『茶の湯は常の事なり』
という言葉があります。利休以来、茶の湯の心持ちを表した言葉だそうです。
そして,茶の湯が上手になるためには(常の事になるまでは)最低20年、お茶の量なら二、三斤(1斤は、750g)飲んでこそ身につく,という事らしいです。
私は中学1年生の春、茶道教授だった母から、生徒さんが帰った後,突然、無理矢理『割稽古』をさせられ、12歳から結婚迄の12年間、北九州→兵庫→横浜→熊本、と度重なる父の転勤先等でも母が地元の同門会で知り合った茶友達に私を託し、中学高校とクラブ活動にも参加出来ず、週一回のお稽古を結婚まで続けていました。
そして結婚後、とてもそんな芸事が続けられる筈もなく、又母の茶道支配から抜けるため,茶道を完全に捨ててしまいました。(夫も,父親の支配から抜ける為に、結婚と同時に剣道4段を捨てました)そして,2018年秋・・・夫と行った・・・そう、あの京都の茶室で『良心の呵責』に耐えきれず・・・茶室に入れなかった私。
その後仕事を終えた70歳から、母への罪滅ぼしで稽古を復活し3年が経ちましたが、後6年間修行しなければ20年間にはならない計算となります![]()
茶道教授だった母への単なる『罪滅ぼし』でしかなかった私の『茶の湯の世界』への復帰。45年振りに梅田のカルチャーセンターのお茶室に見学に行ったあの日・・・釜の湯沸く音と茶筌通しの音に・・・涙が後から後から溢れて止まらなかったあの日から丸3年が経ちました。
私の心の中で・・・
『私はここにいるべきだったのに、それを捨ててしまった』
という懺悔の気持ちと、
『母の元に、やっと帰って来た。』
という安堵感に満たされた瞬間でした。
長い間,捨て去って来た私の居場所・・・夫には決して見せられなかった私の本来の姿・・・着物を着て通った多くの茶会、無地紋付地模様のある格式の高い着物で、大勢の客人の前で点てた大寄せの大茶会の私。
自分では無い自分を作り上げて、夫にただただ従って来たサバイバルな45年間・・・
オートバイをある日買って来て、これに乗るよう命じられ,バイクに跨ってまるでガスの集金屋さんの様な心地がして惨めな気持ちになったものです。
夫が望む『サバイバルな人生』から、祖母が茶会の為に仕立ててくれた着物と帯を付け『茶の湯の世界』へやっと帰って来ました・・・。
やっと自分で着物を着付けて茶を点てるところまで戻って来ました。着付けもやっとカンが戻って来ています。
今日は、母の茶席用一つ紋付き紫色の無地の着物に、20歳代に祖母が私の為に作ってくれたピンクの帯を合わせてお稽古に行きました。
祖母の、品の良い柄の選び方・・・祖母の誂えた着物や帯は、いずれも質感で選ばれている。
だから,私はメルカリ等画像では買い物が出来ない。自分の目で見て,手触りを確認し、生地の裏側が最重要・・・。
思いがけず皆様に,帯と着物が良く合ってます,と言われ,不思議な取り合わせに感謝しました。



