サット・チット・アーナンダ

サット・チット・アーナンダ がゴールではない

 

ジャニャーニの境地はおそらく サット・チット・アーナンダを超えている

 

実はこの上の2つの文章こそ 今自分が書き表そうとしている記事の正規のタイトルとして相応しい

サット:存在  チット:意識  アーナンダ:至福  ・・・  以下これを 仮に STA としておくとする

自分は昨日 今まで好き好んで応援してきた ブッダかずひさ を note にて政治的観点から激烈に批判したばかりだ

ブッダかずひさ
読んだ人が思うことを自分は重々承知している
因みに 自分の態度は最近の若者からみれば 偉そうかもしれない お許しあれ そんな気はサラサラないのだが 文を書くときの勢いというものがある
 第一自分はj-currentとして記事を書きはじめた時から 超辛口の政治批評をした後にスピリチャル的に深淵な宇宙の神秘を語ったり それまでありえなかったことを平気でやってきた
お堅い保守や粗暴で感情丸出しの右翼的姿勢を示したすぐ後に 静寂の瞑想世界を語ったり 今までありえなかった7変幻をやってきた
 誰だって 自分のその姿勢をみれば こいつは一体どの状態が本体だ? こう思うのが常だろう
つい最近も 呪法的世界の恐ろしさの実体験を書いて賢慮な姿勢を示したと思えば 認知症の親への怒りを現したり そして昨日はブッダかずひさへ 政治的𠮟責を粗暴な言葉で感情丸出しでぶつけ 保守系としての心意気に目覚めるよう促した もちろん 自分ができるのはそこまでで ある種彼の言葉や知識に何度か感謝を感じた軽いファンとしての 最低限の "けじめ" の意味として筋を通す意味もあり書いた 後は本人次第でありそれは昨日までのことであり

今日気分新たにこれを書いている

 

今日はアメブロで STA (サット・チット・アーナンダ)だ 安定を好む人にしてみれば おまえは一体どういう神経してんだと思われるだろう
しかしそういう人に私は 堂々といってやる だからこそ真実であり 本筋において!飾りは無いと そもそも何ものにも洗脳されない人間の本心とはこういうものだと!
商売というメカニズムに洗脳されない 人間本来の意志とは かくも!ダイナミックであり多様性があり変幻自在であり商売メカニズムに洗脳された連中とは 一線をかくしていると

商売メカニズムに洗脳された者の意志はどこかに歪みが発生して その主張は最後の最後には商売に収束していく!
おっと 気分害するなかれ 貴方にいっているのではない! 全てに吠えているのだ!
自分だって オールトの雲 から派生しているブログ以外は 商売をやるかもしれないわけだから 人のことはいえない

もっとも私は 変わり者の部類というのは充分自覚しているし 変化の激しい人生を送っている その告白において1点の嘘もない 私は普通やワンパターンがとことん嫌いだというのは最初から堂々主張している

今日なぜに 突然 STA を題材とする記事を書く気になったかといえば 新しい世界観の要所要所の基点となる ポイントをできる限り早く世に示したい、そういう気持ちが高ぶったからだ これにより 今までの精神世界を 1気に前進させようという心意気が沸いてきたからだ

無論 そういう気になっている時にこそ ブロガーとしての行動あるのみだ

現実世界の生活も着々と準備が整っている間に 就職も何の苦労もなく決まってしまった ただ実はその会社にいくべきかどうか 多少迷っているといった具合だ

また 哲学系 金をつかわない社会は如何にしたら実現可能か? 路線の記事はまだ取り込み中で公開するまでに至っていない 申し訳ない

いつも長くなる前置きは このぐらいにして 自分がこれから提示しようとしている 新世界観 神秘世界の神髄は

単理 『サット・チット・アーナンダ 』 は全くもって 目指すべきゴールでは無い! ということだ

ゴールでないどころか スタートでもあり 休憩所にすぎない という見方だ

さてさて ヨーガや瞑想に真面目に明け暮れている 諸師達は これを聞いてどう思うだろうか?

