ARTinsight専属ブロガー後記<宮(きゅう):張緑水(チャンノクス)ストーリー> | 韓国貞洞劇場公式ブログ

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アンニョンハセヨ〜貞洞劇場です乙女のトキメキ
 
今日はARTinsightの専属ブロガーの方の<宮(きゅう):張緑水(チャンノクス)ストーリー>の感想をご紹介します。
以下はhttps://blog.naver.com/rhksfl66/221381693783の翻訳となります。
日本語で分かりやすいように直訳ではありません。
 
 
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<宮(きゅう):張緑水(チャンノクス)ストーリー>並びに映画<オペラ座の怪人>のネタバレがあります。
 
 
私にとってはロマンス、他人には不自然な関係。
私にとっては音楽のソウルメイト、ミューズ、他人にとっては理解できない暴力的な執着。
<宮(きゅう):張緑水(チャンノクス)ストーリー>をみて感じた言い表すことのできない感情が映画<オペラ座の怪人>で形として感じることできる。
 
よく知られているオペラハウスの仮面を被った主人公が
朝鮮王朝の偉大な王と名前を比較することができるのであろうかということであるが、
二人とも理解できない姿を見せるだけでなく、
ファントムと燕山君が見せる感情が不思議であるけれど、少しばかり似ているように感じた。
 
 
”危険なシンデレラ”というコピーフレーズが全くもって”芸妓張緑水”に”危険な”という一面をほとんど見られなかった。
コピー文句は修正する方が良いのでないかというほど、
多分張緑水について知らないのなら、王と恋に落ちた平凡な芸人として見えるほどであった。
ストーリー展開はシンプルである。
 
張緑水は生まれ持った才能で、燕山君のお目にかかり、
宮からの圧迫を我慢するために廃妃尹氏という札を持ち出し入宮した。
燕山君と船遊びなどをして、自由に楽しく日常を送る。
燕山君は廃妃尹氏を失ってからは暴君となったが、張緑水に対しては違った。
燕山君と張緑水を追い出そうとする人々たちから逃げ、
二人はこの世を去り、残った人々たちは、
新しく良い世の中がやってくることを望んだ。
 
単純なハッピーエンディングのせいで、劇場を埋め尽くす多くの外国人観客たちは、
この二人がどうして悪名が高いのか、芸術的にどのようにこの悪名を表現すれば理解されるのか分からない気がした。
 
外国人の方達の目に焼きついたのは異国的な韓国の美しい衣装と踊りだったであろう。
張緑水は特に独舞で卓越した踊りの実力を披露し、他の人たちに負けない才能を確認させることができた。
 
また張緑水が入宮したのち、張緑水が踊りや歌を見せることはなかった。
張緑水が芸妓の中でも飛び抜けていて抜擢され、実力など考えても他の芸妓たちへ多くの影響をもたらしたと思われる。
芸妓たちの中から選ばれて、張緑水が宮へ入ってから、
芸術的な部分で、どのような変化が生まれたのか詳しく描かれてなかったので、残念だった。
 
直接本人が何かをしていなくても、宮の中では芸妓としての姿を表現したとしていても、
芸妓の姿で芸術的な部分をもっと表現すればよかったように思う。張緑水へ斉安大君が歌舞を教えていたように。。
 
張緑水を思い浮かべると疑問が増えた。
なぜ燕山君と船へ乗ることになったのか。
周りの人たちには暴悪し、その者たちから殺されることに対して恐怖はなかったのか。
刀を自分へ刺さないということは考えなかったのか。
張緑水のような韓服のチマの裾が広がるような大胆な人が実際いるか。
宮で権力を持とうと燕山君の深いトラウマである”廃妃尹氏”を武士を使って追いやるという本性は実は毒を持つ女性ではないか。
成功しようと入ったにも関わらず実際の結末を見ては後悔する瞬間があったのではないか。
また色々なことがあっても結局は豪華に傲慢に生きたかったのか。
 
公演を見てもその答えを知ることもなく、逆に考えることや疑問が増えた。
 
 
 
個人的に、答えは映画<オペラ座の怪人>のクリスティンから探すことができた。
 
張緑水にしてもクリスティンにしても1日のうち朝にシンデレラになるケースだった。
ある日、斉安大君の目に留まり、音楽を習い、
才能を今度は燕山君に認められて出世した張緑水。
 
