前回のつづき
ルカ16:10〜

 10,最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

 ここで言う、小さいこととは何か。それはこの世の富のことだ。「この世の富」はあなたのものではないから、小さい。他人のものだから。つまり神のもの。この世のものというものは、神のものなのだ。だからまずそれに忠実でないといけない。「大きなこと」とは何か。霊的財産のことだ。永遠の命というものは誰のものか?あなたのものです。相続財産とは誰のものですか?あなたのものです。だから、この世の富というものは神が与えているものだ。間借り品であり、間借り品に忠実じゃないとだめなのだ。そうでないと、永遠のものというものをきちんと管理できない。キリストの弟子というのは、この世のものは神様のものだ、と理解する。緻密に計算し、忠実に行動する。神の国の拡張のために用いていかなければならない。そうすると、永遠に価値あるものに対しても忠実だということと同じになる。だからこの世のものに対しては、神様ありがとうございます、あなたが与えてくださっているものです、と。緻密に計算し、あなたの御国の為に是非これを使っていくべきだと思います、と。このように用いていく人は、永遠に価値あるものにも忠実だったということになる。

11,ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、誰があなた方に、まことの富を任せるでしょうか。

不正の富とは、このようなものが神の物だと信じ、確実に計算してやっていかないのならば、誰があなた方に、まことの富を任せるでしょうか、ということ。

12,また、他人のものに忠実でなければ、誰があなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。

 「他人のもの」とは、神のもののこと。「あなたがた自身のもの」とは、永遠のもの、永遠の命のこと。つまり、ここではパリサイ人と弟子を比較している。パリサイ人はこの世の物にすごく忠実。緻密に計算し儲けることを考えている。しかし永遠のものに対しては?永遠のものは、自分のものだと思って大切にしていない。不忠実だということ。イエス様はそういう人に対して、永遠の命を与えないと言っている。弟子であり、目が開かれている人はそうではない。霊的に目が開かれている人は、この世のものは全部神様のものだと、それを与えられ任されているんだと、きちんと神様のために管理しこれらを用いていけるかということを考えている。そういう人たちは永遠の命を持っているのだ。弟子はそういう人たちだ。

13,どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」

 一方しか選べないのだ。つまり、両方は選べないのだ。主人として、二人は選べない。弟子というのは、神に仕えることを選ぶのだ。あなたは永遠に価値ある富を求めているのか、一時的な富を求めているのかによって、仕えるものが決まってくる。弟子は永遠の富を求め、神に仕えるために、この世の富を使って緻密に計算し、御国の拡張のためにそれを使うと、実は将来それが永遠に価値あるものになっているというのだ。ただ一時的な富に仕える生活は、永遠に価値あるものにはならない。

 パリサイ人たちというのは、「愛する者に富を与える」と教えていた。「貧しい」というのは、神に愛されていない証拠だと教えていた。私たちも実際そう思っているところがある。神に愛される人というのは、富を持ってると思っている。神様を信じたらこの世で良くなると思っている。つまり信仰があれば、富を持てる、健康になれる、幸せになれる、成功する、そう考えている。だから信仰者の話、イエス様を信じてこうなった!という話が多い。それは何の意味もない。イエス様が語っていたのは、変わること。
 この世の富というものは神のものであった。そこに気がついて自分は変わり、永遠の価値あるもののために今動き出した。そこを求めている。イエス様が気にしていることは、気がついてどう行動が変わったか。自分の所有物だと思っていたものは、神の物であり、御国の拡張の為にどのように使ったか。
 信仰を持つと幸せになれるのではない。信仰を持つと、訓練されて、敬虔に生きる(キリストによって正しく生きる)と迫害される。つまり、多く委ねられている人は責任があるということ。持っているものをどちらのために使うかで、分かれる。だからといって、富は悪いものではない。また、一時的なものがいいとか悪いとか言っているのではない。
 イエス様は、与えられているもの、ここではお金の事について話している。お金の事を教会で話すとどう思われるか。いやらしい話だと思う。しかし、お金を軽視してはいけない。お金をきちんと管理し、神が与えてくれさっているものを大切にして、神の御国のために緻密に計算して使っていかなければならない。お金をこの世のものだと思うと、いやらしいものだと思う。この世のもので、一時的な物は、全部神のもの。それを私たちはきちんと管理し、神の国の拡張のために投資をしていかなければならない。本当の金持ちはどういう人だったか。自分の将来のために投資をし、投資をするためにきちんとお金の管理者を立てている。そして緻密に計算し、そこから利益を得ている。そして人徳は得ようと思っている人たち。私たちはこの世のものではないから、神のために自分の持っているものを投資して、永遠の御国での利益というものを勝ち得る。そして神の徳を立てようとしている。それが霊的お金持ちだ。霊的セレブ。霊的セレブ達は、この世のものを熟知している。それは儲けるためじゃない。神の物だと。そして私たちが本当に儲かった、成功したというのは、天の御国に行った時にわかる。何人が貴方を迎えてくれるか。自分が直接伝道をして救われた人が何人か、を言っているのではない。だから本当のことを言うと、私たちは未信者以上にこの世のことに長けていなければならない。この世の人たちは霊的なことは知らないから。永遠の使い方を知らない。私達は永遠の使い方に関して責任を持っている。だから私たちも地上の富を軽視をしてはいけない。また地上の富を重視してもいけない。この世の富を重視すると、信仰があれば金持ちになれる、信仰があれば何でもできるという考え方になっていってしまう。しかしそういう人が惨めになると、信仰が弱いからなんだと考えてしまう。成功していることと信仰が強いことは誤解。
 私たちはこの世の富というものをイエス様のために使う。それは献金するんでも、自分の時間を誰かのために使っても様々。お金の話だけではなく、自分の持っているものを、自分の持っているものを何のために使うか緻密に計算し、実行していかなければならない。この世の富をどのように使うか、神様は賢くやりなさいと言っているのだ。それは永遠の結果として出るから。私たちの主人はイエスキリストだから、イエス様のためにこのような富を使っていかなければならない。それと私たちは永遠の結果が必ず出る。これは絶対。だから私たちはきちんとしていこう。私たちがこの世のものをきちんと計算し、やっていくことができるように祈っていこう。