まだ 釈然としないなら もっと過激にいえば 今まで宗教やヨーガ 仏教で言われてきたところのその究極のゴール 涅槃寂静は

目標どころか スタート地点であり時々立ち寄る 『休憩所』 にすぎない といいたいわけである

しかも 中には あまりその休憩所に長居するのが嫌な者も確かに存在するという真理だ

私はその一人だ 当然生命として嫌いではない ”長居するのにすぐ飽きてしまう” ということである

そう! つまり人間1万人程集めたら 中には その『 休憩所 = STA (サット・チット・アーナンダ) 』 を熟知してかつその状態を再現できるのに
その状態があまり好きでなく それより外の創造世界の方を遥かに好む魂も数十人~100/1万 人 いやもっと多いかもしれない  とにかく いる!という事実だ


つまり 人類全般で考えるなら 1%~数% はそういった魂としてこの世に出現している おそらくそんなもんだろう それが今の私の最大の悟りであり収穫だ

ただ この時点で 解脱という概念が即 STA を現しているか?というと それはまた論がわかれるところだ

ただいえることは 真我独存 真我実現 究極の実在 涅槃寂静 完全なワンネス状態 サット・チット・アーナンダ これらは大方 同境地を現しているとするなら

それらは、『休憩所』にすぎず また 1%~数% の人はそれをあまり好まず 自分からそれを破棄して 創造世界を楽しむ方へいき

また さらに詳しく話すなら それらの人々は しょっちゅう意識的に それの出入りをしているということがいいたいわけで

まさしく STA は休憩所であり また休憩所の存在を充分わかりつつ それがあまり好きでないものがいくらでもいるということである ごくごく自然にだ

さらに いうなら 仏教で言われるところの 菩薩行 と似ているが そんな大それたものでは無いということがいいたいわけだ わかるだろうか?

つまり ここでもまた今までの歴史において 宗教による 「 厳格化 」 が激しく行われてきたということだ


そういう 休憩所への行き来は もっと自然に 無意識のうちに成されていた といいたいのである

もちろん 無意識でなくそれを意識的にそうしている人もいれば 全人類的には おそらく睡眠中にそれを行っているはずだ
というか そうしないと 身体は成長しないし 精神もそれがあるが故に リフレッシュされこの世で存続可能となる

つまり 休憩所は 医学的な場所でもあるとさえいえる

まとめると

今までの時代 ⇒ STAは 禅の高僧さえ辿りつくには至難の業で その領域=涅槃に辿りついた者は 人類でも数えるほどしかいない

今の自分の見方 ⇒ そんなの 誰でも睡眠中にそこにいくし そうじゃなくても 100人集めれば 数人は 意識的にせよ 無意識的にせよ しょっちゅうそこで休憩しているべ

これだ!

[なぜそういいきれるのか?]

① STA を体験したときの状態

長年 瞑想のゴールである涅槃寂静またはマハラジのいう究極の実在 真我独存状態 これを一度は今生で生きている間に意識的に経験してみたいものだ と思い続けてきた

ほんとに自分を瞑想家と名乗る以上は それは目標になってあたりまえだ 当然自分とてそう思っていた 長年!

したがって 過去 幾多の本や記事で その状態が如何なるものかみていたのは 言うまでもない ほんといろいろ言われているそのSTAなる状態とは

「ある日突然 ひょんなところからやってくる!」

これが 今の私の実感だ これぞまさに! 恋は突然にではなく! 涅槃寂静は突然に といったところだ🤣

https://twitter.com/hermitregion/status/1288121222622883846

これが その時の体験をいち早く記しておいた 手記みたいなものだ

上のツィートの中で その至福を最も素直に言い現わしているのが このツィートになる 👇

『そうそう! これこそが 何1つ疑問が存在しない
永遠の平安の世界だ
この体験後 直ぐにこれが何なのか 言語化できていなかった 
思考や感性を徘徊している あらゆる疑問はこの領域にいくと 全て! 悟られ消えてしまう
しかし それは 簡単にそこに在り しかも永遠に在る』

実は この文をスマフォで打っている時は まだそれが STAという自覚までには50%までしか達していなかった
なぜ気づかなかったというと そんな簡単に STAなるものが実現できるものでは無いという拘りがあったからだ

しかし 一番最後の文章(ツィート)

