久々に投稿する。久しぶりに見てみると結構いいねがついていて嬉しいものだ。

 

 

 

さて、理解とはなんだろうか。

人は常々、理解と言語を混同してしまう。

理解できたものは言葉で表すことができると考える人は多い。

だが実際はそうではない。

例えるならば、理解とは風景そのもので、言語とは理解という風景の模写である。

つまり、理解とは言語を伴わないでも起こるものであるのだ。

だから、理解できたものが必ずしも言語化できるとは限らない。

それどころか、理解したものを言語に表すうえで不都合すら起こりえるのだ。

共感できる人も多いのではないだろうか。

ある理解した事柄があったとして、それを紙に書いて他人に伝えようとする。

すると、本来の意味からかけ離れてしまうことはしばしば起こりえる。

これはなぜかと言えば、理解とは風景であり、言語とは理解という風景の模写にすぎないからである。理解というコアイメージは、言語とは一対一対応ではないのである。

だが、言葉での表現を諦めてはならない。なぜなら、言語は人を理知的にし、生活を豊かにしてくれるからだ。だから、誰かに自分の実感を、精一杯説得するつもりで言語化し続けなければならない。

 

ps.少々雑に書きなぐってしまったが、今の私は大変調子が悪いので、こういう記事にでもしないと完結できない。了承いただきたい。