天の風景を眺めながら、この大陸が抱える悲劇性をふと思った。が、アウトサイダーが決めつける客観的な悲劇性と、そこで日々を生きる人々の想い必ずしも重ならない。「過酷な自然の中で生きるエスキモー」と私たちが思うとき、「過酷な自然」と感じながら生きているエスキモーは、おそらくひとりもいない。きっと、何と豊かな世界に生きている、と思っているだろう。見知らぬ異国にやって来て考えることは、そこで暮らす人々と自分の埋めようのない距離感と、同じ時代に生きる人間としての幸福の多様性である。どれだけ違う世界で生まれ育とうと、私たちはある共通する一点で同じ土俵に立っている。それは、たった一度の人生をより良く生きたいという願いなのだ。そう思ったとき、異国の人々の風景と自分が初めて重なり合う。(ゴンベ)
▽ 旅とは、さまざまな意味において、今自分がいる場所を確認しにゆく作業なのかもしれない。(ゴンベ)
▽ 人と人が出会うということは、限りない不思議さを秘めている。あの時あの人に出合わなかったら、と人生をさかのぼってゆけば、合わせ鏡に映った自分の姿を見るように、限りなく無数の偶然が続いてゆくだけである。が、その偶然を一笑に付するか、何か意味を見出すかで、世界は大きく違って見えてくる。(ゴンベ)
▽ ストーブの炎を見つめていると、木の燃焼とは不思議だなと思う。二酸化炭素、水を大気に放出し、熱とほんのわずかな灰を残しながら、長い時を生きた木は一体どこへ行ってしまうのだろう。昔、山に逝った親友を荼毘に付しながら、夕暮れの空に舞う火の粉を不思議な気持ちで見つめていたのを思い出す。あの時もほんのわずかな灰しか残らなかった。生命とは一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれでる、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。(イニュニック(生命))
▽ いつか読んだ本(「ものがたり交響」谷川雁)にこんなことが書いてあった。"すべての物質は化石であり、その昔は一度きりの昔ではない。いきものとは息をつくるもの、風をつくるものだ。太古からいきもののつくった風をすべて集めている図書館が地球をとりまく大気だ。風がすっぽり体をつつむ時、それは古い物語が吹いてきたのだと思えばいい。風こそは信じがたいほどやわらかい、真の化石なのだ"(イニュニック(生命))
▽ 地球の歴史を振り返るとき、たとえば一億年というタイムスケールは、私たちの想像を超えている。恐竜が滅びたという六千五百万年前さえ、やはりどう考えても手は届かない。しかし、一万年前は違う。人間の一生の長さを繰り返すことで歴史を溯るならば、一万年前は、実はついこのあいだの出来事なのだ。(イニュニック(生命))
▽ この短い時間の間に、私たちがどこまで来てしまったのか、そして一体どこへ向かっているのか。その道は本当に袋小路なのか、それとも、思いがけない光を人間はいつか見出すことができるのか。日々の暮らしに追われながらも、誰もがふと、種としての人間の未来に憂いをもつ時代である。もうすぐ二十世紀が終わろうとしている。きびしい時代が待っているだろう。進歩というものが内包する影に、私たちはやっと今気付き始め、立ち尽くしている。なぜならば、それは人間自身がもちあわせた影だったのだから種の始めがあれば、その終りもあるというだけのことなのか。それとも私たち人間は何かの目的を背負わされている存在なのか。いつかその答えを知る時代が来るのかもしれない。(イニュニック(生命))
▽ グレイシャーベアはついに姿を現しはしなかった。それでよかった。グレイシャーベアがこの世界のどこかにいること、その気配をぼくは感じていたからだ。見ることと、理解することは違う。たとえぼくが餌付けをしてグレイシャーベアをおびき寄せても、それは本当に見たことにはならない。しかし、たとえ目に見えなくても、木や、岩や、風の中に、グレイシャーベアを感じ、それを理解することができる。あらゆるものが私たちの前に引きずり出され、あらゆる神秘が壊され続けてきた今、見えなかったことはまた深い意味を持っているのだ。(森と氷河と鯨)
▽ 人が人を何かの方法で癒すことはできないと思う。そのかわりその苦しみをもった人を見つめながら共にいてあげることはできる。(森と氷河と鯨)
▽ 夜になり、森から少し入った川原で、野営をした。久しぶりに晴れ上がった夜で天井を仰げば、黒い木のシルエットに囲まれるように星空があった。無数の星のまたたきは、時間のもつ意味をいつも問いかけてきた。一万年前の光が今届いているということは、そして無数の星がそれぞれの光年を放っているというということは、綿々と続いてきた宇宙の時間を今一瞬のうちに見ていることなのだ。(森と氷河と鯨)