『 これは話しても 人にはわからないだろう
今の自分は 自分の記憶が薄れないうちに ハッキリと記憶させる意味を含め書いている
そう 今 じわーっと この体験が何を意味していたか? よくわかってきた この瞬間に だ 』

信じられないだろうが この文を書いているときに 残り50%の自覚が沸いてきた

つまり 「あれっ?これってもしかして サット・チット・アーナンダ じゃない? えっ?・・・・・・そういえば・・・」

そう おわかりだろうか? 存在 意識 至福 この時の 自分がツィート群で語っている『 無形の時空独立平安領域 』

これは まさに この3つの単語で現わされる以外の何ものでもないのである

存在・・・確かに存在していた 意識・・・そう確かに意識のみでありそれ以外では無い 至福・・・そうまさに気持良さの最高状態それ以外の何ものでもない

そして補足するなら そのツィートでもいっているが 疑問というものが綺麗さっぱり一切無い 存在しない
その「疑問が存在しない」の意味は

 

 あるのに忘れている 保留棚上げしているというのでは全く無く!


全て解決されているのである 全てわかってしまっていて 万事OKで
意識内にわからないことは 何1つ一切無い状態なのだ
そして この意識状態に 形なるものは一切無い ただただ意識あるのみ もちろん最高に気持ちのいい意識が! そして完全に何ものからも独立している 完全に不動で永遠に安定していて平安そのもの!

それは まるで アルゴリズムのベクトルが 球の中心に向かえば向かう程 全ての不安 拘り 疑問 こういったものがものの見事に解決解明され何一切疑問がなく
真我 は己に対して完全に納得いっている状態 という意味において完全無欠であり 無形であり 平安そのものなのである

そして 至福とは とにもかくにも気持ちがよく なんというのか 深い深か~い眠りの時 もし意識が仮にその時の体感を観察できたなら その時味合うであろう
深~い 安楽というか平安 それそのものだ

後になって考えてみて そういえば もし平安というものの最高の状態があるなら 確かにあれ以上のものがあるだろうか?・・・と後になりじわーっとわかってきた


② STA を体験したときの経緯

自分は 手術後の2日の間に ふぃをついたように この体験をした もちろんそれは Twitterでいっているが 手術後の長い寝ているだけの期間に瞑想はやろうと思っていたが (どちらにしても、ほとんど寝ていることしかできないのだから) 最終解脱を目指そうとかまでは当然思っていなかった


ただただ ごくごく自然に 瞑想でもするしかないな という心意気だった

手術後の肉体的状態としては 上半身を半分だけ起こした状態で ウトウトしたり覚醒したりまたウトウトして明晰夢を見たりと繰り返していた

https://twitter.com/hermitregion/status/1287086880660418560

ここにあげた状態は1~2日後だったか 詳しくは忘れたが この明晰夢みたいなものが基点となった
それまでの明晰夢は SFの世界みたいなものを垣間見たり たわいもない夢と同じような明晰夢が続いていたが あるとき上にあげるような 基点となる状態を経験した

そして薄っすらと覚えているのは 上に示している 明晰夢も含め瞑想中の世界さえ 全てを起こしているある1点のその中心意識に向かった時に その不滅の不動平安領域を知ることになった

知ることになったという言葉さえ 実は不正確であり 最初から利用していたことを思い出したのだ

つまり その 無形の時空独立平安領域 を出たり入ったりして 明晰夢やら瞑想やらをやっていたことを思い出したのだ

非常におかしな表現だが そうとしか言い現わせないのだ それはその領域に近づいたからこそ それをしていただけのことだった とそうなるのである

つまり 自分の感覚としては こうだ

『あっ 明晰夢のあの状態でこれをやるには どこどこに行き・・・をつくる必要がでた よし 無形の時空独立平安領域 へいって ・・・をつくりあげ それを今度 どこどこの世界で こうやって使うぞ ・・・・・』

なんともおっかしな思考以前の思いを実現していたことを覚えている なんと若干目が覚めても その世界観に戻ろうとまた目をつむり何か作業をやっているのだ


※おそらくアイデンティティなるものは このサットチットアーナンダ領域 "表面" のある1点にすぎないと思われる
つまり 最初の最初の個別化はこの時すでに波を打っているとなる

元へ


そもそも「無形の時空独立平安領域」など "目的" にしていないのである ところが この領域に一旦入ると 気持ちがいいためなかなかでなくなる そのままになるというけったいな事が 起きるのだ 下手するとここに一旦入ると数時間はそのままになる

そして その 無形の時空独立平安領域 を出たり入ったりして その 無形の時空独立平安領域 の周りにいろいろ創りだして 作業をやっているのだ

あるとき あ~ また無形の時空独立平安領域から ・・・を取り出して ・・・をつくり その作り上げたものから ・・・をどうしないと駄目だ いそがしいいそがしい・・・ えらぃこっちゃ!

