知古嶋芳琉です。

 「気力」を養う養生訓をご紹介します。

私が特に留意しているのは呼吸法で、

スポーツや武道でも要領は同じだと思う経験があります。

出典は安岡正篤師の講話集、

『運命を創る』(プレジデント社)です。

---ここからは引用です---

■ 「気力」を養う養生訓

○ 敏忙人の身心摂養法

<静坐の効用>

 次に、暇があったなら、否、あらゆる機会に

静坐することであります。静坐の功徳、静坐の学理はもう

事新しく説く必要もないと思います。

禅家、神道家、儒家、何流の静坐でも、

それぞれ特徴がありますが、私自身の体験では、

日本人がつくり上げた武士道時代の坐法が

肉体的にも精神的にも一番良いと思います。

私が痔を病みましたとき、日本流の静坐が一番良かったと、

それこそ痛切に体験をしました。

--

静坐には調息が伴います。

息については専門的には深い研究がありますが、

とにかく、

できるだけ息を静かに和やかにすればよいのです。

胎息・踵息というような文字だけでも分かることです。

およそ東洋の学問・芸道で息を論じないものはない。

宗教はもちろんのこと、

剣道・柔道の如き武道でも、

あるいは絵を描くにしても、茶でも花でも、

何をやるにしても息が大切であります。

人と人との関係も「呼吸が合う」と言います。

あれは実に意義の深いことであります。

 日本人の使っている言葉というものは、

我々が何気なく使っている言葉の中に

深い真理が籠もっていることが多い。

下世話にも、「あいつは鼻息が荒い」という言葉がある。

古人の説明によれば、坐り方にも坐法があるように、

呼吸にも法がある。

大体自分の息が人に聞こえるような息、

荒い鼻息は「風」という。

息とは言わない。

息の部類に属さない。

これは健康が悪いか、心が整わないか、いずれかである。

そこで風が少し治まると、これを「喘(ぜん)」と言う。

「喘(ぜん:あえぐこと。苦しそうにせわしく呼吸する)」

も息の部類に入らない。

それは呼吸にどこか無理がある。

なだらかではない。

これがもう少し練れてきて、

よほど落ち着いてきたものを「気」と言う。

それでもまだ息とは言わないのです。

本当の「息」は第四段に至って初めて生ずるものです。

「息」とは、有るが如く無きが如く、

出入綿々として鼻端に鳥の羽毛を当てても動かない

というくらいまでいかなければいけないのであります。

剣道なども少し上達してくれば呼吸で分かる。

相手の鼻息の聞こえるような奴は、恐るるに足らん。

名人になるほど寂然静虚です。

それは上達すれば自ずから呼吸が調ってくる。

スリが警視庁に捕まっていろいろ訊問されたときの話だが、

擦れ違ったとき、

鼻息の聞こえるような奴ならいつでもすれる。

どうも息の分からんような奴は危ない、

と述懐しておったそうであります。

スリ道でも偉いものです。

--

 次いでは「安眠」です。

よく眠ることです。

眠ることならお手のものだと皆思うけれども、

案外そうではない。

身は横になっても、本当に眠っておらない。

ウトウトして、醒睡の間に在るわけです。

本当に眠る時間はごく少ない。

安眠熟睡さえすれば、そう長く寝る必要はない。

質と時とを併せて考えなければなりませぬ。

ことに質であります。

質さえ善く安く眠れば時間はまあ、四、五時間で結構です。

八時間眠ることは贅沢であります。

間にちょっと十分か十五分眠れば足りると思います。

ただ、旅行をしたり、何か特別に疲れた時は

この限りではありません。

熟睡と安眠とも違います。

良心に疚(やま)しいことがあると、

熟睡をしても安眠はしない。

熟睡の前後その根底に絶えず不安があります。

睡眠剤は極力避けるべきです。

入浴とか按摩とか、電気とか光線とか、

あるいは一盃の美酒とかなんとか、

方法を講じた方がよろしい。

平生ネギを食うこと、

ネギの白根がなければ玉ねぎでもよいが、

一番よく効くのはネギの白根、

それを刻んで枕元で香を吸うても熟睡に導きます。

それから血圧の高い者はいけませぬが、

異常のない限り、後頭部に

罨法(あんぽう:身体の一部分に温熱あるいは

寒冷な刺激を加えることによって、

病気の好転や自覚症状の軽減を図る療法)をする、

アルコールでも二、三滴落とせばなおよろしい。

そうすると非常によく眠れます。

--

 次は「六根清浄」ということです。

昔の人が登山をするときに、「六根清浄、六根清浄」という、

六根を清浄にすること実によろしい。

古人の良い体験です。

六根とはいうまでもなく眼、耳、鼻、舌、身、意、

つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と主観の根元です。

その六根、なかんずく眼と口を始終清浄にする。

口の反対が肛門です。

それで肛門を清める。

痔も結局これがよろしい。

本を読む者は眼を洗わねばなりません。

眼を丈夫にするには洗うに限ります。

清水の中に目を開閉し、

あるいは水道の口にゴム管をつけて、水圧を利用して

それで眼を洗う。

最初のうちは眼を開けぬ人が多いが、

眼瞼(まぶた)の上からでもよろしい、

二、三分ずつ両眼を水圧で打たせる。

そのうち楽に開けるようになります。

冷眼熱腸といって、

眼がはれぼったく熱っぽいようでは駄目であります。

トラホームなども結構治癒します。

かくして天眼、法眼など開ければますます妙。

--

 その次には「足腰を冷やさぬこと」。

「足」という字をなぜ「足る」と訓(よ)むか。

手るでたると読みそうに思ったが、

生理・病理の研究で初めて明らかになりました。

手ではたりぬ。

やはり「足」でなければいけません。

足を大切にすれば健康の条件が足ります。

足を大切にする第一は冷やさぬことであります。

足の血液はなかなか肝臓、心臓に還ってこない。

循環が悪くなると足が冷える。

それに足の踝(くるぶし)とか膝頭は、

いろいろの黴菌(ばいきん)が集まる。

どうしても足を善くしなければなりません。

--

 それから、腰は「要」という字を当てはめてあるように、

我々の身体の要(かなめ)で、

腰の番(つが)いが悪くなっておると、

いわゆる「腰抜け」といって、

昔の人が罵(ののし)ったとおり、

もう三十以上になると、

ある程度腰抜けになっておるもんですが、

これから背骨が狂い、

内蔵や頭の具合までいけなくなります。

それに、ここには脂肪の老廃物などが溜まっていけない。 

風呂に入るときも、ザブッと浸かってはいけません。

徐々に沈むこと。

心臓を出して、臍輪(さいりん:世界大百科事典内の臍輪の

言及、【臍】より、臍帯(さいたい)(俗にいう〈へその緒〉)が

胎児に付着していた部分,すなわち臍輪の跡。

臍帯は臍輪によって輪ゴムのようにとりまかれているが,

生後日がたつにつれて,その締めつけが強くなり,

臍帯の中を走る臍動静脈も閉塞し,結合組織化して,

臍帯が脱落する。)

気海(きかい:漢方で、

へその下方1寸5分(大人で約3センチ)の所。

任脈(にんみゃく)に属し、腎炎・糖尿病などの治療点)

丹田(たんでん:伝統中国医学、

東洋医学における関元穴に相当し、

へその下3寸に位置する。意味は気の田のこと)

腰脚足心を温めるのです。

それにはただの風呂より大根の乾葉でも用意して

乾葉湯をつくるのです。

昔の農家は必ずやったものでありますが、

この頃は百姓がそういうことを忘れてしまっております。

大根は何から何まで有り難いものです。

それから足の三里に灸をすえる。

これは非常な効能があります。

昔の諺にも

「三里に灸のない人と一緒に旅をするな」

というほどです。

---引用はここまでです---
 

知古嶋芳琉です。

 よく、頑固な人はガンになると申します。

また、怒りっぽい人は早死にするとも申します。

こういうことは全くの迷信かというと、

意外にもその遠因として、

心理作用が臓器に及び、

例えば、怒りを発すると肝臓や血液や肺を傷める

というような研究の成果も

発表されるようになって参りました。

やっぱり

「病は気から」と言われてきた格言の正しさを

認めざるを得ないことになります。

バランスの取れたホルモンや酵素の分泌が損なわれる

というのですから、しっかりした根拠のあるお話しです。

 大昔の話ですが、

あの『三国志』の中にもこういうお話しがあります。

 軍師:諸葛孔明が、ある戦いの場に臨んだときのこと、

敵味方の軍勢が向かい合って、いよいよ開戦という時に、

昔はそれぞれの軍の大将が、

「やあやあ我こそは・・・」と名乗りをあげたもので、

その時の敵の将軍は

かなり歳を取った年寄りだったという。

そこで、先にその老将軍が名乗りをあげ、

相手の軍勢の戦意を喪失させるために、

悪口雑言の限りを尽くしてこき下ろしました。

これを受けて孔明は、それにも勝る勢いで、

その老将軍をこき下ろしたら、

その老将軍は馬の上で憤死したというのです。

たった罵詈雑言を言われたくらいで、

人間が死ぬかと思うでしょうが、

それは決して大げさな作り話とばかりは言えないのです。

なぜならば、

昔の戦争では、

矢の矢じりには、必ず毒を塗っていたもので、

歴戦の勇士であれば、

何本かの毒入りの矢をその身に受けていたはずです。

その毒とは、

必ずしもすぐに効いて死んでしまうとは限らず、

薬草のお陰で

何とか表面的には傷が治ったかのように見えても、

実は

確実に内蔵を傷めていた可能性があるわけです。

しかも

その毒が内蔵に蓄積され、

度々戦場に出て行っては矢を身に受け、

毒を体内に蓄積することが重なっていたと考えられます。

戦争に行くたびに、毒を飲まされていたようなものです。

しかも、このような毒が体中にまわっておりますと、

薬草で治療をしておりましても、なかなか治らず、

治癒のためには、

決して怒らないように

心掛けなければならなかったと言いますから、

それから推測しても、

あまりにも激しやすい老将軍であれば、

いよいよ開戦という場に立てば、

テンションは最高潮に達しているはずで、

そんなときに罵詈雑言をあびせられれば、

烈火のごとく怒ったことでしょう。

そうなれば、一気に血圧も上がれば、

心臓もバクバクしてくるでしょうし、

内蔵がパニック状態に陥っても少しもおかしくはありません。

したがって、

脳溢血になったり、心臓麻痺も考えられますし、

脳梗塞とか、脳の動脈瘤が破裂するとか、

心肺機能が停止する可能性もありますから、

まんざら馬上で頓死したとしても、

少しもおかしくはないのです。

それから考えてみますと、

諸葛孔明は、そこまで予測していたのではないか、

ダメでもともとだと考えて、

思いっきり悪口を言ってみたのではないか。

あの策士家のことですから、

きっと、それくらいのことは

考えていたのではないかと思うのです。

そうなれば、

目の上のたんこぶみたいなイヤな爺さんがいたら、

何かにつけて怒らせていれば、

勝手に死んでくれますから、

イヤな爺さんを殺すのに

毒も刃物もいらないということになります。

ずいぶんと物騒なお話しになってまいりました。

ここでご紹介するのは、

安岡正篤師の講話集、

『運命を創る』(プレジデント社)からの引用です。

---ここからが引用です---

■ 「気力」を養う養生訓

○ 敏忙人の身心摂養法

<病気をひき起こす十の因縁>

 さてそこで次にご紹介するのが

『仏医経』あるいは

『仏医王経』の中にある健康法です。

「仏は医王なり」という言葉がありますが、

仏は医者の王であると申します。

これは仏が衆生の心を医すこと。

ちょうど医者が病人を救うが如きものであるから

仏を医王と言うと思っていたが、そうではない。

昔、人智の発達しないとき、

人間が精神ばかりではない、

肉体も疾病に悩んで、せんすべも知らなかった。

そこに釈迦を始めとして祖師たちは、

いずれも皆まずもって本当に医者であった。

その次には社会問題の解決者であった。

医者であり、薬師如来であり、

観世音菩薩であったのです。

その仏医王経、仏医経に

「人が病気を得るのに十因縁がある」といって、

十箇条目を挙しております。

まことに守りやすい平明なことです。

 第一、「久坐食わず」ということ。

これは山林仏教のことで、

現代の我々に「久坐食わず」というようなことはありませぬ。

「久労不食」の世になりました。

あるいは「不時而食」

(不規則な食べ方をすること)に改めるとよいでしょう。

 第二、「食不貸」。

たらふく食うこと、何でもいつでも食うことです。

何によらず禍(わざわい)は口より入るものです。

いったい日本人は食いすぎます。

必要以上に胃の中に入れておらぬと済まぬ気がする。

一度飯を抜かすとフラフラするというような者が

少なくありません。

三度三度胃の腑を満たすことが習慣になっておるから、

栄養的には必要がないけれども胃嚢が承知しない。

妙なものです。

食物が常に窮乏している国々では、

たとえば蒙古民族など、実に食べない。

彼(か)の曠野(こうや)に馬に鞭打って

馳駆(ちく:馬を走らせること)している若盛りの男が、

腰の袋に乾飯を入れて、

その一握りを頬ばって羊の乳を飲む程度で済むのです。

それでは日本人より痩せているかというとそうではない。

たくましい肉体をしておる。

我々の細胞は、ある適度な刺激を与えると

自体分化発達していく本能があるのです。

必ずしもたくさん胃嚢に詰める必要はない。

それはかえって有害です。

だから日本人は胃酸過多症や胃下垂が多い。

これは差し当たっての食糧問題ばかりでなく、

根本的に習慣を直さなければならぬと思っております。

私などは時々食わぬ稽古をしております。

友だちでもあるときは仕方がありませぬ、

人情からいっても、食堂に行ってお茶を飲もうか、

食事をしようかということもありますが、

そうでない

唯一人で汽車に乗るときなど、

これ幸いと

一日食わず飲まずに

窓外の景色を見たり

本を読んだりすることがあります。

健康に非常に良いようです。

しかるに見ておると、

日本人は乗り物に乗りさえすれば食う人が多い。

だから日本の乗り物くらい

弁当の折やら蜜柑の皮やら、

いろいろな物が散らかって

汚いものは他国にはないような気がします。

 第三、「疲極」。

ある限度以上に疲れてはいけない。

肉体的ばかりではありませぬ、精神的にもそうです。

読書をするにしても、

頭が疲れたときに、ねじり鉢巻で勉強しても駄目です。

試験前夜、ねじり鉢巻で勉強したような者は、

その時分かったようでも、

後では朦朧として一向役に立たぬものです。

弱いものは病気になります。

小学校から大学まで二十年近くかかって卒業しながら、

空々寂々はなんと情けないことでしょう。

『孟子』に

「綽々(しゃくしゃく)乎(こ)として裕(ゆう)なる哉(かな)」

という名言があるが、

実際、我々の胃嚢ばかりでなく、

精神的にも綽々たる余裕がなければなりません。

疲れすぎてはいけません。

 第四、「淫佚(いんいつ:怠けて遊興にふけること。

男女関係が淫らなこと)」。

男女の欲ばかりでなく、

すべて

享楽の度を過ごすことです。

第五、「憂悶(ゆうもん)」。

我々は憂悶(ゆうもん:思い悩み、苦しむこと)すると、

生理的にもいろいろの反応を生じ、

有害なことは申すまでもありません。

この頃の医学は身心の相関関係をよく解明してきました。

 第六、「瞋(しん)恚(い)」。

目に稜(かど)立てて恚(いか)るということは

善い人でも案外家庭などでありがちです。

東洋最古の医書といわれる

『素問』や『霊柩』という書がありますが、

『素問』の中に

「上古天真論」という

私の愛誦する一篇がありまして、

その中で「恚」が健康に一番いけないと言っています。

怒りの肝臓や血液や脳髄や呼吸に及ぼす作用などが

かなり明らかになっています。

 第七は、「上風を制すること」。

 第八は、「下風を制すること」。

上風はあくび、おくび。

下風は屁であることは申すまでもない。

人前では無礼ですが、

そこはしかるべくやるべきであります。

「嫁の屁は五臓六腑をかけめぐり」

(嫁が人前をはばかり、我慢に我慢を重ねて苦悶するさま)