▽ 自然とは人間の暮らしの外にあるのではなく、人間の営みさえ含めてのものだと思う。美しいもの、残酷なのも、そして小さなことから大きく傷ついていくのも自然なのだ。自然は強くて脆い。人は、なぜ自然に目を向けるのだろう。アラスカの原野を歩く一頭のグリズリーから、マイナス50度の寒気の中でさえずる一羽のシジュウカラから、どうして僕たちは目を離せないのだろうか。それはきっと、そのクマや小鳥を見つめながら、無意識のうちに、彼らの生命を通して自分の生命を見ているからなのかもしれない。自然に対する興味の行きつく果ては、自分自身の生命、生きていることの不思議さに他ならないからだ。僕たちが生きてゆくための環境には、人間をとりまく生物の多様性が大切なのだろう。(Alaska風のような物語)
▽ 世界とは、無限の広がりをもった抽象的な言葉だったのに、現実の感覚でとらえられてしまうと不安です。地球とか人類という壮大な概念が、有限なものに感じてしまうどうしていいかわからない淋しさに似ています。(旅をする木)
▽ 私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。動物たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。つまり、この世の掟であるその無言の悲しみに、もし私たちが耳をすますことができなければ、たとえ一生野山を歩きまわろうとも、机の上で考え続けても、人間と自然との関わりを本当に理解することはできないのではないだろうか。人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的に離れてゆくのかもしれない。(旅をする木)
▽ 大人になって、私たちは子供時代をとても懐かしく思い出す。それはあの頃夢中になったさまざまな遊び、今は、もう消えてしまった原っぱ、幼なじみなのだろうか。きっとそれもあるかもしれない。が、おそらく一番懐かしいものは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もないただその一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である。過去とか未来とかは、私たちが勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない。(長い旅の途上)
▽ 幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしようもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ。きっと、私たちにとって、どちらの時間も必要なのだ。さまざまな過去を悔い、さまざまな明日を思い悩みながら、あわただしい日常に追われてゆく時間もまた、否定することなく大切にしたい。けれども、大人になるにつれ、私たちはもうひとつの時間をあまりにも遠い記憶の彼方へ追いやっている。(長い旅の途上)
▽ 子どもの頃に見た風景が、ずっと心の中に残ることがあります。ルース氷河で見た壮大な自然が、そんな心の風景になってくれたらと願います。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり、勇気を与えられたりすることがきっとあるような気がするからです。(長い旅の途上)
▽ 夜の世界は、いやおうなしに人間を謙虚にさせる。さまざまな生きもの、一本の木、森、そして風さえも魂をもって存在し、人間を見すえている。いつか聞いたアサバスカンインディアンの神話。それは木々に囲まれた極北の夜の森の中で、神話を越え、声低く語りかけてくる。それは夜の闇からの呼びかけが、生命をもつ漠然とした不思議さを、真すぐ伝えてくるからなのだろう。僕たちが生きていくための環境には、人間をとりまく生物の多様性が大切なのだろう。オオカミの徘徊する世界がどこかに存在すると意識できることそれは想像力という見えない豊かさをもたらし、僕たちが誰なのか、いまどこにいるのかを教え続けてくれるような気がするのだ。
▽ 遠い子どもの日/おまえはものがたりの中にいた/ところがあるとき/ふしぎな体験をした/町の中でふと/おまえの存在を感じたんだ/電車にゆられているとき/横断歩道をわたろうとするしゅんかん/おまえは/見知らぬ山の中で/ぐいぐいと草をかきわけながら/大きな倒木を/のりこえているかもしれないことに/気がついたんだ気がついたんだ/おれたちに同じ時間が流れていることに(「クマよ」より)
▽ 手が届きそうな天上の輝きは、何万年前、何億年前の光が、やっと今たどり着いたという。無数の星々がそれぞれの光年を放つなら、夜空を見上げて星を仰ぐとは、気の遠くなるような宇宙の歴史を一瞬にして眺めていること。が、言葉ではわかっても、その意味を本当に理解することはできず、私たちはただ何かにひれ伏すしかない。「ルース氷河」(「旅をする木」より)
▽ 引き潮になると、海にくずれ落ちた氷河のかけらが、たくさん浜辺にとりのこされます。のみ水がないので、その氷をわって火にかけ、水をつくりました。ぴしぴしと音をたてながら、氷河の氷は水になります。遠いむかし山にふった雪が氷河となり、それをとかしてのんでいると思うと、ふしぎな気持ちでした。「氷河の海の旅」(『アラスカたんけん記』福音館書店)