(※この時 身体=微細体はおろか 形というものさえない 全て性質でしかない )

とやっているときに それにしても エントランス=無形の時空独立平安領域 は気持ちいいし 完全だな~ などと感じている自分に気づいた

そして 若干目を覚ましながら ん~? 「それにしてもこの無形の時空独立平安領域」って何? と思ったわけだ

すると それまでの 明晰夢からのターニングポイントだった

「明晰夢も一般的想念も現実も総てを含んでいる『空』の現れが ある一点から綺麗におこっているという システマティックな悟り世界の全体像」 ・・・ A

これらの 世界観が消え失せて肉体思考が働きはじめ 今まで体など何もないくせに その 無形の時空独立平安領域をいったりきたりしている自分の記憶だけが おぼろげながら残った いわば感覚イメージの残像だ

そして考えはじめた これって何じゃろね? と・・・

つまり ここまで説明している世界は そもそもこのAの悟り体験からはじまった そしてA世界の全てを生み出している1点の中の世界を説明している

それを3日目ぐらいから考えはじめて スマフォに書き始めたわけだ 最初の2日間は この領域周辺で必死に活動している時は この無形の時空独立平安領域は

当たり前中の当たり前の 我が家みたいなものだった

これにて 上に示した 無形の時空独立平安領域 = STA (サット・チット・アーナンダ) は 最初からフルに活用しているエントランスみたいなもので

全く目的ではないというのが 明白にわかったのである まさに!あって当たり前のものだ
いわばこれは 会社員にとってのマイホームみたいなものだ

いゃね これは 上にもあげたように 一旦その領域に入ると厄介で 気持ち良さに浸ってしまうのだが 自分の場合決してそれが目的ではないのである

それは 今まで示してきたように その周辺部をウロチョロして 何かをしようとしている自分の記憶があるからこそ その中心部である
無形の時空独立平安領域=休憩所=エントランス=STA (サット・チット・アーナンダ)という状態を捉えることができた

(※この点は瞑想家にとっては非常に重要 つまりSTA状態だけでは おそらく記憶に残らないだろう その"周辺部"をあれやこれや アリンコアメーバみたいにウロチョロしていたから感覚のみが残っているといえる)

 

また若干ではなるが 次もまたいえるのだ

この STA (サット・チット・アーナンダ) にあるとき 意識はアイデンティティをもっている(不思議なことに)と・・・

このSTA (サット・チット・アーナンダ)状態の時 当然 思考などというものは一切消失している 完全に思考はない

しかし 殻っぽか? というと そうではないのだ

ほんのわずかだが 針の先ほどな微細な振動みたいな感じで 意志の兆候があるのだ その微細な振動のことを自分はアイデンティティといえばいいと思うわけだ

その微細な振動があるが故に その STA (サット・チット・アーナンダ) から離脱して 「形」をつくりはじめるのを覚えているのだ そう 形=様々なオブジェクトを作っているのである そのオブジェクト状態の時の意識もあるが故にこの記事を書けるのだ わかるだろうか そのオブジェクトは 性質というものでしかない 図では形1,2 とか名称をつけているが それは 形ではなく 性質だ

何やら ゴタゴタと 本体からエネルギーを取り出しては いろいろやっていたのを覚えている

なんせこれらの説明は 形の世界ではなく 形以前の世界であるが故に 完全に理屈を超えている まるで アメーバが積極的に細胞分裂をはじめるように動きだすのであり それが意志というかアイデンティティのバイブレーションなのである