など、いかにも同情にたえません。

 第九、「忍小便」。

 第十、「忍大便」。

これも講釈はいりません。

 一般の人々は、

難しい戒律は課せられてもやれるものではないが、

この『仏医経』の「十因縁」などは、

親切平易で、まことに結構です。

---引用はここまでです---

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

ここでのお話しの中にも、

「怒りが肝臓や血液や脳髄や呼吸に

悪影響を及ぼす作用などが

かなり明らかになっています」

というくだりがございました。

いかにしてこの「怒り」の感情をコントロールするか、

あるいは

極めて低級な本能とか欲求を克服するか、

これは誰にでも共通する

心身の健康管理の課題です。

ところが、

それにも増して、

恐怖心を克服することが

極めて重要な要素となってきたのは、

実に喜ばしいことです。

それはNHKの特集でもやっておりましたが、

永年の腰痛に苦しんできた人たちが、

痛みへの恐怖心を克服する処置を施せば、

かなりの割合で、

腰痛から開放された例が紹介されていたように、

物理的には痛みは発生していないのに、

人間の頭脳が勝手に痛みの信号を出していたという、

驚くべき事実が明確になってきたからです。

 実を申しますと、

この恐怖心が

人間のあらゆる能力の発揮を妨げている事実は、

既に様々な場面で明確になっていることでありまして、

メンタル・トレーニング、

あるいは、

メンタル・マネジメントの世界では、

何十年も前から、

その処方は開発済みなのです。

それに比べれば、

いわゆる西洋医学が、

いかに時代遅れに陥っているかが

分かろうというものであります。

これはまた、安岡先生に言わせれば、

専門的愚昧ということになる訳であります。

医学、医学と、医学のことしか考えない医者どもが、

いかに閉鎖的な世界で生きているかの証明であります。

そしてそれは、

何も医学に限ったことではなくて、

あらゆる学問の世界が、

その閉鎖性が故の遅れを取っているのが現実なのです。

ですから、

私は本当に学者にならなくて良かったと思うのであります。

 なぜならば、

今までコーチとして出会った大学の先生ほど、

手こずった人たちはいないからです。

その顛末を語っていたら、

彼らの悪口の限りを語り尽くすことになってしまうので、

口が裂けても言えないのですが、

とにかく、

素直でもなければ正直でもない上に、

自分の立場を忘れて、

コーチの私を攻撃するようになる。

そうなってしまうと、

既にコーチングの現場は論争の場と化してしまい、

戦場になってしまうのです。

その状況から抜け出すには、

大変なエネルギーを消費してしまいます。

そして、

軌道修正のために時間と労力を使い果たすのです。

肝腎な

コーチングのプロセスが前に進まなくなります。

こうなってしまうと、

一旦、冷却期間を置かなくてはなりません。

そんな、無駄な時間ばかりが浪費されるようになります。

手こずるという言葉の意味はそういうことです。

クライアントが素直で正直な人であれば、

驚異的とも言える短時間で事は済んでしまいます。

そのような場合は、

クライアントが結果を出す速度は益々加速されて、

しかも

驚異的なパワーと能力を発揮してくれます。

そんなクライアントを見ていると、

元々人間に備わっている潜在能力は、

無限であることがよく分かります。

前回のブログでご紹介した、田園調布の住人が好例です。

私たちコーチは、

クライアントの中に潜在する

能力とパワーを引き出してあげることが仕事なのです。
 

知古嶋芳琉です。

 私が師事した安岡正篤師は、

人物なるものの根本的な内容の第一は

活力と気魄(きはく)と性命力であると説かれました。

ではこれらに代表される溌剌とした精神を発揮し、

長期にわたって持続させるためにはどうすればいいのか?

この点について、

先生ご自身が採用されていることをご紹介します。

これも実践しなければ

無駄な知識が増えるだけに終わります。

出典は、人間学講話『運命を創る』(プレジデント社)の

「気力」を養う養生訓 の章です。

---ここからが引用です---

■ 「気力」を養う養生訓

○ 敏忙人の身心摂養法

<精神を溌剌とさせる三つの心がけ>

 私はやっぱり貧乏はきらいです。

そこで敏忙に決めておるのです。

近来特に感ずることですが、

誰も皆時局の影響を受けて、つい過労に陥りやすい。

いずれの方面においても

事務がたいへん繁劇(はんげき:きわめて忙しいこと。

そのさま。繁忙)になっておりますし、

何かと刺激が強く、不自由が甚だしいので、

やはり精神的にも肉体的にも疲れるから病人が多い。

「病中の趣味は誉めるべからず」という語もあるが、

まあ病気はせぬ方がよい。

病気になってから医者よ薬よと騒ぐのは、

そもそも末であるばかりでなく、

病は医者にかからぬことが

始終、

中医(凡庸な医者)にかかっているぐらいの価値がある。

それはとにかく

医学も予防医学が大切なように、

我々も病気の前に、

平生の養生、

飲食、

起居動作から

心の持ち方を修めなければならぬ。

さすれば、そうそう病気をするものではない。

私なども、よく知人が

「どうして蒲柳(ほりゅう:カワヤナギの別名

《カワヤナギの葉が秋になるとすぐに落ちるところから》

体質がひ弱なこと:からだが弱く病気にかかりやすい体質)

の質でありながらそんなに続くか、精力がある」

と感心されますが、それはなんでもない。

ちょっとした心がけによるので、

ずいぶん不合理、無理をしていても、

日常の心がけがよろしいばかりにわりに倒れない。

倒れないばかりか、相当、仕事に精力が続く。

たとえば、少し不養生をして、心がけが悪い日が続くと、

第一、身体の調子はもちろんのこと、

夜、勉強しているとあくびが出る。

人と話して声が通らない。

少し気をつけて身心に微妙な注意を払っておると、

夜中まで読書しても一向に倦(あぐ)まない。

人と語って声が通る。

それほどに平常の心がけがすぐ反応を生ずるもので、

ちょっとの注意で案外無事息災にいけて、

大きなご奉公の源になります。

まず、我々の身心摂養法の第一着手は、

やはり先哲の言うとおり

養神です。

心を養うことです。

心を養うには

「無欲」が一番よいと

古人が教えております。

これを誤って、

我々が何も欲しないことと

 

寒厳枯木(かんがんこぼく:情念を滅却した悟りの境域にたとえる。

 

また、情味がなく

 

冷淡で取っつきにくい態度・性質などのたとえに用いられることもある)

 

的に解してはとんでもないことです。

それならば死んでしまうのが一番手っ取り早い。

ボケてしまうのも良いことになる。

そういうことを無心とか無欲というのではない。

それは

我々の精神が向上の一路を精進する

純一無雑の状態をいうので、

平たくいえば、

つまらぬことに気を散らさぬことです。

我々の精神は宇宙の一部分であり、

宇宙は大きな韻律です。

したがって

我々の精神も、

やはり

溌剌として躍動しておらなければなりません。

私はいつも座右に『論語』を珍重しておりますが、

『論語』の中に

孔子の人物を語って

実に会心のところがあります。

ある人が子路に、

孔子という人はどういう人かと聞いたとき、

子路は答えなかった。

答ええなかったのかもしれませぬが、

とにかく返事をしなかった。

それを孔子が聞かれて、

お前なぜこう言わなかったか。

「孔先生は物に感激しては食うことも忘れ、

努力の中に楽しんで憂いを忘れ、

歳をとることを知らない人とでも申しましょうか」。

よく昔から

「両忘」、

憤を発して食を忘れ、

楽しんで以って憂を忘る、

この「両忘」を庵や書斎の雅号に使います。

実に味わって尽きせぬものがあります。

我々もこれでなければなりません。

我々の一番悪いこと、

不健康、

早く老いることの原因は、

肉体より精神にあります。

精神に感激性のなくなることにあります。

物に感じなくなる、

身辺の雑事、日常の俗務以外に感じなくなる、

向上の大事に感激性を持たなくなる、

これが一番いけません。

無心無欲はそういう感激の生活から来るもので、

低俗な雑駁(ざっぱく)から

解脱(げだつ)することにほかなりません。

それではどうして精神を雑駁にしないか、

分裂させないか、

沈滞させないかというと、

無数に古人の教えもありますが、

私はこういう三つのことを心がけております。

 第一、心中常に喜神を含むこと。

神とは深く根本的に指して言った心のことで、

どんなに苦しいことに遭っても、

心のどこか奥の方に喜びを持つということです。

実例で言えば、人から謗(そし)られる、

あられもないことを言われると怒るのが人情であるが、

たとえ怒っても、その心のどこか奥に、

「いや、こういうことも

実は自分を反省し

錬磨する所縁になる、

そこで自分(という人間)ができていくのだ、

結構、結構」

と思うのです。

人の毀誉褒貶(きよほうへん:

ほめたり、悪口を言ったりすること)なども、

虚心坦懐(きょしんたんかい:心になんのわだかまりもなく、

気持ちがさっぱりしていること、平静に望むこと)

に接すれば、

案外面白いことで、

これ喜神であります。

今、日本は非常な苦痛を嘗めている。

今後ますます甚だしくなるかもしれぬ。

これを

鬱々(うつうつ:心の中に不安や心配があって思い沈むさま)