クリスティンも張緑水と同じようにファントムの目に留まり、
自身のミューズとして弟子として才能を開花する人であった。
 
貧しい身分だった張緑水が想像もつかないくらい地位を上げたように、
クリスティンもやはりファントムでないなら実力も恵まれた環境も手に入らなったであろう。
クリスティンは”音楽の天使”として主人ファントムに盲目的に惹かれた。
顔を見ることができなくても、クリスティンの魂はファントムとよく合い、音楽的にも成長できた。
魂を通して”聞こえないことまで聞こえるようになった”というくらいの関係ではないだろうか。
 
ファントムがクリスティンを執着して殺人を犯すなかで、
クリスティンはファントムの拘束感を感じて免がれたいと思い始めた。
それにも関わらず、一方で長年のファントムの苦悩を知っていた。
そこから免れることができないという恐怖とファントムの苦悩を知っているために起こる惻隠、さらにファントムがクリスティンのことを一番よく理解して、音楽的部分では失敗できない責任感が共に共存していたためである。
 
張緑水もやはり燕山君へ同じような感情をもっていたのではないだろうか。
朝鮮時代の偉大な王であったが、自身の母親を失って心に穴の空いた男を哀れに思った。しかし張緑水の踊りと歌を見るときの燕山君の顔は他の時の顔と違ってみえて、二つの顔がある人間だと感じたのではないか。
 
 
さらに燕山君とファントムは1つ共通点がある。
二人とも自身の深い傷が作る狂気という機関車を止めることができなかったと言う点である。問題になることを分かっているにもかかわらずそれを対処できないのだ。
 
燕山君は母親のトラウマとファントムのトラウマは結果自身が愛するものたちを危険に晒した。
 
燕山君にも燕山君がとても大切で従順であった内菅キム・チョソンがいて、ファントムにもファントムを守ってくれるオペラ劇場長の夫人がいた。また自分が愛する張緑水とクリスティンとは長い間一緒にいることができた。一緒にいる方法をを探してみようと努力することもできた。どんな状況であれ、自分のために、彼女たちが存在することを願った。以上のことがこの二人の共通点である。
 
人である反面、人ではない部分もある。彼女たちの芸術的才能を愛していたけれど。それは彼女たち自身を愛しているのではなく、”自分が思う彼女たちの姿”に愛していたと言えることができると思う。
 
 
一方で張緑水とクリスティンが違う結末を迎えるのは二人の選択の違いである。
 
クリスティンはファントムの顔ではなく捻じ曲がった性格のせいでファントムを選ぶことをせず、リウルと一緒に去った。ファントムは魅力的であるけれど、実際クリスティンだけを求めていたのなら、一方的にファントムから音楽を学んでさえいればその場所を維持できた。しかし、クリスティンは執着を拒否し、自由を選択した。
 
一方張緑水は燕山君の曲がった気持ちを自ら抱きしめに行った。
燕山君を変えることはせず、隣にいながら一緒にいることを選んだ。
燕山君の手を離すことはしなかった。思慮に従って自身のスカートを踏むという意味である殺せということは言わなかった。
燕山君へどんなことが起きても無視することはできないという気持ちも変わることはなかった。それは恋人としてでも、人間としても張緑水の選択だった。
そのことが結局張緑水の死に繋がった訳であるけれども、、こうなることは分かっていたことだった。

 
 
ノンバーバルという体の動きだけに集中できるところは良い点だった。
 
序盤は観客の中から2名が選ばれて一緒に舞台で参加する形で、とても面白かった。その場面は韓国語ができなくても楽しめる表現としてとても効果が高かった。
 
一番記憶に残っているのは2つの場面。張緑水と燕山君がそれぞれ宮から圧力をかけられている場面である。張緑水の臣下たちがチャングを使って張緑水に圧迫をかけ、張緑水がチャングを打ちながら逃げてる様子を表現している。一人でたくさんのチャングをたたいて牽制し、打ち勝ちたい思いの場面で、臣下たちが手に持っていた奥義を取り上げて去った。苦悩が一気になくなったように。。。また燕山君が免れないといけないという負担感もここで終わった印象だ。そこが一番好きなシーンだった。ぎっしりと書かれた長い風評の書を四方に広げられて、燕山君の足を動かす場所もなかった。蜘蛛の糸のように燕山君を巻き、臣下たちに四方八方塞がられて身動きも取れず、窒息するような気分が伝わった。