この 形でないものが 形になる 初源の世界を言葉でいくらいってもあまり意味をなさないかもしれない

そもそも この STA領域のことを まるで微生物でも観察するかのように なぜ "説明できる" のか? といえば そういう"角度"で体験したからだ

なんというのか 奇跡的に その領域体験を説明しやすいような "角度" で体験できたところに自分の体験価値があると思っている

しかし自分は これらにより 完全にわかった事実は

STA (サット・チット・アーナンダ) なんていうものは 少なくとも自分の場合は 気持ちはいいが 目的などとは程遠く意志の 休憩所もしくはスタート地点にすぎない という結果である

そして 珍しくもなんともなく いついかなるときも我々と供にあり おそらく生まれる前から死んだ後もそこにはいくのである

そして 輪廻転生などは その 先に話した

『 明晰夢も一般的想念も現実も総てを含んでいる「空」の現れが ある一点から綺麗におこっているという システマティックな悟り世界の全体像 』

の 世界像のいくつかに過ぎないことがわかるのだ

わかるだろうか? 所詮は狭い世界のいくつかに過ぎないのであり その上でいうところの 全てを生み出している1点が 真我であるSTA (サット・チット・アーナンダ)なのだ
※因みに このSTA状態一歩手前にいくまでに自分はおそらく数時間の瞑想状態を経験した その時の状態とは

 

マインドに 疑問Bが沸いた その直接的原因は何だ?

それは ・・・の時 ・・・を切望したからだ

その結果 首が長くなり ・・・になった

ところが・・・ という思いがつよまり ・・・を希望した

それが・・・を引き寄せ合体して・・・となり

海の中で放浪して死んだ その時・・・を渇望した

・・・・ ⇒ ・・・・ ⇒ ・・・・ ⇒ ・・・・ ⇒ そして今生の生がはじまり・・・という思いに至った

 

こういった想いの原因結果の連鎖がめくるめく展開して 一気に疑問はあたりまえに解決するのである

信じられないだろうが


そして そのSTA (サット・チット・アーナンダ)の状態は 完全に疑問=0の状態で 存在 意識 平安 なのだが

自分には さらに それを超えた世界があることが おぼろげながら予感されるのだ それに関しては予感だけで体験は全くない

それが ジュニャーニや釈迦の最終境地なのかもしれない ニサルガダッタマハラジやマハルシがいうところの ジュニャーニの意識世界ではないだろうか? と思われるのだ

しかし いっとくけど この STA (サット・チット・アーナンダ)の体感状態では 思考は働かない 一切ない あるのは アイデンティティ=性質だけだ 思考や感情による物語世界は この時点までに一切おわりを告げている

先にもあげたように STAは、疑問や思考が存在できる周波数では全然ない それはSTA (サット・チット・アーナンダ)にいくまでに一瞬で解決され 解決されるたびに至福は増していき そして STA (サット・チット・アーナンダ)になるからである

もし仮にこのSTA 状態で疑問が意識に沸こうものなら0秒で即座に答えはでてしまうだろう
そんな現象自体起きないしありえないことは 体感すればわかる ただその性質の詳しい説明のために言っているにすぎない

だから ヴェーダンタやウパニシャッドの瞑想の神髄やそのやり方をとやかくいう世界はこれまでの話であり その全貌が明らかになるのだ

このSTA (サット・チット・アーナンダ)状態においては、自分の特性というか 性質 つまり波動だけが 動けるというか活動開始できるキーポイントになる

この時の 完全な言語を超えた微細な振動 それが我々の個性の本体といえるだろう

今回は かなりマニアックな ヴェーダンタの神髄みたいなことを書いた

読んでもらえば わかると おもうが これらは その特殊状態(トランス意識)に至っての性質なのであり 日常に戻り 他人と顔でも合わせ一旦理性に火がともり言葉や感情を発し始めたら瞬く間に ただの人間になることは言うまでもないので 絶対勘違いしないようにしたほうがいい

 別にこれらの体験の間も 肉体次元においては外からみるぶんには何の違いもないだろう

こういった解脱世界を目指してのまさにその途上にあるトランス意識状態と 日常の覚醒状態を混同する姿勢が馬鹿な妄想を生み出す元といえるだろう

ただ これを体験した自分はさらに強く マハルシやマハラジのいうこと とくにマハラジがいっていた言葉は全て事実だという思いを強めるに至った

まさに この現象宇宙は 冒険こそが基礎だ そして おそらくこのSTA (サット・チット・アーナンダ)の 日常の平常意識での維持こそが”修行者側面”での目指すべき真のゴールといえるのかもしれない