すれば、

人の健康にも大害があるが、

これに反して、

いや、どんなに苦しくなってもかまわぬ。

今までの日本は少し甘すぎたから、

少しはひどい目に遭って、

たとえば

東京や大阪が焼き払われたが、

なあに

敵国人が手弁当でやってきて、

始末の悪くなった大都市の整理をしてくれたのだ

というふうに肚(はら)を決める、

これも一つの喜神であります。

 その次は、心中絶えず感謝の念を含むこと。

有り難いという気持ちを絶えず持っておること、

一椀の飯を食っても有り難い、

無事に年を過ごしても有り難い、

何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つことであります。

第三に、常に陰徳を志すこと。

絶えず人知れぬ善いことをする。

どんな小さなことでもよろしい。

大小にかかわらず、

機会があったら、

人知れず善いことをしていこうと志すことであります。

人間には、

どうも報償的な気持ち、

どんな悪党でも悪いことをしたならば、

何かそれを埋め合わせる善いことがしたくなるものです。

でなければ良心が納まらぬ。

そこで泥棒をすると貧民を賑わしてみたり、

兄弟分に分配したり、

不義の財、不浄の銭を掴んだ者ほど

何か人目に立つことに寄付をします。

国防献金をやって、

まあまあこれでよいというような、

これを「姦富」と申します。

そういう者も少なくありません。

そうではなく、

何か

人知れず

良心が満足するようなことを、

大なり小なりやると、

常に喜神を含むことができます。

道教などはこれをやかましく教えています。

---引用はここまでです---

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

これらのことは、

よく「心がけ」として言われるものですが、

これを読んだからといって、

即座に常日頃から実践できるかというと、

決してできるものではありません。

では、どうすればできるようになるかというと、

ごく自然に、

無意識のうちにできるようになるまで、

繰り返し反復の自己訓練を行なえばいいのです。

ところが

どのような分野の人にも共通する、

成功法則の第一原則といってもいいくらいの、

人間にとって根本的な教義であるのに、

この自己訓練が普通の人にはできません。

できるようであれば、

私たち「コーチ」の商売は上がったりになって、

廃業しなければなりません。

私たち「コーチ」の存在理由すらなくなってしまいます。

私は、「ビジネス・トレーニング」を受ける中で、

トレーナーの方から、

その具体的な処方を教えていただきました。

そして

今では、

私のお客さまにも、

必ずやっていただくトレーニングになりました。

たとえば、

ここで先生が、

『心中常に喜神を含むこと。

神とは深く根本的に指して言った心のことで、

どんなに苦しいことに遭っても

心のどこか奥の方に喜びを持つということです。

実例で言えば

人から謗(そし)られる、

あられもないことを言われると、

怒るのが人情であるが、

たとえ怒っても、

その心のどこか奥に、

「いや、

こういうことも

実は自分を反省し錬磨する所縁になる、

そこで自分(という人間)ができていくのだ、

結構、結構」と思うのです。』

と語っておられることならば、

まずは

形から入ります。

つまり、

笑顔を作るのです。

それも、

しっかりと口角を上げた

「満面の笑顔」を作るのです。

これは、

私のホームページでは、

「メンタル・トレーニングのすすめ」の項目で

ご紹介していますが、

朝起きた瞬間から、

一日中、

夜眠りにつくまでというよりも、

笑顔のままで眠りにつくのです。

最初はこれだけを徹底的に集中してやっていただきます。

最初のうちは、

頬がすぐに疲れて引きつったりしますが、

とにかく無心になって続けるのです。

そして

周囲の人には、

一オクターブ高い声で

明るく

穏やかに話すのです。

こうして笑顔をつくり続けると、

自分の思うことや

考えること、

言うこと、

行動に

必ず変化が現れます。

まず気分が良くなります。

そして、心が明るくなります。

周囲の人も笑顔を返してくれるようになります。

だんだん楽しい気分になってきます。

クルマの運転も穏やかでやさしい運転になります。

自分の笑顔が

周囲の人に善い影響をあたえていることがわかってくると、

快感さえ感じます。

そうなるともう止められなくなります。

この自己訓練を、最低3か月は続けるのです。

この3か月、90日という期間には、

実に奥深い意味があります。

今までのいろいろなトレーニングの現場で確認された

実績に基づく日数です。

半年、一年と続ければ続けるほど、

もう意識しなくても、

自然に

無意識のうちにできるようになります。

私も疲れてくると、つい無表情になりますが、

この無表情というのが一番いけないことです。

私の場合、

いつの間にか

自動的に気づいて、

また笑顔を作っています。

そして第二は、

「何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つこと」です。

これも人が幸せになるための大原則ですが、

これを実践できる人は

例によって

極めて少数に限られます。

なぜならば、

これが習慣になるまで、

クセになるまで

自己訓練をしないからです。

第三の、常に陰徳を心掛けると申しましても、

これも具体的な行動ができなければなりません。

たとえば、

イエローハットの鍵山社長が実践されて

大変普及した

トイレ掃除などは、

必ず毎日やらなければ何の意味もありません。

また、こういう心掛けるべきことを

紙に書いて机のマットの下に敷いておく人がいます。

実は私もサラリーマンの時はやっていましたが、

それではダメです。

必ず毎日10回以上は見る習慣をつけなければ、

身につけることはできません。

見るためには

いつでも見えるところに置いておくことです。

その具体的な方法は、

自分で工夫しなければなりません。

そして

必ず実行するのです。

ところが、

ここまで具体的な方法を教えてあげても

実行できないのが普通の人です。

だからこそ、

私たち「コーチ」の存在価値があるのです。

禁煙するのに、

お医者さんと二人三脚で取り組むのと同じことです。

私の場合ですと、

お客さまが想像もしてなかったレベルに

引き揚げてあげるのが常ですから、

そこは、お医者さんとは決定的に違います。

この一文も、

だらだら読み流したくらいで

出来るようになれるとでも思ったら大間違いです。

まずは、本気でやるんだと腹(はら)を決めることです。

肚(はら)の坐っていない人間は、腰抜けと申します。

腰抜けは、

いざとなったら簡単に人を裏切るし、

自分を裏切ります。

いつも

自分を裏切っては、

自分への言い訳だけは飛びぬけて上手です。

そんな人間は、

最も肝腎な自分が信じられません。

ですから、

自分の未来の可能性が信じられないのです。

そういう人は、

「コーチ」なら誰もが言う、

「自分を信じて」、という言葉が上の空で、

右から左へと筒抜けで、

まさに馬耳東風。

ですから、

どんな立派な「コーチ」を雇っても、

何の成果も出せません。

従って

誰からも信頼されなければ、

誰からも相手にされません。

相手にしてくれるのは、

自分と同様、

言い訳が上手な負け犬の仲間たちに限られます。

そもそも、

そんな人間と付き合うのが大間違いなのですが、

そんな負け犬連中と決別する勇気もありません。

付き合う相手を選ぶこともできない。

これは致命的な欠陥で、

成功できない人の共通点です。

もともと、

幼い頃からの付き合いが、

自分と似たり寄ったりの、

「セルフ・イメージ」が低くて、

いつも他人も自分も裏切ってばかりの連中だと、

そういう連中の中にいるのが最も自分らしくて

安心できる人間になってしまうのです。

そして、

「類は友を呼ぶ」と申しまして、

似たような人間が集団を形成するようになります。

いわゆる群れを成すわけです。

問題は、

自分が大切だと思う人が

どのようなレベルの人間なのかです。

自分の「セルフ・イメージ」が高くなれば、

ごく自然に

付き合う人も変わってきます。

これがコーチをやっていて感じる醍醐味の一つです。

商売をやっている人であれば、

取引先やお客も変われば、

取り引き金額のケタも変わってまいります。

ほんの一例をあげると、

これはあまりよい例にはならないかもしれませんが、

東京のお客さまで、

電気工事の会社にお勤めの方で、

彼の口から出てくる言葉は、

「数百億円のプロジェクトが暗礁に乗り上げたが、

交渉相手のインド人を何とか動かす良い方法はないか?」

とか、

「50万ボルトの高圧電気が扱える

腕のいい技術者はいないか?」

というお話しが出てくるようになりました。

年商1兆円を目指す企業ならではのお話しです。

お話しに出てくる金額の桁とか、電圧の桁が違うでしょ?

それに、

国際事業本部の仕事となると、

現場は

すべてが外国です。

しかも、

先進国よりも

新興国のほうが勢いに乗っているので、

国策としての

インフラ整備のプロジェクトが中心になりますから、

発電所の建設から

送電システムから

変電設備に、

受電設備に、

配電設備に、

最後はあらゆる機器の動力源から

照明設備にまで至ります。

しかも、

どこへ行っても

日本の常識や規格が通用しない外国ばかりです。

要するに、

物事を測定するスケール

(物差しとか目盛り)が違うのです。

これは

現地の国が採用している規格に

適切に合わせなければいけません。

日本の規格を持ち込んでも通用しません。

こういう世界中の修羅場をくぐり抜けてきた人は、

必然的に

考え方に柔軟性が出てくるし、

考え方もグローバル化します。

つまり

日本固有の考え方の標準から解放された、

世界標準の考え方とも言えるし、

どの国にも偏らない考え方ができるようになります。

彼は田園調布のマンションを買いましたが、

「タワー・マンション」には目もくれませんでした。

いざ停電とか台風や地震などの

自然災害という危機に直面した場合を

しっかり考慮しております。

仕事が人間を育てるとはよく言ったものです。

ここでご紹介したお客さまはほんの一例に過ぎませんが、

私が彼から学んだことは

実に多彩にわたります。

ですから、

今では

素晴らしい人物がお客さまであることが、

私の誇りになっているのです。

こんな有り難いことはありません。

知古嶋芳琉です。

 ここでご紹介するのは、安岡正篤師のご著書で、

『人間としての生き方(現代語訳『東洋倫理概論』を読む)』

の一部です。

---引用はここからです---

第二編 敬義 中年の倫理

第二章 社会生活

 第二項 社会の直視と出処進退

 ○ 自己の社会撮影

 あたかも鏡にくもりがなければ対象をよく写すように、

自己の生活が純粋に素直になれば、はじめて

社会はそのありのままの姿を現す。

いかにも荀子にある言葉のとおり、

人は真の自己に立ち返らないから、

(富貴・名誉・利益などの)外物にばかり心を奪われ、

物事の表面だけに眼がくらんで途惑(とまど)う。

わけもなく富貴にあこがれたり、

王公を畏(おそ)れたりするのは、

自己が純直でない証拠である。

 ○ 売柑者(ばいかんしゃ)言

 「杭州(支那浙江省の省都)に果物屋があった。

密柑をかこっておくことの名人で、

寒さ暑さを過ごしても駄目にならない。

いつ出しても肌は玉の如く金色に光っているので、

売りに出せば市価の十倍もした。

人々は争ってこの果物を買った。

 自分も一つを買って、剥(む)いてみると、

変な煙のようなものがつんと鼻を衝(つ)いて、

その中を視ると、

ひからびて敗綿(ふるわた)のようになっている。

自分はけしからぬことと思って詰問した。

お前の売るものは器に盛って祭祀に捧げ

賓客に供えるためか、それとも外だけ飾って

(ものが見分けられない)愚か者をだますのか。

詐欺(さぎ)もまた酷(ひど)いではないか。

 すると彼は笑って、

私は幾年もこれで生活しているのですが、

まだ文句を言われたことはありません。

ところが、あなたのところに限っていけませんか。

いったい詐欺する者は、世間に、少なくありません。

私ばかりではありませんよ。

あなたはまだそれを考えないのです。

どうです、

虎の紋の割符を佩(お:身につける。腰に下げる)び、

虎の皮の敷物の上に座っているところは立派な将軍ですが、

果たして

孫呉(そんご:孫子と呉氏、春秋時代の兵法家)の計略を

授けることができますか。

 大きな冠をそびやかし、

長い帯をひくところは

見かけは天晴れ(あっぱれ)大臣の器ですが、

果たしてよく

伊尹皐陶(いいんこうよう:伊尹は殷の賢相、

湯王を助けて桀を討ち、皐陶は、帝舜の臣、

司寇(しこう:法務の長官)となった。

ともに支那古代の賢人)

の功績を成し遂げられますか。

盗賊が起こっても禦(ふせ)ぐことを知らず、

民が困(くるし)んでも救うことを知らず。

役人が姦(よこしま)なことをしても禁ずることを知らず、

法が守られなくても理(おさ)めることを知らず、

何もしないでお倉の米を食い潰しながら恥を知らない。

政務を執る立派な部屋(高堂)に座って、立派な馬に乗り、

おいしい酒に酔い、美味に飽きるところをみれば、

誰しもその威勢にうたれ、

それと同じようになりたいと思わない者はありませんが、

またどこへ往ってもその外を金玉で飾り、

その中を古綿にしない者がありますか。

それに貴方はここのところを察することをしないで、

私の密柑だけをとやかくおっしゃるのですか、と言った」。

 ○ 漁父

 『楚辞(そじ:支那戦国時代の楚の屈原(くつげん)と

その後継者たちの詩を集めたもの)』が

永遠に人を動かすのも、

それが常に人知れない心の中の

純真な魂に訴える文学だからである。

「あなたは

三閭(ろ)の大夫

(たいふ:楚の国の三豪族の家の長者)ではありませんか。

いったいどうなされたのです」と、

ある日に

うらぶれはてた屈原(くつげん)の姿を発見した

老人の漁夫が驚きの声をかけたとき、

「どうしてと言って、世を挙(こぞ)ってみな濁っている。

私独り清(す)んでいる。

衆人はみな酔うている。

私独り醒めている。

それだからこうなったのだ」と屈原は寂しく答えた。

「大夫、聖人は

事物に凝滞(ぎょうたい:こだわりとらわれる)しないで

よく世とともに推移するものです。

世の人がみな濁っているならば、

何故あなたもその泥をにごし、

その波をはねて行かれないのですか。

衆人がみな酔っているなら、

どうしてあなたも一緒にその

糟(かす:酒のしぼりかす)を食らい、

そのしるをすすって行かれないのですか。

どうしてそんなに深く考え、お高くとまって、

自分から追放されなければならないようにされましたか」

「いや、私には何もかも分かっている。

けれどもね、新に沐(もく)せし者(髪を洗いたての者)は

必ず冠を弾じ(冠のちりをはじき払い)、

新に浴せし者(湯浴みしたての者)は必ず衣を振るう

(衣の塵を振り落とす)と言うじゃないか。

どうして純潔なこの身にものの汚れを受けることができよう。

むしろ湘流(しょうりゅう)に身を投じて、魚の腹に葬られても、

どうして潔白なこの身に

世俗の塵や埃(ほこり)をかぶることができるだろう」。

これを聞いた漁夫はにっこり笑って、

船べりを叩いて歌いながら漕ぎ去った。

「滄(そう)浪(ろう)の水清ければその水で

わが纓(えい:冠の紐)を洗うべし。

滄(そう)浪(ろう)の水、

濁ればその水でわが足をあらうべし」と。

 ○ 純直なる生活と社会の迫害

 屈原のこの歎きは、

我々が止むに止まれぬ純直な心から

俗世に深入りするほど堪え難くなる。

凡庸な人間は、

みそさざいが大鵬(想像上の大きな鳥の名)を

嗤(わら)う(あざけり笑うこと。嘲笑)ように

志ある者を余計な苦労をする奴だ、

柄にもないことを考える奴だと嘲(あざけ)る。

 いったい人間には競争心があって、

負ければ自己の弱小を感じて堪え難いところから、

絶えず勝とう勝とうとあせる。

自分が負けそうであると相手を妬(ねた)む。

忿(いか)る(腹を立て、うらむ)。

何とかして彼を傷つけようとする。

相手が手強いと、そういう弱者小人が相集まって、

おのおの

弱点でしっかり結合しながら、

あらゆる

奸策(かんさく:悪巧み(わるだくみ))を廻(めぐ)らす。

ところが

君子は心が光明であるから、己一人で不安がない。

自然、結束力に乏しく、いつも孤独に陥り、

周囲から迫害されて、悲惨な境遇に陥りやすい。

昔からおよそ現在に甘んじないで、

理想に向かって精進した人に、

唯一人として迫害を受けなかった者があるだろうか。

彼らはみな周囲から理解されず、冷たく嘲(あざけ)られ、

酷(むご)く悩まされ、

往々生命を奪われるに至っても、なお

止むに止まれずに

勇往邁進(ゆうおうまいしん)したのである。

穏やかで、心正しくうやうやしく、

つつましい謙遜の人と称(たた)えられ、

平和の権化(ごんげ)のように

世間から考えられている孔子が、実際はどうであるか。

故郷の魯(ろ:春秋時代の国名。孔子の生国)の人々は

孔子を少しも知らずに、

「東家(とうけ)の丘(きゅう:孔子の名は丘)」ぐらいにしか

考えなかったと言われている。

また、それこそ

身命を忘れて人間の覚醒・社会の革新に奔走している彼を、

汝も佞(ねい:口先が巧い。へつらう)をなすかと皮肉ったり、

余計な苦労だと冷ややかな眼で見る者が

やはり

少なくなかった。

それどころではない。

各地を周遊中、

いかにしばしば生命の危険に瀕することが多かったか、

いやしくも『論語』を一読したならば、

何人も思い半(なか)ばに過ぎるものがあろう。

彼の愛する弟子たちでさえ、

果たして

どれほど徹底して師を理解することができていたことか。

 ○ 堯、舜に問う、人情如何

 堯(ぎょう)が、舜(しゅん)に

「人情は如何(いかん)」と問うた。

舜が答えて言うには、

「人情は大変よくない。また何を問うたらよいのだろうか。

妻子が供わって親に対する孝が衰え、

嗜欲(しよく)が先立って友に対する信が衰え、

爵位や給料が十分になって君に対する忠義の心が衰える。

人の情けは、誠になんと美しくないものか。

また何を問うたらよいのか」(『荀子』、性悪篇)と。

最後まで読むに堪えない文章である。

 ○ 道の不滅

 しかしながら、

翻(ひるがえ)って思えば、

王陽明も感奮(かんぷん)しているように

(『抜本塞源論』)、

「人々の心に在る天理である道義の心というものは、

どんなことが在っても無くすことはできない」ものがある。

人間はどこまで堕落しても人間である。

鬼畜になることはできない。

時によっては涙も出る。

時によっては憤(いきどお)りも発する。

恵まれた金をまたしても放蕩に使い果たした

杜子春(とししゅん)も、

道で以前の恩人に遭(あ)った時は、

おもわず顔をそむけて逃げ隠れようとする。

 ○ 独醒(どくせい) (独り目覚めた)