▽ この島に人が住んでいた形跡は七千年前までさかのぼるという。そして神話の時代を生きた最後のトーテムポールは、あと五十年もたてば森の中に跡形もなく消えてゆくだろう。そこに刻まれた、どこまでが人間の話なのか、動物の話なのかわからないさまざまな夢のような民話は、彼らが自然との関わりの中で本能的に作りあげた、生き続けてゆく知恵だったのかもしれない。それは同時に、私たちが失った力でもある。人間の歴史は、ブレーキのないまま、ゴールの見えない霧の中を走り続けている。だが、もし人間がこれからも存在し続けてゆこうとするのなら、もう一度、そして命がけで、ぼくたちの神話をつくらなければならない時が来るかもしれない。「トーテムポールを捜して」(「旅をする木」より)
▽ 人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしょうもなく些細な日常に左右されている一方で、 風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。 きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。(「旅をする木」より)
▽ 無窮の彼方へ流れてゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、何と粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数をかぞえるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません。(「旅をする木」より)
▽ 日々の暮らしのなかで、"今、この瞬間"とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは"自然"という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。"内なる自然"との出会いである。何も生みだすことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである。
▽ わずか数メートル横に座っている人の人生を何も知らず、結局知り合うこともないというのは面白いですね。あたりまえのことなのにぼくは見知らぬ土地を旅しているとすぐそんなことを考えてしまいます。
▽ その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を発展させた。それは実に不思議なことでもあった。バスを一台乗り遅れことで、全く違う体験が待っているということ。人生とは人との出会いとは、つきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
▽ 世界の広さを知ったことは、自分を解放し、気持ちをホッとさせた。ぼくが暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今を生きている世界を相対化して視る目を初めて与えてくれたのだ。
▽ 深い森の中にいると川の流れをじっと見つめているような、不思議な心の安心感が得られるのはなぜだろう。ひと粒の雨が、川の流れとなりやがて大海に注いでゆくように、私たちもまた、無窮の時の流れの中では、ひと粒の雨のような一生を生きているに過ぎない。川の流れに綿々とつながってゆくその永遠性を人間に取り戻させ、私たちの小さな自我を何かにゆだねてさせてくれるのだ。それは物語という言葉に置き換えてもよい。そして一見静止した森、また私たちの知らない時間のスケールの中で、永遠性という物語を語りかけてくれるのかもしれない。
▽ 私はいつしか、目に見えるあらゆるものは、地球という自然が再生しているつかの間の表現物にすぎないのではないかと思うようになった。人間さえその例外ではない。植物が大地から顔を出し、再び土に還ってゆくように。
▼ (番外ですが星野道夫へのある若者の感謝のことばを載せます。僕の気持ちと驚く程一致している。もうしばらくしたら、自分のことばでつむぎます。)
ありがとう。あなたに出会えて、あなたの本に、生き方に出会えて僕は幸福です。僕は今、あなたの言葉のすべてを逃すまいと耳をすませ、あなたの言葉よりも雄弁な写真を、飽かず眺めています。出来ることなら、もっと早く出会い、あなたの言葉をキャッチしたかった。僕の知らないところ、遠いアラスカで生きたあなたの一歩一歩の足跡に想いを馳せたかった。あなたの友人達が出てくる、「地球交響曲第三番」という映画を観ました。誰もがあなたを惜しみながら、あなたの死を冷静にとらえ、肯定し時に笑顔で語る姿は美しく、アラスカに生きる者の覚悟、強さも弱さも知っている姿は脳裏に焼き付いて離れることはありません。あと何年かたてばわかることだけれどきっと僕はあなたに出会う前と後では変っていると思う。それはきっと、僕にとって決定的なことなのです。何がどう変るのかは、わからないけど。今、僕も楽しみにしているところです。