 
 
王冠を持つ燕山君は自身にかかる重圧を耐えたのか。
その王冠の重みで、多くの王たちは地位を奪われた。王が倒れたら、その王の下にいた多くの人たちも共に倒れなくてはならなかった。王の位を望んでなかったとしても、王の位に生まれ、王でなく他の職についても、より良い王になることもあった。多分燕山君はやはりそのうちの1つであったようだ。
全ての権力を持っていたが、実際は一人でできることは何もなかったようだ。権力を抱え何もせず噂が立つなどの言動。母親の死へ関与した父親とそのことを秘密にし沈黙をした王宮にいる人たち。ありえないことでも拒否することもできず、従わないといけないことへの怒りを表さないといけないほどだった。
 
張緑水は王の女性ではなく斉安大君の下で、発掘された芸妓として自由な性格で生きてきたファン・ジニのように記憶されることもあるだろう。
 
 
強い憤りを表現した燕山君とファントムが幸せになることはなかった。
燕山君は廃妃尹氏という存在をなくすことはなかった。反対に勢力を集めて芸術を広めながら自身だけの国を作ろうと試してもみるが。。。
 
ファントムは無理やりクリスティンを拒否するなど一般的な条件を提示し守ることをしない人たちを殺すか、舞台や劇場自体を危険にすることもなかった。自身が作った作品で劇場は日頃過ごす家だと考えていたから。。新しい作品を作らず周りの人々たちが先にファントムを訪れ、作品を作ることもあった。ファントムが必要になればなるほど、周りの人たちはファントムの条件を受け入れたようだ。このように怪奇な怪人の代わりに誰にも変えられない才能ある作曲家として自身を浮き彫りにすることもできた。
 
仕方なかったということもできるが、この二人の選択は省みることできない結果をもたらした。どんなに張緑水が優しく近づいても燕山君は張緑水へ母親の位を渡すことはできなかったように。。たくさんの苦痛に耐えたファントムがどんなに頑張ってもクリスティンがファントムを愛することができなかったように。。。
 
そういう点からも張緑水の結末は少し軽く感じた。張緑水の最後がより悲壮感が表現されればより良かったと思う。張緑水と燕山君を追い出そうと起きた背景に抵抗することはなかった。抵抗しなかったという心情が平穏でない張緑水が選択した燕山君、そして燕山君の選択が人生を終わりにするという残念な選択をした二人のことを表現したらより二人の感情を共感することができたように思う。
 
 
船遊びをした二人が自分たちを捕まえにきた人たちの叫び声を聞きながら、張緑水が燕山君へ話た会話を映画<オペラ座の怪人>の最後の部分でてきた歌<Point of No Return>で想像したら良いような気がする。
ファントムを捕まえるためにそれを知りながらも舞台へ立つクリスティンがファントムと一緒に歌った曲である。暗い中でなく、スポットを浴びた場所で、ファントムとクリスティンが一緒に歌うことが初めてのことだった。自分の正直な部分を見せる感情が現れ、雰囲気としては曲として判断されるだろうが、どんな結果であれ受け入れる感情が伝わった。
 
悪女でもシンデレラでもどのように記憶するかはそれぞれ私たちの気持ちであるが、私の考える芸妓張緑水なら、このような歌を残すのではないだろうか。
 
<Point of No Return>
ポイント ノーリターン
 
Past the point of no return
 
the games we've played till now are at an end
 
 
Past all thought of "if" or"when"
 
No use resisting
 
<省略>
 
Past the poit of no return
 
the final threshold
 
the bridge in the crossed, so stand and watch it brun
 
We've passed the point of no return
 
 
もう引き返すことはできない
振り返ることもできない
今までしてきた戯れは 終わりだ
「もしや」や「いつ」と考える時は過ぎた
抵抗しても意味はない
 
<省略>
 
もう引き返すことはできない
これが最後の一線
もう橋は渡ってしまった
あとは橋が燃え落ちるのを見ていよう
私たちはもう 引き返すことはできない