 世の中がいかほど堕落したといっても、

やはり厳粛なるあるものが民心に残っている。

衆人の中には稀に独醒の士もある。

顧炎武(こえんぶ:清初期の学者。明末の空論に反対し、

実用の学を主張した人)も、

「自分が、夏・殷・周の三代以下の王朝の歴史を観るところ、

世の中が衰え、道がほとんど行われなくなり、礼儀を棄て、

潔(いさぎよ)く恥を知る心がなくなるのは、

一朝一夕にしてそうなるのではない。

けれども、冬になり寒くなってはじめて

松や児手柏(こてかしわ)の葉が落ちてしぼむ、

鶏の鳴き声は、

風雨のはげしいあの暗い夜になっても止まない。

もとより

未だかつて

独醒の人格者がいなかったということはないのだ」

と語っている。

 この厳粛なものを成長させ

立ててゆけば、

人をも世をも救済することができる。

 ○ 出処進退の由来

 そこで

我々は

一度この自己内面の厳粛なるものに立ち返るとき、

自ら社会に立って

職業に携わってゆく上に

いかに行為するべきかという、

すなわち

出処進退の問題に逢着する(出会う)。

 ○ 出処進退の第一義、仁に立ち仁を成すこと

 出処進退にあたって、

我々は先ず自ら仁(心)に立たなければならない。

仁とは、一切を生成化育する

造化(ぞうか:天地万物を創造し育てる神霊・造物主・

宇宙や自然の根本にある霊力)の努力を体験して

しっかりと心に飲み込み、

人が一切を包容し、敬愛し、

自ら少しでもより大きく生き栄えようとする努力である。

職業の意義が

その職業を通じて仁を成すにあることは既に説明した。

我々が植木屋となるにしても、

郭駱駝のようであって初めて真の植木屋である。

 ○ 種樹(しゅじゅ:草木を植える職人)郭駱駝伝

 郭駱駝(かくらくだ)は、はじめ、

何という名であったか判らない。

せむしを病んで、背中を曲げて歩く恰好(かっこう)が

駱駝(らくだ)に似ているので、人がみな、

駱駝、駱駝と呼んだ。

これを聞いた彼は、それは面白い。

なるほどよく当たっていると言って、

みずからもそのように名乗ったということである。

その郷を豊楽郷(ほうらくごう)といい、長安の西にある。

そこで彼は植木屋を営んでおった。

ところが、

長安の金持ちや果物商人などで

彼を珍重しない者はなかった。

というのは、

彼の植える木は、

あるいは移植してもつかぬということはない。

かつ、非常に茂って、早くまた沢山に実るからである。

 そこで他の植木屋などが見習って種々やってみるが、

どうも及ばない。

そこで、ある人が

どうしてそういう具合にゆくものかと聞いてみたところが、

彼は答えた。

いや、私がよく木をつかせ、茂らすわけではない。

私はただ木の天(生まれつき)にしたがって

その性を発揮するだけだ。

いったい植木の性というものは、

その根本は舒(の)びやかに、

その培うことは平らかに、

その土は故(ふる)く、

その苗床作りは

細かい点にまで行き届いていることが望ましい。

そうしておきさえすれば、

後は動かすことも、気遣うことも要らない。

立ち去ってまたと顧みないのがいい。

蒔く時は子のように、

置けば棄てたようにさえすれば、

その天は完全で、その性も得られる。

だから私はその成長を害しないのみで、

よくこれを大きく茂らすのではない。

その実るのを押さえつけたり

減らしたりしないだけで、早く、たくさん実らすのではない。

他の同業者はそうではないのである。

根は拳(かが)まり、土は易(かわ)り、

これを培う(つちかう:《「土(つち)養(か)う」の意》

1 根元に土をかけて植物を育てる。

2 大切に養い育てる。)にも

程度が過ぎたり不充分だったりがある。

そうでなくても、可愛がり過ぎたり、心配しすぎたり、

朝に視て暮に撫で、立ち去るかと思えばまた顧み、

はなはだしい者になると、

膚(はだ)に爪を入れて

生きているか枯れているかを験(ため)したり、

根本(ねもと)を動かして

土の疎密を視たりするものであるから、

木の性は日が経つほどに離れるのである。

愛するというが、実は害(そこな)っているのであり、

心配するというが、実は仇(あだ)となっている。

だから私に及ばないのであって、

私がまたそれ以上のことをどうしてできようか。

 これを聞いて感心した質問者は、

それでは

お前さんの道を政治に適用したらどうだろうと言うと、

彼は答えた。

私は植木のことなら判るが、

他のむずかしいことは私にはできることではない。

しかし、

私は郷にいて人の長(おさ)となっている人たちを見るのに、

好んでその命令を煩わしくしているようだ。

あれでは大変下々を憐(あわ)れんでいるようで、

実は結局禍(わざわい)しているようなものだ。

それだから、下々は閉口して怠ける。

してみると、政治もどうやら私の職業と似ているようだね。

質問者は感嘆した。

面白い。

私は樹を養うことを質問して、人を養う術を得たと。

彼には樹に対して仁がある。

彼はその職業を通じて仁をなしている。

もし我々がかの宋清(そうせい)のように

薬屋ができればいかがか。

 ○ 薬屋宋清の伝

 宋清は、長安の西のほとりに住んでいた薬屋である。

よい薬を置くので、

田舎からもみな彼のところへやってきた。

都の医者も彼の薬を使えば評判が好いし、

病人も彼の薬を飲めば早く治った。

彼はそれらのあらゆる人々にいつもにこやかに接して、

金のない者にもよい薬を与えた。

そして、貸し金証文が山のように積まれても、

一度も催促に行かない。

面識のない者にも掛売りして平気であった。

年末になって回収ができないのをみれば、

証文を焼いてしまって、何とも言わなかった。

街の人はあまりに他と異なっているのを笑って、

無分別な人間だと言う者もあれば、

あるいはまた「いや彼こそ有道者なのだ」と言う者もあった。

彼はこれを聞いて、

「自分は利を得て妻子を養っている人間だ。

別に有道の人間でもないが、

自分を無分別な人間と言う者も謬(あやま)っている。

自分がこの商(あきな)いを始めてから四十年。

証文を焼いた者も百数十人。

その中には大いに立身出世している者もあって、

随分私に贈り物もする。

直(じか)に返礼するとまではゆかなくとも、

自分の与えた薬のおかげで随分命拾いした者も多く、

したがって追々には収入も殖える。

自分は利し方が遠大なので、けちな商人とは違う。

彼らは一度値(あたい)を得られないとすぐさま腹を立て、

二度となれば早速喧嘩(けんか)をする。

何と商売があさはかではないか。

自分は無分別者はかえって世間にいることを知っている」 

こうして彼はその商道を易(か)えず、

果たして富裕になった。(『宋清伝』)

 ○ 職業の貴賤

 いかなる職業でも、仁を求めて仁を得ぬことはない。

(仁とは、一切を生成化育する

造化(ぞうか:天地万物を創造し育てる神霊・造物主・

宇宙や自然の根本にある霊力)の努力を体験して

しっかりと心に飲み込み、

人が一切を包容し、敬愛し、

自ら少しでもより大きく生き栄えようとする努力である。)

その職業を通じて仁を行うことができることが偉大なほど、

その職業は貴い。

宰相の職が薬屋より貴いと考えられるのは、

宰相の職は一薬屋の到底及びもつかない、

大なる仁を行うことができるからである。

それにもかかわらず、一身は宰相の職にありながら、

民の疾苦(しっく)を救うこともできず、

いたずらに俸給を費やしたり、

あるいは、その公器を弄(もてあそ)んで

私利私欲を恣(ほしいまま)にするならば、

それこそ街の一商人にも劣るもので、

職を辱(はずかし)め、身を汚(けが)し、

不忠不孝この上もないと言わなければならない。

これに反して、

我々は五反の田を耕しながらも、真に仁を求めれば、

凡庸な農夫の数倍の収益をも実現して、

国家の人口食糧問題の解決に

大きな光明をも与えることができる。

質屋の主(あるじ)をしながらも、貧しい下層の人々に、

自由に、かつ、簡単に金融の便を与え、

もし宋清(そうせい)のようにやることができるならば、

同時にいつか富をなすこともでき、

それに従って、

真に憐(あわれ)なる人々を救う

大きな男気がある人物ともなり得るであろう。

そうであるならば、

農夫、市人も王侯と並んでも少しの遜色もない。

しかるに

職業を通じて仁を求めることは、一面、その職業が

複雑なものであるほど、

他面、自己の学問教養が進むほど、苦しくなってくる。 

たとえば、

米を作ったり、植木を育てたりするような

自然に即する職業ならば、何と言っても簡単である。

けれども、それがひとたび多くの人の子を教育するとか、

百官有司を統御して

天徳を援(たす)けてゆかなければならないというような

社会的な職業になれば、

事柄が複雑重大で、かつ相手が人間であるだけに、

いかに我々が誠を竭(つく)しても、

なかなか事が志のようにはゆかない。

才が及ばない歎(なげ)きもあろう。

徳が足りない憂いもあろう。

思いがけない災難にあって死ぬこともあろう。

それは我々の学問教養の進むほど、

また痛切に意識される。

無学愚劣であれば、ひたすら衣食の営みに忙しくて、

仁を求める苦を理解できないだろう。

まことに人生文学を識(し)ることは

心配と悩みとのはじめである。

願ってもいないのに武門に生まれ、

弓矢取る身であればこそ、

下々の知らない苦労もしなければならない。

しかし、そこに人間の尊さが輝く。

出処進退とは、つまり、このような場合、

いかに仁に生きるか

という問題に他ならない。

 ○ 存心と義

 出処進退の第一義である

「仁を求める」・「仁に立つ」・「仁に生きる」ということは、

もとより単に観念に止まったり、

感傷に終わることを許されない。

(仁とは、

一切を生成化育する

造化(ぞうか:天地万物を創造し育てる

神霊・造物主・宇宙や自然の根本にある霊力)の努力を

体験してしっかりと心に飲み込み、

人が一切を包容し、敬愛し、

自ら少しでもより大きく生き栄えようとする努力である。)

