小姑は実家に来た時、自分のことを「○○」と名前を呼び捨てにする。
例えば、ルミ子だったら、「ルミ子、そう思う」「ルミ子の分も欲しい」という具合。
わたしは、あの一人称の呼び方が癇に障ってしかたなかった持續進修基金課程
(「ルミちゃんねえ」「ルミたんが、ね)よりは、マシか)
誰も教えもしないのに、うちの3番目孫は3歳で自分のことを「わたし」と言うようになった。
ついでに、話は逸れる。
孫たちは親のことをパパママと呼ぶのだが、それは世間体を考えて。
ほんとうは、「おとうちん」「おかあちん」なのだが、皆んなと呼び方が違うのが恥ずかしいようで、親は決してお互いパパママと呼び合っていないのに、孫たちは世間の風に負けたようだ。
あっさり迎合している。
わたしは、おとうちん、おかあちんという呼び方が大好きなので、いまだにひとり、娘夫婦のことをおとうちん、おかあちんと呼んでいる。
家の中に世間の風は入って来ないから気楽。

それは脱線話であり、本筋に戻す。
孫が社会人にもなろうというのに、「ルミ子ねえ」は、なかろうとわたしは思う。
さすがに最近は言ってないかと思うが、30歳〜40歳の頃はそう呼んでいた加拿大 學校
ついでに、小姑は母親のことを「ママ」と呼んでいた。
ひ孫が出来ようが、これは今でもだろう。
各人、好きに呼べばよいと思う。
が、育成背景、環境を知っているわたしには、また違う響きを持つ。

国が違うと呼び名も違う。
だから、末端現象だけ捉えると、何の問題もない。
たんに、わたしが背景や方針が嫌いなだけだろう。
なぜこんなに、何十年経ってもブログにツラツラ書き連ねるほど嫌いなんだろう。
まあ、いろいろある。
過去の思いは、醸成され、違う質に変化している。
「美化」は、その反対語。
「思い込み」、あげくのはてには話を盛って無自覚捏造環球專上書院

小姑自体はとても良い人、好人物。
意地悪されたわけでもなんでもなく、むしろ気遣いしていただく。
小姑自身を憎むことは全くない。
わたしに恨まれる筋合いは全然ない。
では何を?
おそらく、その背景、現象だろう。
誰も悪くない。
組織の力、全体責任、必要悪、愚衆、、のように、ピンポイントで人物を特定できない。
登場人物は皆、良い人。
時代の価値観やうねり、流れで、光の当たり方は変わる。
それだけのこと。