廃ビルから帰ってきた数日後、

当初の目的通り、今度は脇道に反れることなく

街の本屋へ向かった。


そのとき見つけた一冊の本の中に、

あの日、あの人が簡単に書いてくれた地図と住所を

挟んで置いた。


それを本棚から抜き、取り出す。


外は晴れ、

眩しいほどの青空が広がる季節。

ダウンジャケットはまたクローゼットの中に戻った。

替わりに出てきた白のシャツを、黒のタンクトップに羽織る。


出かけよう。


いくつかの脇道を抜けて、

拓けた空き地の続く道へ。

中央線も引かれていない、歩道さえも確保されていない、

普通自動車が2台すれ違うのがやっとの道。

両側には、錆びれた工場の倉庫が疎らに立ち並び、

青く茂った草花を簡単なロープと木製の杭とで囲った空き地が広がる道。


季節が変わると、風景も変わる。


その中にひっそりと建つ、鉄筋コンクリートの廃ビル。

開かれたまま止まった硝子張りの自動扉をくぐり、

非常階段を上る。


あれから、ずいぶんの時が経った。


あの雨の冬の日に、

見たもの、聞いたもの、触れた物、全てが・・・

まるで夢か幻のどちらかであった様な気さえしている。


それでも、

この記憶の中には確かに、あの日の

鼻腔を擽るコーヒーの香りが、眩しすぎる夕日の温かさが、

焼きついていて離れない。


普段は何も思わないのに、

何も無かったように思い出せないのに、

不意に頭の中が空っぽになった瞬間、あふれ出して

全ての思考を満たしていく。



・・・また、あの部屋に、 行って見ようか。



静かに微笑うあの人は、柔らかそうなあの仔猫は、

あの日のように・・・元気にしているのだろうか。



春が好き 春が嫌い

 低かった雲が 空の青に高く散って行くから


春が好き 春が嫌い

 暖まった世界が 溶け出してざわめくから


春が好き 春が嫌い

 鮮やかに 花が彩るから


春が好き 春が嫌い

 溶け出した この心が動き出すから


春が好き 春が嫌い

 あの日の君を 思い出すから


春が好き 春が嫌い

 忘れていた歌を 口ずさむから


春が好き 春が嫌い

 咲き誇る花に 狂わされるから


春が好き 春が嫌い

 なぜか ・・・ そう なぜか ・・・


春が・・・ 春が・・・

柔らかなコーヒーの香りが鼻腔を擽る。


口に含み、一口飲み下す。

不快では無い程度の苦味が舌に広がりそして、

熱が身体の中心を通っていくのを感じた。


「あぁ、美味しい。」


普段なら、絶対にそんな台詞をはいたりはしない。

不思議な程、自然と口をついて出た。


それを見てまた、あの人は微笑う。

「・・・良かった。」


静かに、空気で微笑う人。

その微笑みは、コーヒーの香りよりも柔らかく、身体の中に染み渡る。


じっと見つめていたら、ずっと見つめられていた事に気が付いて、

急に照れくさくなって、

残りのコーヒーを流し込んだ。


何か・・・話題を。


「あの、此処のビルって結構大きいですよね。何回まであるんでしょう。」


「5階建てで、屋上もありますよ。」


「5階・・・貴方のビルなんですか?」


「いえ・・・そうでは無いんですが。

 昔の知人の持ちビルで、今はもう使わないからって言うので、

 無理言って好きに使わせてもらってます・・・2階だけね。」


・・・2階だけ?


「他の階は、どなたか他の方が使われてるんですか?」


「・・・誰も、いませんよ。

 でも、昔使っていた方達の思い出が詰まりすぎていて、

 どうしても踏み入れられなくて・・・。そのままにしてあるんです。」


「思い出、ですか。」


すっかり空になったコーヒーカップの底を眺めながら、

此処よりも上の階に詰まった思い出に、想いを馳せる。


その心を見透かすように、耳元に囁きかけられた言葉。


「気になりますか?」


驚いて、顔を上げる。

目の前にいたはずのあの人が、いない。


カタ・・ン


後ろの扉を開く音。

振り向けば、あの人は扉の外に身を乗り出して、

廊下の割れた窓の外を見ていた。


「雨・・・止んだようですよ。良かったですね。」


「え?あぁ、本当ですか。雨、止んだ・・・良かったです。」


「えぇ。だいぶ日も暮れてきましたけど、大丈夫ですか?