 それは自ら寸毫(すんごう:ほんのわずか)も

昧(くら)ますところのない(これを存心と言う。

放心=失心の反対)明白な行為=義でなければならない。

{それは自ら寸毫も昧ますところのない

明白な行為=義でなければならない}

---引用はここまでです---

知古嶋芳琉です。

 今回で『運命を創る』という章の、

「若さを失わず大成する秘訣」という項を終わります。

安岡先生のお話では、

第一は、仕事に打ち込む習慣をつけることでした。

ここでまとめておきますと、

第二は、自分の専門から離れた多様性のある交友であり、

第三は、人間教養の書を読むということです。

先生は、特に西洋の科学が専門に走って細分化されたこと

に、大変な危機感を持っておられました。その専門化は機械

化を生み、単調となって硬直化し、やがて柔軟性を失い、

人間性をも失い、複雑で微妙な現実から乖離することへの

警鐘を鳴らしておられました。

さらに、理屈一点張りの論理というものに対しては、非常に

危ういものとして警戒しておられまして、それを補うのが

人間特有の「心理」であり「情理」であるとされました。

 ここでご紹介しますのは、

安岡正篤師の講話録、プレジデント社の人間学講話、

『運命を創る』です。

---ここからは前回に続く引用です---

■ 運命を創る

○ 若さを失わず大成する秘訣

<専門家ほど居眠っている>

 それから、さらに有効な第二の心がけは、

交わりということです。

交際、交わり、付き合い、

これを絶えず注意することであります。

物には慣性というものがあります。

人間には因襲というものがある。

いわゆる型というものがあって、

同じような人ばかり、

同じようなことを考え、

同じような話をし、

同じようなことを繰り返しやっておりますと、

非常に単調になる。

単調になると、これは人間の習慣性で、

生命、精神が鈍ってくる、眠くなる。

人間が眠くなると溌剌たる創造性を失ってくる。

私がかつてドイツに参りまして、

あのドイツ自慢のヒットラー道路(アウトバーン)に

非常に驚いたのであります。

いかにも堂々たる大道路が真っ直ぐに延びている。

このヒットラー道路のおかげで、

今度の大戦争に電撃戦というものをドイツに可能ならしめた

のであります。

ちょっと考えれば、道路もこうなれば交通事故などは

ないだろうと思われるのですが、さて実際になりますと、

この大道路でしばしば交通事故が起こるのです。

それで初めて分かったことは、

あまり単調なものでありますから、運転手が居眠りをする。

そこでありうべからざる衝突などの事故が起こる。

やはり少しく紆余曲折が必要なのです。

そこで仕方なく、ロータリーのようなものを造ってみたり、

木を植えたり、いろいろ人間の精神を刺激するよう

工夫をしまして、

初めて事故を防げるようになったということであります。

そこで、ああいう道路を走るときには、

絶えず運転手に話しかける必要があります。

日本と反対です。

運転手を眠らさないようにする必要があるわけです。

ところが、運転手より先にこちらが眠くなってしまう。

そのことを注意されたものですから、

私はずいぶんドイツを自動車旅行いたしましたが、

そういう道を走るときには絶えず運転手に話をしたり、

冗談を言ったりして、

お互いに眠らないように、

眠らさないように苦労したものであります。

 そういうように、

我々には適当な刺激と変化というものが要ります。

 これを応用いたしますと、

こういう一流の大会社に入られると、

あまり栄枯盛衰常ならざる群小会社のような心配がない。

したがって刺激がない。

ちょうどヒットラー道路を走るようなもので、

じきに皆さんが眠くなる。

居眠りを始める、ということがありうる。

いや、大いにあることであります。

絶えず自己を眠らさないためには、

ここにおいてグループ、交友を慎むことであります。

その交友には、できるだけ変化のあることが必要なのです。

そこで

自分とは専門違い、畑違いの良友を持って、

絶えず変化のある話を聴くことであります。

これは実に有効です。

つまり、

いつも同じような人間が集まって、

同じようなことを考えて、

同じような話をして、

同じようなことをして終わってしまわないように、

努めて変わった人に会って、

変わった話を聴いて、

変わった考え方を教わって、

そして

自分を生かしていくのです。 

ところが、

たいていの人は、

その会社内、その課内、

官庁の同じ部局というように、

同じような人間だけが集まって sectional になる。

sectional になると、

今のように、

考えも言葉も行為も、皆同じく型にはまってしまう。

そうすると眠くなる。

同じ会社の内におっても、

絶えず良い意味において変わっている交友を持つ。

会社におるならば他の課、官庁とか、

あるいは思想界とか芸術界とかの

変わったところの交友を持つように心がける。

自分を絶えず変化させる。

弾力あらしめるように心がけられると、

皆さんのおためになります。

この間、タバコ通からタバコの話を聞きましたが、

薩摩キザミなどの非常に良いタバコになりますと、

絶えず古い葉と新しい葉とを交互に合わせるのだそうです。

古い葉は古い葉、新しい葉は新しい葉というように

分けてしまうと、どちらも駄目、これも面白い話です。

ところが人間は、とかく若い者は、

あんな年寄りは駄目だというわけで、若い者だけ集まる。

年寄りは年寄りで、

あんな若僧の話を聞いてもしょうがないと、

年寄りだけ集まる。

タバコで申しますと、古葉と若葉とが別々になるのです。

そうすると、若いのはコクがない、本当の意味の味がない。

古い葉はこれまた新鮮味がない、若さがない。

両方駄目です。

だから若い者は年寄りと努めて接触する。

年寄りは努めて若い者を近づける。

普通の家庭でいうと、

おじいさん、おばあさんが孫と一緒に暮らすということは、

そういう意味で非常に良い。

夫婦、親子、祖父・祖母、孫、曾孫が一緒に暮らす

ということは、生命の原則からいって、

非常に良いことなのです。

ところが、どうもそれを嫌って、

隠居は隠居同士、若夫婦は若夫婦同士というように

分かれると、実際はいけない。

なんでも真理は同じことであります。

学問でもさようであります。

漢学者は漢学の本ばかりを読んでいる。

漢学者とばかり付き合っている。

国学者は国学の書物ばかり読んで、

同じ国学者とばかり付き合っている。

英文学者は英文学者、

ドイツ哲学者はドイツ哲学者とばかり、

法律家は法律家、

皆自分の専門、専門というところばかり立て籠もって、

象牙の塔の暮らしをしております

と、実に早く思想が駄目になる。

頭がこわばってしまうのです。

そこで、思想・学問の秘訣は

努めて専門外の人たちと適度の交流をすることです。

私は子供の時から

主として禅とか陽明学といったような、

いわゆる漢学で育った。

政治家になるつもりでしたが、

学問の方が面白くなって、

とうとう半生を学問に没頭してきてしまいました。

前述のことに気がついてから、私は、

努めてできるだけの時間を割いて

西洋の哲学、その他の思想に注意してまいりました。

どちらかといえば、

漢学の註釈を漢学によらずして、

西洋の思想・学問に求める。

それから、

それも西洋の学問にしても

漢学にしても、

参考は努めて同じ系統の思想、哲学によらずして、

思わぬ他の専門を利用する。

たとえば医学でありますとか生物学でありますとか、

あるいは光学であるとか、

たまには数学・力学などが非常に参考になる。

あれは俺の専門外であるから、あんなものは関係ない、

などと考えるのは、これは一番浅薄な頭脳です。

往々にして、

いわゆる専門家というものは居眠っているのであります。

ヒットラー道路の運転手と同じことであります。

案外、型にはまって満足しているのであります。

ですから、専門外というものを専門に結びつける。

今までのような、分析、解剖 anatomy ではなく、綜合。

専門と専門の交流、綜合というものが

学問においても必要でありますが、

それは我々の交友というものにおいてもやはり然りで、

ケチな考えで、

あいつは畑違いだ、というようなことを考えては

ならないのであります。

「専門外だ」ということを

軽々に言ってはならないのであります。

むしろ

専門外こそ

専門内で得ることのできないものを得られるのだ、

というだけの心構えをお持ちになる方がよいと思います。

<人間修養の書>

 もうひとつ大事なこと、

皆さんが失われてはならないことは、読書。

良い書物を読む習慣です。

これは若さを失わないためにも、

また自己をどこまでも伸ばしていくためにも、

自己の人生を豊かにする、深くするためにも、

これは最も必要なことで、絶えず読書をする。

この読書も、

つまらない書物を読むことは頭を雑駁にすることであって、

かえって有害でありますが、

良い書物は人生というものの味をつけ、光を与える、

力を増すものです。

問題は良い書物をいかに読むかということです。

およそ真の教養とは、

人類の有する偉大な著作に親しむことによって

得られるものです。

そこで、

昔から優れた定評のある良い書物を

少しずつ読むことであります。

専門の知識・技術の書物を調べるのとはまた別であります。

それはある意味で一つの business であります。

そうではなくて、自分の専門外、専門内を超越した、

人間としての教養の書、

人としての哲学の書、修養の書というものを注意して

毎日たとえ三枚でも五枚でも、

そういう書物を必ず読むようにする。

いわゆる座右の書を持つということであります。

たとえば、

東洋で言いますと

『論語』であるとか、

『孟子』であるとか、

西洋で言うならば

『バイブル』であるとか、

あるいはそれに刺激がなければもっと個性的な、

個人的な、

例えば

佐藤一斎の『言志録』であるとか、

熊沢蕃山の『集義和書』であるとかいったようなものが

注意すれば数限りなくありましょう。

西洋でもプラトンであるとか、スピノザ、

あるいは私が好んで読みますのは

スイスの有名な日記を著しました『アミエルの日記』、

それからヒルティ。

私はアミエルよりはヒルティの方が、

はるかに好きであります。

よくフランスでは例のパスカルやモンテーニュも

尊ばれますけれど、

何でも自分の好きな、

本当に自分に響くような偉人の書物、

人間教養の偉大な古典、

現代のものでもそういうものがあれば結構であります。

絶えず現在および将来に

正しい警告や良さを与えてくれている

時代の先覚者の書物、

最近の二、三の例を挙げますと、ガクソット。

フランスの歴史家として有名なガクソットが

『フランス革命』という本を著わしております。

これなどは従来のフランス革命の見方に

一つの転機を与えたといわれる良い書物であります。

イギリスのトインビーの『歴史の研究』や

『試練に立つ文明』などもよろしい。

翻訳されましたが、ハーバード大学のブリントン教授が

『革命の解剖』という本を出している。

これはイギリス、アメリカ、ロシアおよび例のフランス革命、

この四つの革命を比較研究いたしまして、

どうも現代人は革命といいますと、

盲目的に、あるいは先入観的に、

何か進歩的なこと、

未来に何ものか良いことを約束するものの如き

錯覚があるが、

革命にもいろいろあって、

ただ一途に革命というものが

進歩的・理想的なものであると考えることは

間違いで、

今までのこういう多くの革命の事例を比較研究してくると、

いかなる場合にも、

たとえそれが非常に良いことであっても

「革命で得るところは失うところを補わず」、

むしろ失うところがはるかに、恐ろしく大なるものがある。

だから革命というものに対しては、

よほど冷静に注意をしなければならないことを

厳密な科学的研究から結論を出しています。

今までの煽動的な革命論議とは違い、

こういうものを読むと実に真面目です。

いわゆる日本精神に基づく思想学問を

古代から調べていきますと、

国体に関して「革命」「維新」ということを峻別しています。

そして、

革命にしてはならない、

維新でなければならないということを力説しています。

そこで

日本では

「明治革命」とは言わず、

「明治維新」「大化の改新」と言うのです。

そのことは、ひとり日本の思想ではなくして、

シナの根本的な思想の一つであります。

革命ということは四書五経の一つである

『易経』から出ている。

維新という言葉は『詩経』から出ている。

維新か革命かという問題は、

東洋哲学の一根本的問題であります。

維新か革命かという言葉を、

ただ東洋思想として論じても

一般の人には興味がありませんが、

今のブリントンやガクソットなどの考え方に照らして

比較いたしますと、

非常に面白い新註釈になります。

また、これもつい最近出た本でありますが、

アメリカでソローキンという

世界社会学会の会長をしている学者があります。

この人はただの講壇学者でなく、

もちろん名前から言ってもロシアの人ですが、

ケレンスキーの時の大臣であり、

レーニンの革命で

捕まって死刑の宣告をされたのでありますが、

うまく亡命いたしまして

アメリカに逃れ、

ハーバードに社会学講座を創設し、

今は世界の社会学会の会長です。

この人が

『現代の危機』という

非常に良い本を書いていますが、

これはまだ日本で翻訳されていない。

ごく最近翻訳されたのは

『ヒューマニティの再建』という本であります。

これなど見ますと、

全く今日の新聞・雑誌に出ている俗論などを

完膚なきまでに批判して、

非常に読みにくいが

良い本であります。

以上は、二、三の例ですが、

人間として永遠に変わらざる根本的教養の書物であるとか、

時代の進行、現代および将来に対する権威ある人々の

正しい批判的書物を、絶えず心がけて読むことです。

なにも学者になるためではない。

事業人になるのですから、そんな博学多識の必要はない。

常にそういう書物を

一種類か二種類だけでも見ておられたら充分であります。

むしろその方がよい。

変な dilettant (ディレッタント:好事(こうず)家、

しろうと評論[芸術]家、芸術[学問]道楽)