このSTAとその周辺運動は 思考や感情は一切なく性質でしかありえないといっておきながら 冒険といっているのは

単理そういうしかなく 冒険意識 これが この領域を言い表す 唯一の運動性質 そういえるまでだ

しかし 日常の平常意識であの状態を明確化できるときには おそらくその人物にとってこの世はほんと何の価値もなくなってしまうと思われる 全く面白くも無い世界になるだろう

以前 自分は瞑想するたびに クンダリニーの火が下部から沸いてしまい とても怖くて瞑想できない時期があった そうでないときでも 瞑想の肝心な部分で後今一歩のリラクゼーションがないがため 断念せざるおえない場面は幾度も経験している

それを鑑みるときに この手術後の気分的にゆったりした時節は 最高の環境を与えてくれたといえる もちろん甲状腺をとったことも幸いした

カギは 聡明な意識の眼とリラクゼーションにあることがわかる リラクゼーションさえ徹底できれば どんな意識状態さえ経験可能を物語っている 逆にそれができないと 意識の階層の変化のたびに マインドが驚いてしまい瞑想が進まないといえるだろう

逆に リラクゼーションが度を超えると 今度は トランス意識状態における記憶や制御が曖昧になったり寝てしまったり 神秘を体験しても覚えていられない 舵をとれないとなる

従って やはり トランス意識における聡明さを鍛える必要がどうしてもでてくる そんなときやはり 以前行っていた虚空蔵菩薩真言の修行は功を成したのかもしれない

虚空蔵菩薩真言

また虚空蔵菩薩真言 意外に 空間それ自体を讃える マントラは大変貴重といえるだろう 空間それ自体を崇めるマントラ それは大変貴重だ

 

Aakash Gayatri Mantra

 

特に最近はこの2番目のインドのマントラは1日100回以上は唱えたり聞いたりしている それは👇に示すが功を成したかもしれない(もちろん虚空蔵菩薩真言も忘れず毎日その詠唱は欠かさずやっている)

なぜなら そのマントラに集中しているときは 純粋初源意識がその性質を讃え 空間そのものにおいて意識を鮮明化するという命令を自分に叩きこんでいるようなものだからである

空間自体=空事態に 行念を最大限注ぎこみ 空間への熱意を込めるつもりで修行することをお勧めする

 

一方日常平常意識状態において これに近づくには やはり修行しかありえない そして 虚空蔵菩薩真言 や 空間を讃えるマントラに効力があることは ここ数日の修行において ある体験を通して明らかにわかった

 

ちょい数日前の 夜のトレーニングの後 自分は帰路について 家の前の通りで 鮮明な自動無意識100%状態になっていて そのとき現実のある物が目に入ると同時に ある想念が100%になったその瞬間 その物体に問答無用で

圧倒的影響を与えてしまった😲 それは完全自動だったほんの1舜の出来事ゆえ 驚いた そしてこれだ!ということがわかった

😅 心配しなくても 何か悪さをしたわけではないのであしからず

 

つまり 自分は 昔から求めていた 問答無用の神通をその瞬間達成してしまったのだ

なるほど 自我があるうちは 神秘は何ほども姿を現さないとは こういうことか! それがこの時悟ったことだ

またそれがどのように展開されうるのか?というメカニズムもハッキリわかった

 

それは 完全に理屈を超えている もちろん!もちろん こういうことを悪用することはありえないので心配ご無用!

悪用しようものなら 如何なる些細で複雑な理屈があろうとも それはたちどころに消え失せることも同時にハッキリわかる瞬間でもあった

なぜなら それは 自分=自我 がやっているのではないからだ
リラクゼーション も 聡明さ もそれを司っているのは やはり自分のマインドを構成している精霊だろう

また 自分の意志が 完全自動に明け渡しをしている瞬間に自分に働いている意志は

それは宇宙全ての断片的結果でしかない

 

ただただひたすら 自分の心根の最奥に正直に歩むしかないのだ