 歩いて来られたんでしょう、帰れますか?」


そうだった、帰りたかったんだったっけ。

というより、道に迷ったんだっけ。

なんだか、そんな出来事がずいぶん昔のことのように感じる。


「すみません、実は道に迷ってしまって。」


聞いてみれば、此処は家からそんなに遠くは無かったようだ。

何度も角を曲がったせいで、Uターンに近い軌道をたどっていたらしい。


ストーブの前にかけられていたダウンジャケットも、

すっかりと乾き、ポカポカに温まっていた。


「じゃぁ、そろそろ帰ります。急にお邪魔して、すみませんでした。

 ・・・っあ、コーヒー代は?」


「珈琲代は、今日はサービスします。 

 ・・・また、入らして下さいね。お待ちしています。」


「それじゃあ、また。」


「お気をつけて。」


銀の扉が閉まる。

暗かった廊下に、紅く眩しい夕日が差し込む。



・・・また。また今度、此処に来よう。

次は、迷わずに、此処に来よう。

「いらっしゃい。そこは寒いでしょう?中へどうぞ。」


光の奥から聞こえた声は穏やかで、

一瞬、ほんの一瞬だけ、

ここへ案内してくれたあの子猫が喋ったのかと思ってしまった。


そんなこと、ある訳ないのに。


眼が光に慣れてきて、ようやく部屋の中を見渡してみる。

入って右側にカウンターが造られていて、作り付けの回転椅子が並ぶ。

反対側は小さな丸テーブルにそれぞれ2脚の椅子が置かれたものが3セット。

奥には、予備の椅子が数脚と小ぶりのピアノが置かれていた。


さっきの声は、右のカウンター奥に佇む人物から発せられたものだった。


長い髪を後ろで一つにまとめ、長めの前髪がセンターで分けられている。

真っ直ぐに見つめる眼には、縁のない眼鏡が掛けられている。


・・・まさに小説か何かに出てくる喫茶店だな。

主人公が通う穴場スポットみたいだ。


「どうも・・・お邪魔します。」


やっと部屋に踏み入れ、扉を閉じた。

本当に暖かい。


「こちらへどうぞ。」


カウンターの一席を指して、その人は勧める。

席に着くと、乾いたタオルと温かなお絞りをそっと差し出した。


「あ、すみません。」


「・・・いえ。髪、拭いて下さいね。」

そう言うと、カウンターの奥からその人は出てきた。

部屋の隅においてあったストーブを近くに運び、こちらへ向けてくれた。

それから、もう一台のストーブの前に椅子の背もたれを向けて置き、

濡れたダウンジャケットを脱がせて、そこに掛けた。


「少しでも乾いた方がいいですからね。」


その人は、そこで初めて笑顔を見せた。


「すみません、突然やってきたのに、そんなことまで。」


「いいんですよ、あの仔が誰かを連れてくるなんて初めてなんです。

 滅多に懐かないから。折角のお客さんは大切にしないと・・・。」


話題の先の子猫は、既にストーブの前で心地よさげに眠っている。


「飼ってるんですか?」


「そうでも無いんですが。

 一階で独りでいるのを見つけて、暫らくミルクを運んでやってたんです。

 そうしたら、だんだんついて来るようになって。

 すっかり自分の家だと思ってるみたいですけど。」


「あぁ、そんな感じですね。」


「えぇ、そうでしょう?

 

 ・・・あ、何か温かい物入れますね。珈琲?紅茶?どちらが宜しいですか。」


「あ・・・じゃあコーヒーを。」


「承りました。」


カウンターの中に戻り、お湯を沸かす。

シンプルな道具と、白を基調とした食器が並ぶ。


「あの・・・。」


「はい?」


「此処は喫茶店を為さってるんですか?」


「えぇ、喫茶店と云うほどでは無いですが。

 趣味の様なものですよ。」


「・・・でも此処では、」


「はい、滅多にお客さんは来ませんね。

 でも、何人かは来て下さるので。

 こちらも、お客さんも、気ままに来てのんびり過ごしていくんですよ。」


「いいですね。」


そんなことを話している内に、

目の前に湯気の立つコーヒーと、

小さな皿に載せられたクッキーとチョコレートが差し出された。