なんかになられたら、かえって有害であります。

そうでなく、絶えずこれを心がけることが、

本当に皆さんをして永遠に若返らしめる。

かつ生ける限り、皆さんの人格を高める。

皆さん自身を高めるばかりでなく、

皆さんがそうしておられると、

知らず知らずのうちに

自己の友人や、あるいは後進、

どうかすると自分の先輩にすらも

案外

思わざる感化を与えるものであります。

「負うた子に教えられ」といいますが、

人の上にだんだん昇って、

つい、いつとなく安心し、

あるいは自己満足しております時、

思いがけなく自分の子供のように思っている若者から

一つのショックを受けるようなことがあります。

そういうふうに良い話などを、

ひょっと聞くようなことがありますと、

それは実に愕然として悟らされるものであります。

これが「負うた子に教えられる」ということであります。

本人にはわかりませんが、そういうことがよくあります。

そういう意味で、

今のような読書の習慣をつけるということは、

今まで申し上げましたことの中で

最も大切なことかもしれません。

ところが、まあ二、三年たってごらんなさい。

おそらくそれが実行できない。

少し仕事に慣れてきますと、また少し地位ができてきますと、

第一、多忙ということが襲ってくる。

そうすると、それに伴う疲労というものが加わってくる。

人間も、生物も同じことでありまして、

活動すれば疲れます。

これはもう生理的法則ですから仕方がありません。

忙しさ、それに伴う疲労のために、

なかなか書物というものは読めなくなる。

仕事の上の事務的書類を処理するだけに終わる。

あとは、

その日の新聞がやっとである。

一、二種類のパンフレットぐらいやっと慌ただしく読む、

というようなことになる。

よほど心がけないと、この習慣を続けることができない。

人によると、

忙しくてくたびれて、なかなかそんな時間がないのに、

そのうえ読書などやったらますます疲れると思うが、

これは誤解で、

こういう時の読書というものは、

実は

かえって疲れを癒すものです。

頭の転換によって生命の一つのリクリエーションになる。

決してそれは疲労の増加にはならない。

しかし、

なかなか

それができませんで、

つい忙しさに追われ、

時間がなく、肉体的・神経的な疲労のために

容易に読めない。

だから歳をとるほど、出世するほど、活動するほど、

この心がけを持ちませんと駄目です。

また、そういう心がけを持って、

そういう努力をする者は非常に偉い人です。

この観点から、

あれは偉いという人と、

あれは駄目だという二種類に人間を分けることもできます。

それくらいのことは楽にできる。と今日皆さんは思われる。

しばらくしてご覧なさい、ハッと気がつきます。

俺はこの頃いけないな、

ボツボツ駄目な方に入っていくという

反省があるものなのです。

これは他日どこかで、

また皆さんの中のどなたに会わんとも限りませんが、

これに対する感想は、

どなたからか、

五年、十年のうちに聞きうるだろうと思います。

そういう教養方法は、微に入り細を穿っていけば、

いくらでもありますが、

そんなに細かくやかましく言っても、

できるものではありません。

したがって、仕事に自己を打ち込む、

絶えず変化のある交友を持つということ、

いわゆる sectionalism にならない、

職業的にならないということ。

 第三は、今、言ったように

人間的に共通な根本的教育に資する意味の良い書物、

現在および歴史の進行に対して、

絶えず正しい警告を発してくれているところの

時代の先覚者の良い書物、

そういったようなものに

不断に少しずつ触れている、という意味の読書。

この三つは、皆さんにとって失うべからざるものであります。

そうすれば、皆さんは必ず自分の価値、

生命と品格とを維持することができるし、

意外に会社とその仕事の上にも

好影響のあることと確信するのであります。

---引用はここまでです---

 ここからは知古嶋芳琉が書いています。

私は安岡先生の教えに

素直に従って生きているようなもので、

私のお客様や友人の年齢は、

上は後期高齢者から、下は学生にまで及びました。

当時は在学中だった学生は、

今では卒業して代議士の秘書をやっています。

非常に高い志を持った人物だけに、

将来の成長が楽しみです。

それに、

自分の専門から離れて、

ありとあらゆる職業や年齢の人たちと

親しく交わることができるのが趣味の世界です。

 私の場合、

若い頃から

オーディオとアマチュア無線に興味を持っていたので、

実に多彩な職業や年齢の人たちと接する機会に

恵まれました。

学生時代に専攻した経営学については、

クラブ活動として、経営学研究会に所属して

先輩たちから徹底的に鍛え上げられましたし、

その上部団体の『学術文化会』の総務委員会には、

財務担当として出向させられ、

更には、

研究会に復帰させられて、

研究会の幹事の役を命じられると同時に

日本学生経営学会の

全国大会まで主催させられました。

その日本学生経営学会の全国大会では

大変お世話になった人の一人が、

50年後の今も交流が続いている

田園調布の住人でありまして、

定年退職してからは、何を血迷ったのか、

上智大学で、西田哲学を勉強するために修士課程に進み、

つい先日、聞いたところによると、

今度は

明治大学の博士課程の前期を受講しているという。

しかも、よりによって、

ハイデッガーの研究をしているというのですから、

あきれてしまいます。

彼は、例によって、

私が学んだ

コーチングの真髄を伝授してあげた人物の中では、

超一流の実績を上げてくれた人物で、

彼は

サラリーマン時代には、

彼が率いる国際事業本部の一部門を

社内で年間最優秀賞の受賞に導いた

万年部長でありました。

その後の彼は、

従業員の最高ランクの理事に昇格し、

執行役員に就任しました。

しかし、国際事業本部の副本部長にはなれましたが、

本部長までにはなれませんでした。

元はと言えば、大阪の出身で、

いまだに関西弁をしゃべりまくる奴ですが、

これがまた多彩な趣味の持ち主で、

茶道にコーラスに

さっき申しましたように、

哲学の研究と称して

都内の大学のはしごをやらかしております。

私の手にかかると、

こういう人物になってしまうという好例です。
 

知古嶋芳琉です。

前回のお話しにも出てきましたように、

超一流の人物が、

私とわずかな時間、ごく普通の談話をしただけで、

「元気が出てきました」といって、

私にお金を払ってくれるようになっていたので、

私は自分がいつの間にか、

「超一流のモチベーター」になっていることに気づきました。

それまでのセールスの修行の中から体得した、

貴重な無形の資産が私の中に形成されていたわけです。

これは無形資産ですからいくら売っても減りません。

売れば売るほど練習ができて、ますます上達したので、

私のことを「知古嶋教の教祖」と呼ぶ人も出てきて、

もっと高く売れるようになりました。

そのお陰で、半年も経たないうちに、

66倍もの料金の値上げをすることができました。

私の料金は、その年の春先までは

1時間あたり3000円としていましたが、

秋口には30分あたり10万円にまで値上げしました。

私は、それほど高く売れる商品になっていったのです。

やってみればできるものです。

それからは、

自信を持って自分を売ることに専念するようになりました。

そうすると、

ほんの2~3分のアポ取り電話で、

地元の財界の重鎮を、

いきなりやる気にさせる程度のことなら、

無意識のうちにやってしまうようになりました。

さらに、いただいた30分の面談時間を過ぎても、

一向にお話しは収まらず、

ついに、2時間もの間、

お互いに時間が経つのも忘れて、

お話しに熱中してしまいました。

なぜならば、

お互いに企業経営のことなら、人後に落ちないだけの

奥深い薀蓄(うんちく)を傾けることができたからです。

それも、

お互いに経営計画を策定した経験が何度もあって、

ある時の売上目標が同じ1000億円だったりすると、

いやが上にもお話しは弾んだものです。

こういうお話しを語り始めたら際限のないもので、

短時間でお話しが途切れてしまうことは、まずありません。

企業理念の見直しから、

企業の未来に向かってのビジョンの策定などは、

何度も社長と若者たちがいっしょになって、

合宿を重ねて練り上げたものでした。

それほど長期間の時間をかけて智慧と工夫を搾り出した、

叡智を結集して練り上げたものだけに、

お互いに、熱い思い入れがあったのです。

そういう経験を共有できただけでも、

お互いに感激したのでした。

その後10年間の彼が出した成果は、

確実に前任者の業績を上回るものでした。

実を言うと、

彼のコーチとしての仕事の受注には失敗していたのですが、

最初の会話である、

アポ取り電話でお話しをした、ほんの2~3分の時間で、

事は終わっていたのです。

なぜならば、

彼は有名な製鐵所の副所長まで>登りつめたうえ、

子会社の社長から会長を歴任し、

財界人の倶楽部である工業倶楽部の理事長を押し付けられ、

地元の名門ゴルフ倶楽部の理事長も押付けられた

揚げ句の果てに、

外務省の外郭団体(JICA)の委託を受けて、

世界中の開発途上国の技術者の研修を行なう団体の

理事長まで押し付けられて、

「なんでこのオレが」と、腐っていたからです。

私はそんなおじいちゃんを、わずか2~3分の会話で、

やる気にさせてしまいました。

普通の人だったら、会ってお話しをしたからといって、

感謝されて、しかもお金を払ってもらえる人は限られますが、

お客さまが私にお金を払ってくださるのは、

私との会話に対する報酬なのです。

具体的には、「コーチ」と「クライアント」との会話になります。

お話しの内容によっては、

私の言葉は、「モチベーター」の言葉になったり、

「セラピスト」の言葉になったり、

自己訓練の課題を自分で選ばせる

「トレーナー」の言葉になったりと、

千変万化いたします。

また、参考にしていただく書籍をご紹介したり、

手元の書籍をレンタルすることもあります。

これらのすべては、

その時の相手によって、どのようにでも変化します。

そして、それは、

私にも事前に想像できないことの方が圧倒的に多いのです。

夜中の電話で持ちかけられたご相談ともなると、

即座に回答できないこともあります。

でも、一旦電話を切って考えていたら、

ものの30分もたてば、良いアイディアが浮かんできて、

回答することもよくありました。

しかし、

普通はコーチが問題の回答を考えることはありません。

考えるのは、お客さまです。

お客さまに自分で考えさせるのがコーチの仕事です。

私の場合、

お客さまは会社の社長とか会長に、

大企業の役員とか大学教授とか、

新聞社の論説委員とか、

政令市の局長という、

いわゆる部下を持つリーダーが多いので、

その人たちに、

「コーチング」の上手なやり方を教えてあげることの方が

多いのです。

ほとんどのお客さまは組織で仕事をしているので、

部下を上手に動かしたり、

育てる方法を伝授したほうが、

大きな成果が出せるからです。

前置きが長くなりました。

ここからは安岡先生の講話録、

プレジデント社の人間学講話、

『運命を創る』

からの引用です。

---ここからが引用です---

■ 運命を創る

○ 若さを失わず大成する秘訣

<心に一処に対すれば、事として通ぜざるなし>

そこで、

しからば

どうすればいったいこの小成に陥ってしまわないか。

いかにすれば

いつまでもよくいろいろの殻を脱して、

若さと変化とを得ていくことができるか。

いかにすれば、いつまでも進歩向上していくことができるか。

その心がけがまず大事でありますが、

これに一番良いことは、

第一に

絶えず精神を仕事に打ち込んでいくということであります。

純一無雑の工夫をする。

純一無雑などと申しますと古典的でありますが、

近代的に申しますと、

全力を挙げて仕事に打ち込んでいくことであります。

人間に一番悪いのは

雑駁とか軽薄とかいうことでありまして、

これは生命の哲学、創造の真理から申しましても

明らかなことでありますが、

これほど生命力・創造力を害するものはありません。

また生命力・創造力が衰えると、

物は分裂して雑駁になるものであります。

これがひどくなると混乱に陥ります。

人間で申しますと自己分裂になるのです。

そこで

絶えず

自分というものを

何かに打ち込んでいくことが大切であります。

アメリカ人は近代になって非常な繁栄をいたしました。

あるフランスの評論家が

「もちろんアメリカにも良いところも悪いところもあるが、

とにかく感心させられることは、

アメリカ人に『君たちは何を生き甲斐にしているか』と聞くと、

ほとんどが job (仕事)だと答える。

仕事に自分を打ち込んでいく。

そうすると自分も生き、仕事も生きる。

人と仕事が一つになって伸びていく。

それがアメリカ人の実に良い点である」と言っております。

これはたいへん面白い観察であります。

確かにアメリカ人にとって然りとするならば、

実に良いことであると思います。

孔子もそういうことを言っております。

「無感激に漫然と無駄に暮らすよりは、

博奕(ばくえき・ばくち:碁、将棋などといった賭け事)でも

かまわぬ。

それをやっている方がまだよろしい」と。

いかにもそのとおりであります。

何ものにも真剣になれず、したがって、

何事にも己を忘れることができない。

満足することができない。

楽しむことができない。

したがって、常に不平を抱き、

不満を持って何か陰口を叩いたり、

やけのようなことを言って、

その日その日をいかにも雑然、漫然と暮らすことは、

人間として一種の自殺行為です。

社会にとっても非常に有害です。

毒であります。

さっき禅の話を申しましたが、

もう一つ、これは禅ばかりでなく、

仏教人においてよく知られておる言葉でありますが、

「心に一処に対すれば、事として通ぜざるなし」

という名言です。

「心に一処に対す」ということが勘どころです。

我々は今のように、

自己と仕事というものが分裂していては

駄目なのであります。

自己というものを本当に仕事に打ち込んでいく。

そうすると自分の対象である仕事は、

自己と一つになることによって精神化される。

すなわち対象に魂を入れる。

これが「対心一処」であります。

しからば物に対する。事に対するのではない。

事物と自己とが一つになることによって、

対象はすなわち自己になる。

自己が昇華するというもので、

そうすると、どんどん物事が解決していく。

これがいわゆる「事として通ぜざるなし」であります。

まず第一に、我々がどこまでも若朽しないためには、

「対心一処、無事不通」で、アメリカ流に言えば jobです。

自分を仕事に打ち込んでいく。

絶えずこういう習慣をつけることであります。

---引用はここまでです---

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

安岡先生が最後に言われた、習慣をつけるということ。

これは、どのような成功法則を語る人でも

同じように申しておりまして、

安岡先生はそれに「躾(しつけ)」を加えておられます。

つまり、自分で自分に良い習慣をつけるよう、

躾をせよと教えられます。

これを具体的に

自分の現場で行なう「トレーニング」をやってくれるのが

コーチであり、トレーナーの皆さんで、

私も毎月会費を払って

「トレーニング」を欠かさないようにしています。

これをやっておかないと、イザ本番というときに、

実力が発揮できないからです。

どんなスキルでも、

使わなければ錆び付いて使い物にならなくなります。

--

ここでは、

私が尊敬するトレーナーの言葉をご紹介しましょう。

---ここからはその引用です---

 知古嶋さん、こんにちは。

トレーナーの小野塚輝です。

今年のビジョンや目標は、順調でしょうか?

それともこんなはずはなかった…でしょうか。

いずれにしても、

再度

きちんとチューニングを合わせて

充実した日々を送っていきましょう。

「習慣は第二の天性である」という言葉があります。

当社では、能力とは習慣の差だと言い続けています。

成功する人は成功する習慣をもち、

成功しない人は成功しない習慣がありますよね。

当社のプログラムを反復してますか?

ビジョンナビのルーティンを記入して実行してますか?

反復=習慣=反応=能力=成果です。

会員の皆さんに私の好きなメッセージを贈ります。

---ここからはメッセージです---

私はあなたの変わらぬ友である。

私はあなたの最大の支援者、そして最大の重荷である。

私はあなたの背中を押すこともあれば、

失敗へと引きずり込むこともある。

私は完全にあなたの思いのままである。

あなたがする仕事の半分は私に託されるだろう。

そうすれば私はすばやく、かつ正確に

その仕事を片づけることができる。

あなたが私に対して毅然とした態度をとっていれば、

私は扱いやすい。

どのようにしてほしいかを正確に示してくれれば、

少しの訓練で

自動的に

与えられた仕事をこなすことができる。

私はすべての偉大な人物の召使いである。

そして、悲しいかな、すべての破綻者の召使いでもある。

偉大な人物は、

私のおかげで偉大になることができたのであり、

破綻者は私のせいで破綻に追い込まれたのだ。

私は機械ではないが、

人間の知性と機械のような正確さで仕事をこなす。

あなたが利益を求めて私を働かせようが、

破綻に向かって働かせようが、

私にとっては変わりはない。

私を利用し、訓練し、毅然とした態度で接すれば、

私は世界をあなたの足元にひざまずかせてみせよう。

私をなおざりにすれば、

私はあなたを破滅に追い込むだろう。

私は何あろう、「習慣」である!

『その他大勢から抜け出す成功法則』

(ジョン・C.マクスウェル)より

---メッセージの引用はここまでです---

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

いわゆる成功本として有名な

『七つの習慣』とか『第八の習慣』を書いた、

スティーブン・コヴィーもそうなら、

あのアンソニー・ロビンズも同じようなことを語って、

自分に良い習慣をつけるように言っております。

洋の東西を問わず、

成功者になるための条件に違いはございません。

 

知古嶋芳琉です。

 思い起こせば、私が独立してから2年ほどが経過して、

ようやくお金が稼げるようになったとき、以前勤めていた

会社の先輩で、私と同じ大学を卒業した先輩が、私に

面談を希望して来られました。

その先輩は、その会社では実質的に全社の受注と生産を

統括する役員にまで登りつめた実力者で、非常に責任感が

強く、聞けば、私たちが希望退職の募集に応じてその会社を

去らなければならなくなった責任は自分にあるとして、

いさぎよく自分から身を退いたのだという。

しかも、退職金は一円も受け取らなかったそうです。

そういう人でした。

で、

私の自宅近くの喫茶店で一時間ほどの面談をしましたが、

その喫茶店の所在地には、

事前に出かけて自分の眼で確かめたという。

それほどしっかりと事前の準備をする人でした。

彼の仕事ぶりは万事がそうで、

事前に考えられる限りのことは、

何重にでも確認する慎重で手堅い人で、

その采配ぶりは見事なものでした。

 お話しが一段落したとき、

その先輩は、「あなたと話して元気が出ました、

この面談については幾らお支払いしたらいいでしょうか」と、

大学の先輩でありながら、

後輩の私に丁寧語を使って言いながら、

内ポケットから財布を出して私をじっと見るものですから、

「とんでもありません、

大先輩とお話しをしただけでお金を受け取ることなんて

できません」といって、お金を受け取ることを固辞しました。

それでも、気がすまなかったのでしょう、

後日、高価な海苔の詰め合わせを贈ってくださいました。

義理堅く、礼儀をわきまえた人とはそういうものです。

 その先輩は、

前の会社を辞めてから、

その会社を担当していた公認会計士から紹介してもらって、

2社を渡り歩いたそうですが、

結局は彼を雇った社長から

殺されるほどの無理難題を押し付けられて、

それぞれの会社から追い出されたという。

確かに、

そんな酷い目にあわされても当たり前です。

なぜならば、

彼は再就職したら、

茶髪にピアスをつけたお兄ちゃんでも

「さん付け」で呼んだりして、

半年もすればその会社の社員の心を

一手に掌握してしまう人だったからです。

オーナーとしては、

その企業のコーポレート・ガバナンスの

主の座を奪われては、乗っ取られたも同然です。

ですから私は、次に就職の機会があったら、

社員とか役員として、

その企業の組織に入り込むのではなくて、

社外のコンサルタントか

顧問として就任する方がいいだろうと申しておきました。

そうこうしているうちに、また、ある会社に就職されましたが、

半年も経たないうちに、

その会社のオーナーから

社長をやってくれと言われたので、

今度は、あっさりと断って辞めてしまったそうです。

仕事ができる人とは、そういうものです。

何でもいい加減に事を済ませることができない、

完ぺき主義の人の特徴です。

引き続き、

安岡先生の講話録、

プレジデント社の人間学講話、

『運命を創る』

からの引用です。

---ここからはその引用です---

■ 運命を創る

○ 若さを失わず大成する秘訣

<自己の殻、仕事の殻、会社の殻>

 今、皆さんは学窓を離れられたばかりであり、

新しく社会に一歩を踏み入れられた時でありますから、

非常に希望に燃えて、いろいろの計画・理想を抱いて

おいでになりましょう。

俗な言葉で申しますと、

なお多くの夢を持っておいでになるだろう

と思うのであります。

その時、私の話は、考えようによっては

冷水を掛けるようなことになるかもしれませんが、

冷水ではなくて、

きわめて栄養のある飲み物のつもりであります。

人間は「始めあらざるなく、終わりあるは鮮(すくな)し」

ということがありまして、

とかく「始めは脱兎、終わりは処女」ということに

なりかねないというよりも、

むしろそうなりがちなのであります。

禅家にも「関(くわん)」と言う言葉がありますが、

「喝(かつ)」とか「咄(とつ)」とかいうことは

よく知っていますが、

関という言葉は、

わりに一般の人は参禅でもされないと

ご存知ないかもしれません。

禅家では関という一語をよく浴びせかけるのであります。

関とは字のとおり関(せき)ということであり、

すなわち、引っかかり、行き詰まりであります。

人間の一生は、特に若い人が考えているように、

なかなか坦々たる大道ではありません。

思いがけないところで、

しばしば行き詰まりにぶつかるのであります。

人生は、

しばしば

出会わねばならぬ関所を

幾つも通り抜ける旅路であり、

そこで一関、二関はうまく抜けても、

三関、四関となると、

往々にして、その関所を通ることができず、

挫折する、

引き返すことになりがちです。

そこが関所だ。

そこを通り抜けろ。

という意味で、よく「関」ということを指示するのであります。

辛抱して、努力して、関を何関か通りますと、

特に難解難透というようなことを禅僧がよく申しますが、

難しい、解き難い、通り難い、すなわち、

難解難透の関をいくつか通りますうちに、

ついに真の自由、

古い言葉で申しますと、

無礙(げ)自在というような境地に到達して、

すなわち「無関に遊ぶ」こともできるようになります。

最初が非常に大事であります。

のみならず、そういうことがあるものですから、

人間というものは、

とかく意外に早く成長進歩が止まるものであります。

言葉を換えて言うと、小成に安んじがちであります。

もっと平たく申しますと、案外早く若さを失うものであります。

早く歳をとるものであります。

いわゆる所帯じみるのです。

これは青年時代にはちょっと分からないと申してよい。

案外早く歳をとってしまうとか、若固まりになってしまうとか、

若朽するとか、若朽とまではならずとも、

まあまあ平々凡々になってしまう、

と言われてもそんなことがあるものかと思うのですが、

事実、多くの人は案外早くそうなるのです。

人間は小成に安んじないように、

意外に早く固まってしまわぬように、

伸びが止まらないように、

いつまでも若く、いつまでも伸びていく、

いつまでも進歩発展していくことが大事なので、

若い時に成績が良かったということよりも、

いつまでも歳をとらない、いつまでも伸びていく、

歳と共によく変化していき、

途上の難関を幾関か通って

無関に遊ぶということが大切なのであります。

「始めありしことはもとよりのこと、

終わりをもまた善くする」ということが、

いかに人生にとってめでたいことであり、

また難しいことであり、尊いことであるか、

これは、よほど苦労せぬと分からぬことであります。

そこで、

昔からいろいろの意味で若さということを皆が羨ましがる。

俗談をいたしますと、めでたいことによく海老を使う。

たいていの人は海老は腰が曲がっているから、

男女が仲良く腰が曲がるまで揃って長生きをすること

ぐらいの意味にしかとらないが、

少しく哲学する専門家の意見を聴きますと、

そういう意味ではなく、

海老は永遠の若さを象徴しているというので

めでたいものとされるのです。

というのは、あれは生ける限り何時までも殻を脱ぎ、

固まらない。

ことに万物がボツボツ固くなる秋に、彼は殻を脱する。

生ける限りよく殻を脱いで固まらぬ。

いつまでも若さを失わない。

よく変化していくという意味で、海老はめでたいのである。

とすると、なかなか面白い真理を含んだものです。

私は海老を食べると、いつもこれを思い出すのであります。

なるほど、それは実に難しいもので、

自己の殻はなかなか脱せられないものであります。

自己の殻、

学問の殻、

仕事の殻、

会社に入れば会社の殻、

役所に入れば役所の殻から、

なかなか脱けられぬものであります。

これが脱けきらぬと、人間が固まってしまう。

---引用はここまでです---

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

先ほどご紹介した、大学の大先輩に限らず、

人が自己の殻を破って脱皮することは、

非常に困難なことです。

しかし、私はロバート・キヨサキの

『金持ち父さん』シリーズの本を読んで、

それまでの自分のままでは、

貧乏なままで一生を終わるだけに留まらず、

とても起業家や投資家にはなれないと思いました。

ですから、

その後の私は、営業の修行を重ねるとともに、

次から次へと、ビジネス・トレーニングを受講しました。

どこへ出かけても、私のような年寄りはいませんでした。

それでも、私は素直に、どんなトレーニングでも

こなしてきました。

創業したときには、まったく知りもしなかった

「コーチング」とか、「カウンセリング」とか、

「メンタル・マネジメント」に「メンタル・ヘルス」や

「メンタル・トレーニング」、

おまけに古代神道にまで踏み込んで、

一時は本気で神主になる気になったこともありました。

聞いたこともなかった「ファシリテーション」を学んでみると、

サラリーマン時代にやっていたことばかりだったし、

「コーチング」とは、かなり重なる領域も多くて、

初級講座が終わるころには、間髪入れずに

「ファシリテーター」を名乗って、

30分当たり10万円の料金設定で営業を始めたら、

数日で受注に成功しました。

我ながら、

還暦を過ぎた爺さんが、

よくもここまで次から次へと新しいことに挑戦したものだと

感心します。

普通の人なら、昔取った杵柄というか、

現役時代の延長線上にあることしかできないのが普通です。

ところが、私はサラリーマン時代にやっていたことなんか、

決してやりたくはなかったし、

そんな、普通の人と同じような、

型にはまったことはやりたくなかったのです。

つまり、

過去の経験を生かして再就職する会社を探すなんて、

そんな、みじめなことはやりたくなかったのです。

何しろ、

リストラで首を斬られてから、

再起の道を歩み始めたきっかけは、

ロバート・キヨサキが書いた

『金持ち父さん、貧乏父さん』を読んで、

彼のいう『貧乏父さん』には、二度となりたくないという、

固い決心をしていたからです。

それに、

私は生まれながらにして、

十把一からげに、他人と同じ扱いをされたくなくて、

私だけが特別扱いされたいという願望が強い人間です。

私はそういう意識は幼いころから持っていました。

これは、いわゆる「セルフ・イメージ」というものです。

また、

私がどんなパターンにも当てはまらない人間なので、

人によっては、

私のことをつかみどころがない奴だという人もいます。

それもそのはずです。

なぜならば、

数年前に経営者向けのセミナーを受講したときに、

経営コンサルタントの先生が実施してくれた性格診断で、

私は

「リーダー(支配者)」、

「プロデューサー(演出家)」、

「サポーター(支援者)」、

「アナリスト(分析家)」の、すべての側面を、

ほぼ百パーセント、持っていることが分かったからです。

こういう人は非常に珍しいと言われてしまいました。

しかし、よくよく自分のことを考えてみると、やっぱり、

「コーチ」とか「ファシリテーター」の役がもっとも自分らしくて、

私にとっては自然で、得意なことなのです。

なぜならば、

私は若いころから、ゴルフにしてもスキーにしても、

上手にやるツボとかコツを教えてあげるのが上手だったし、

誰とも等距離の距離感を保つことは、

今までの生き方をそのままやっていればいいからです。

もっと言えば、他人と自分との距離を保つだけに留まらず、

自分自身とも等距離の間隔を置くという、

自分を常に客観的にみる能力は

特に高いと自負しています。

それに、どんな一党一派にも属したくないのが本音だし、

それが私にとっては最も自分らしくて楽なことなのです。

「孤高を保つ」なんて、

若い人たちは

聞いたこともない言葉ではないかと思うのですが、

私は小学生の頃から

一貫してそういう生き方をやってきました。

このような、

良い意味での「孤高を保つ」ことができなければ、

例えば、

政府からご指名を受けた「コーチ」や「ファシリテーター」は、

決して務まりません。

なぜならば、たとえ相手が内閣総理大臣であっても、

政権交替を果たした内閣であっても、

いつものように、誰とも、どんな政党や組織や圧力団体とも、

決してなれ合いにならず、

一定の距離を保ち続けなければならないからです。

しかも

自分の軸は決してぶれてはいけません。

解決しなければならない問題は、

国家の将来を左右するような問題ばかりですから、

「コーチ」や「ファシリテーター」は、

その問題の中味(コンテンツ)に関わってしまうと、

その渦の中に巻き込まれてしまって、

公正な立場を保つことができなくなってしまいます。

例えば

原発をいつまでにどうするのかとか、

いつまでも解決できそうもない領土問題とか、

そんなことに巻き込まれてしまいます。

「コーチ」や「ファシリテーター」は、

決してそんなことに巻き込まれてはいけないのです。

あくまでも

「問題解決のプロセスだけ」に関わることから

逸脱してはなりません。

ましてや、教祖ではないのですから、

クライアントには、

私に対する依存心や依頼心を持たせてはいけないのです。

そして、

最終的には自分の存在を無にしなければなりません。
 

 

知古嶋芳琉です。

 安岡正篤師は、主体性とか自主性の大切さをくどいほど

繰り返して講じてこられましたが、

これほど具体的に整理された講話は他にはありません。

ですから、このようなものこそ、

短くて分かりやすい文章に書き直して、家訓として定め、

床の間にでも掲げて、自ら日々実践してお手本を示し、

子々孫々にいたるまで語り継ぐべきなのです。

世に言う成功法則の、それも基本原則ですから、

今風のやり方なら

自分のチェック・リストとして紙に書き出して、

それを一つひとつ確実に実践しては

チェック・マークをつけるという、

地道な訓練を積み重ねなければ、

決して長距離勝者とか成功持続者にはなれません。

今回引用したのは

プレジデント社の人間学講話、『運命を創る』です。

---ここからは引用です---

■ 運命を創る

○ 次代をつくる人々のために

<主体性を回復するための十八箇条>

そこで、問題を少し具体化しまして、自己の主体性を回復し、

自己完成に努力すること、その具体的方針について、ここに

有効な方法をご紹介いたしましょう。

これは私見ではありません。

私がこの前、ヨーロッパからアメリカを巡りましたときに、努め

て各国の教育を視察して、調査資料の有益なものを集めまし

て、いろいろ研究し合いましたその一つであります。

これは十八箇条からできております。

 第一は、極めて通俗的なことで、しかも非常に難しいことで

ありますが、飲食の問題であります。

自分は毎日の飲食を適正にやっておるか、

過度や不合理ではないかということを調べることです。

『中庸』には、「飲食せざる者はないけれども、

よく飲食の意義を知っておる者は非常に少ない」

ということが書いてある。

確かに飲食せん者はないが、ほとんど「生きる」ということを、

「食う」という言葉で表わしておるように、飲食というのは生活

の大部分かもしれない。その飲食を我々が適正にやってお

るか、誤ってやっていないかを本当にやろうと思ったら、それ

こそ生理・病理からして際限なく知識を要する。そんなことは

とてもできませんが、絶えず注意して正しく飲食する。賢く飲

食するといってはおかしいが、これは皆さんが研究されると、

限りなく面白い有益な問題で、一番悪いのは、暴飲暴食や

妄飲・妄食することであります。日本人はもっと飲食を合理的

に、もっと軽くやる必要がある。日本人は栄養を取るというこ

とよりも、むしろ、満腹という言葉が表わしているように、腹に

詰め込むという悪習慣が非常に強い。私が外国を旅行して、

たびたび気がついたことですけれども、西洋人の飲食は一般

に簡単ですが、日本人は非常に重い“大めし食い”が多い。

そうして、また不合理な飲食者が多い。たとえば自分の可愛

い子供が大学に行って胸を患っているのを田舎の母親が来

て看病しながら、栄養を取りさえすればよいと思って、そのお

っかさんは、一日のうち半分くらい寝ている大学生に、牛乳を

飲まないか、お肉を食べないかというふうに、卵をいくつも食

わせたり、パンにバターを塗りたくったり、そういうようにうま

いものを食わせなければいけないもんだと思って、食いたが

らない子供に一所懸命にバターとかチーズとか卵とか牛乳な

どを勧めておるのです。また、この青年は甚だ非科学的であ

りまして、何かそういうものを取らなくては自分の体がもたな

いと思っている。そして、実は自殺を招いておるのです。なし

くずし自殺をフルスピードでやっておるのです。

 食物は、消化をし吸収をすることが必要なんで、胸を、呼吸

器を患っておるというのは、すでに全体が弱っておるし、消化

機能も衰えているのですから、それに肉とか卵とかバターな

どを詰め込むことは、まったくとんでもない自殺であります。

なるべく、そういうものは少なくして、もっと消化しやすい、

吸収しやすいものを与えなければいけない。うまいものを

食べるよりも、食欲をつけることを考えなければならない。

我々が本当に飲食しようと思ったら、ときどき断食や節食を

やるほうが、うまいものや薬を飲むよりいいことなんです。

だから母親に「あんまりそういうものは食べささんようにして、

食欲をつけることを考えなければならない。そして、身体に応

じて消化しやすい、吸収しやすいものを与えろ」と説明してみ

るが、なかなか分からない。牛乳を飲んだり牛肉を食ったら、

栄養がついたような気がする。これは非科学的な不合理なも

ので、「妄」食です。

牛肉をたらふく食って酒を飲むことは、これも非科学的な、

不合理なものです。昔の人の方が、その点かえって合理的・

科学的な食物をとっておる。

昔の酒飲みは、必ず酢の物とか、淡白な、あっさりしたものを

とっておる。

我々の食事は、やはり陰陽の原理で、日本酒は陽性なもの

です。酒の肴は陰性のものがいい。酢の物、野菜とか、淡白

なものがいい。牛や豚を大食して酒を飲んでおったら馬鹿に

なることは間違いがないことです。

 私の親しい医学者の話に、ビールを飲んでトンカツを食って

おったら三か月で結構馬鹿になるということを言っておりまし

た。我々は不合理な飲食、馬鹿な飲食を案外にやっておる

のです。下手な小説や論文を読むよりも、こういうことを研究

した方が、よほど人生の役に立ちますし、意味があります。

平生、飲食に注意をされ、飲食の科学、飲食の哲学を注意し

ておられるとよろしい。これは若い時はなかなか分からん。

ところが、まあ四十を過ぎてごらんなさい。定年に近づいてく

ると、これが必ず大問題になる。何ぞ知ることの遅かりしや、

ということになる。

今のうちから心がけておられた方がよろしい。

 第二は、毎晩よく眠れるかということです。

哲学的に言っても、睡眠ということにいろいろ意味があるが、

とにかく、よく眠ることは非常に大事です。

眠ることに二条件ありまして、それは熟睡と安眠であります。

熟睡というのは深く眠ることです。これは、つまり生理の問題

です。安眠というのは、心理の問題です。つまり精神状態が

平和であると安眠ができる。安眠と熟睡とは、そういう点で

違うのです。精神状態は平和であっても、どこか健康に支障

があれば、熟睡はできません。疲労すれば熟睡はできても、

精神状態が不安であると安眠にはならない。監獄を脱走して

山の中を走り回って疲れ果てて熟睡はしますが、それは非常

に不安眠であります。

我々は、やはり精神生活に伴って安眠をする。

それから、

疲労の度合いによって熟睡、あるいは浅睡になる。

常に安眠して熟睡することを考えねばならないわけです。

そして眠るということは案外短時間でいい。

安眠と熟睡なら割り合い短時間でいい。

たいていの眠りは最初のうち、うつらうつらして本当に寝て

おらない。それからしばらく熟睡して、そうして、またうとうと

してくる。

これはたいへん気持ちがいいもんです。

これを惰眠という。

西洋でも東洋でも、

非常に有為有能な人に共通していることは、

惰眠をせぬことです。

 今、蒋介石が心酔しておる

曽国藩(そうこくはん)という清(しん)末の偉人がおります。

これは太平天国の乱(長髪賊)を平らげて大功があった

湖南出身の偉人でありますが、この人がいつでも

「黎明即起せよ」、これは早速に起きろ、

「醒めて後、霑(てん)恋することなかれ」、

霑恋というのは寝床の中で惰眠をむさぼっておることです。

確かに我々は朝寝坊をするのとしないのとでは、

非常に違うんです。

能率ばかりじゃなくて、精神状態も非常に違います。

それには、

案外少ない時間の安眠熟睡を得れば足りるのです。

精神的不安を持っておると、どうしても熟睡がしにくくて、

眠りが浅くなりますから、惰眠の時間が長くなります。そこで

毎晩よく眠れるか、安眠熟睡ができるかどうかを点検するこ

とは、非常に意味があります。

アメリカのある大学の心理学の研究室で、

大学生の生活調査をやった報告を見ましたが、その中で、

やはり飲食や睡眠を調べておりました。その報告を見ますと、

いわゆる惰眠が多い。不安眠が多い。本当に規則正しい

生活をして、学問や運動に打ち込んで、安眠熟睡、黎明即起、

醒後霑恋せざる者は寥々(りょうりょう)たるもので、

たいていは惰眠党であります。

大学生時分はそれでよろしいが、

社会人、事業人になりますと、

これは非常に注意しなければならんことであります。

 第三は、自分の心身に悪影響を与えるような、

悪い習慣はないかということです。

朝、起きると、亀の子みたいに寝床から首を出して、タバコを

スパスパやりながら一向に起きないとか、夜遅くまで晩酌を

やりながらくだをまいているとか、麻雀をやって夜明かしする

とか、いっぺん銀座通りをうろついてこんと本が読めんとか、

案外人間にはつまらん習慣があるものです。そういう悪習慣

のあるなし。

 第四は、適当な運動をしておるかどうか。この運動というの

は、その人によって、かなり過激な運動もいいし、場合によっ

ては柔軟体操もいいし、また場合によっては静座、調息とい

ったようなものでもいいし、運動というものは、その人に適し

たものでなければなりません。運動そのものがいかにいい

運動であっても、その人にいいとは限りません。自分自身に

適当な運動をしておるかどうかということ。

<悲観と興奮は心の病>

 第五は、自分は生活上の出来事に

一喜一憂しやすくないか。

つまり、日常の出来事に軽々しく感情を乱されるようなことが

ありはせんかということです。特に、非常に悲観したり、落胆

したりするような、エキセントリック(抽象的なもの(思想、

行動など)について「偏っている」「まともでない」

「普通と違う」という意味にも使われます)なところです。

妙にぺしゃんこになったり、

妙にウキウキしたりといったような、

特に、そのうちでも悲観したり、落胆したりしやすくないか。

 第六に、特にすぐ悲観したり興奮しやすいというのは

病的で、事を成すに足りません。

こういう人は環境に支配される力が強いですから、

容易に自己の主体性を失いがちである。

外物に動かされやすい。

伝染病にかかりやすいのと同じことです。

 そこで第七は、たとえそういう精神的動揺があっても、

仕事は平常のとおり続けうるかどうかということを実験する。

吟味する。

そういう感情上の動揺があっても、仕事は平常の如く

続けられるというのは、それだけバックボーンができておる。

 第八は、似たようなことですが、昨日の失敗のために、

今日の仕事が妨げられないでいけるという実験。

終始一貫していけるか、ちょっとした失敗で、

すぐにその仕事が嫌になるようなことがないかどうかです。

 それには第九、絶えずこういうことを自分で反省し、

修養する必要がある。

それは毎日の仕事に自分を打ち込んでおるかどうか。

我々は案外精神が散乱しやすいもので、

ものに打ち込むことは非常に難しいことです。

東洋哲学でいうと、「止」という言葉がある。

これは「とどまる」と言いますけれども、

これはものに打ち込んで一つになるという文字です。

だから、「止観」(しかん:天台宗で、

禅定(ぜんじょう)により心の動揺を払って

一つの対象に集中し、

正しい智慧を起こして仏法を会得すること)という言葉がある

でしょう。ものに打ち込んで、ものと一つになると、

そこから本当の叡智と、直観力が出てくる。 二、三日前、

お役人たちと雑談しましたが、そこに一人の事務の達人が

おりまして、これが一杯機嫌での話しに、

「自分は回ってきた書類を掴むと、だいたいこれはいいか

悪いかということが分かる」。

「そんな馬鹿なことがあるか」と言ったら、そばの人も、

「分かる」と言っていた。

それは仕事に打ち込んできた経験が、

だんだん直観力を発達させたのです。そういうことをいうと、

自慢のように聞こえますが、私どもは絶えず思想的な書物を

始終、何十年も読んできていますから、思想的な本ならば、

本屋の前で新刊書を手にとってパラパラめくると、この本は

いいか悪いかがすぐ分かるんです。これはつまらんなと思っ

たら、読んでみたら必ずつまらん。これは面白そうだと思って

読んでみると、必ず面白い。そういうような直観力は、私だっ

て経験いたしますから、大家はきっと回ってきた書類を握れ

ば分かるんでしょう。また、そうでなければいけない。

果物屋は、たとえば柿の木を見て、いくつ成っておるかを

大体当てます。それで、ちぎってみると、五つか六つぐらい

しか違わない。機械の熟練技師は機械を一々分解しなくて

も、機械のどこが悪いと訴えると言いますが、本当に分かる

んです。すべてそこまでいかなくてはいけないので、それには

仕事に打ち込んでいるかどうかを吟味する。

 十番目に大事なことは、

自分は仕事にどれだけ有能であるか、

自分はどれだけ今の自分の仕事に役に立つか、

こういうことを絶えず実験してみる必要がある。

ところが、案外自分は仕事に役立つ能力がある。

有能である、有能でない、という判断が当てにならん。

しばしば我々は、とんだ錯覚、浮気がありまして、

自分の柄にもないことを、

いわゆる下手のよこ好きならまだしも、

柄にもないことが好きで、

興味があることと、能力があることは違うのに、

よくそれを錯覚する。

えてして自分の本来の能力を意識しないで、

自分の本来の能力でもない、

そういう自分に実は不適当なことの方へそれる。

だから、本当に自分はこの仕事に適しておるか、

役に立つかどうかは、案外冷静に、克明に吟味して、

容易に断定することのできない問題です。

自分がこの仕事にどれだけ役に立つか、

有能かということは、大いに吟味する必要がある。

 第十一番目に、現在の仕事は自分の生涯の仕事とするに

足りるかどうかということを、また研究する必要がある。もし、

生涯の仕事とするに足りんと思われれば、できるだけそれを

生涯の仕事にするに足りるよう研究をするか、何かそこにま

た落ち着いた正しい工夫と努力とを要する。我々の心構えと

努力の如何によっては、どんな小さなことでも、生涯の仕事と

するに足りる。心がけの如何によっては、どんな仕事でも、

一生の仕事とするに足りるに相違ないのです。

心構えが悪いと、どんな立派な仕事でも、その場の仕事で、

一生の仕事にならないということになります。

これは大問題です。


<四つの忍耐 退屈に耐えることの難しさ>

 第十二は、仮に自分の仕事がどうしても自分に合わぬ、

自分の生活が退屈であるとすれば、

自分の満足を何によって得るかという問題、

しからば、いかにすれば、あるいは、

どういうことが自分の心を満足させる仕事になるか、

これを考えてみる。

我々は退屈するということは案外いけないことなんです。

我々が働くことによって消費されるエネルギーよりも、

退屈することによって消費されるエネルギーの方が大きい。

退屈するということは非常に疲れることであり、

毒なことであることが

最近、医学的にはっきり実験で証明されております。

だから、その意味においても、我々は退屈をしてはいかん。

あくまで敏、敏求、敏行でなければならん。

昔から「四耐」という言葉があります。

四つの忍耐。

一つは冷ややかなることに耐える。

人生の冷たいことに耐える。

第二は苦しいことに耐える。

第三は煩わしいことに耐える。

第四は閑に耐える。

この閑、退屈に耐えることが一番難しいことです。

「小人閑居して不善をなす」というのは名言であって、

そこで

退屈せんように、

もし、仕事がどうしても自分に向かない時には、

どういう仕事をすることがいいかを調べる。

 第十三、とにかく自分は日常絶えず追求すべき

明確な目標を持ち続けておることです。

そういう思索や反省と同時に、

差し当たり毎日、今日はこれをしなければならん、

それからあれをやるんだという、

絶えず追求すべき明確な目標を持っておるかどうか。

もっと突っ込んで言えば、

とりあえず明日何をせねばならんという問題を

持っておるかどうか。

今日はもちろん、とりあえず明日、少なくとも明日、

これをやらなければならないという

問題をもっておるかどうか。

 第十四は、自分は人に対して親切であるか、

誠実であるかどうか。

ちゃらんぽらんで人に付き合っておりやしないか。

常に人に対して誠実であるかどうか。

これは重大な問題です。

事業人として、社会人として、

一番その信・不信の分かれるところは、

人に対して誠実であるか、

ちゃらんぽらんかということですね。

あいつはちゃらんぽらんだということになると、これは能力が

あっても駄目であります。

多少愚鈍であっても、誠実であるということは、

必ず社会的生命を得るのです。

 第十五に、自分は自分に対してやましいことはないか、

これは安眠熟睡にも影響する問題です。

 第十六に、自分は人格の向上に資するような教養に

努めておるかどうか。

人間を作る意味の教養に努力しておるかどうか。

我々はいろいろ本を読んだり、趣味を持ったりするけれども、

案外人間を作るという意味での学問・修養は、

なかなかやれんもので、

とにかく義務的な仕事にのみ追われて、

なかなか

本格的に人格の向上に役立つような修養に努力する。

何よりもそういうことを心がけることは、

少し忙しくなってくるとできにくいものであります。

それをやっておるかどうか。

 十七番目には、将来のための何か

知識・技術を修めておるかどうか。

つまり何らかのエキスパートになる努力をしておるかどうか。

昔から「芸は身を助く」と言いますが、

我々は人間としてよくできておると同時に、

何か一芸を持たなければならない。

つまり、エキスパートであるということは、

我々が社会人としての生命を確立するためには、

非常に大事な条件です。

あの人でなければならんという、

何か一つを持っておることは、非常に強みであります。

少なくともつぶしの効く人間になる。

それだけの素養を持っておる。

いや、持っておるのではなくて、磨くということです。

 それから最後に、これは非常に深い問題であるが、

自分は何か信仰とか信念、哲学を持っておるかどうか。

これは人間として一番の根本問題です。

その人から地位だの身分だの、報酬だのを引いてしまう。

あるいは親子だの妻子だのを引いてしまうと何が残るか。

何も残らんというのではいかんのです。

一切を剥奪されても、

奪うべからざる永遠のものが何かあるという人間に

ならなければいかんのです。

それには突き詰めたところ、

何らかの信仰なり、信念、哲学を持っておるということは、

尊いことであります。

そういうものを自分は持っているか、

持とうとしておるかということ。

 これはただ十八箇条でありますが、

これは私が考えついたことではなく、

いろいろの方面での研究・調査の総合的結論です。

こういうふうにして、皆さんが自分という人間、自分の日常、

自分の仕事、自分の内面生活、

そこで自然に自分の環境、社会情勢というものにも

活眼を開くようになり、そうして修業していかれたならば、

自分というものを容易に麻痺させたり、若朽させないで、

どんどん進歩していくことができる。

こういう心構えを持たずに、うかうかしておられると、

容易に現代の複雑な、

非常に恐ろしい社会的魔力のために束縛されて、

案外自分を駄目にしてしまう。

これは冷厳なる事実であります。

 これだけ調べてみますと、

自分というものがはっきり出てきましょう。

人間は修養しなければならないとか、

教養をつけねばならないとか、

いろいろ漠然と抽象的用語は使いますけれども、

案外に具体化ということになりますと、

掴みどころがないものであります。

人間生活は、やはり具体的で明確でなくてはならない。

---引用はここまでです---