前回のつづき

聖書の学び138《ルカ13:31〜》

31,ちょうどその時、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出て他の所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」

 今イエス様はエルサレムに向かいながら、ペレアの付近をうろうろしていた。ペレアの付近ではパリサイ的ユダヤ教の権威が及ばない。そうすると、イエス様のことを石打にすることができない。だからここにいられると不便。パリサイ人たちからすると、自分たちのテリトリーに入ってきてもらいたい。だからイエス様に仕掛けてきているのだ。今イエス様がいるところはヘロデ・アンティパスの管理下。だから、「ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」とびびらせ、エルサレム近郊の自分たちの勢力下に追い込みたかった。ヘロデ・アンティパスはバプテスマのヨハネを殺している。そしてイエス様が現れた時にも、ヨハネが復活したのではないかと恐れた。ヘロデにとってはイエス様が管理下をうろちょろされるのは邪魔者。だからこの情報は間違っているわけではない。でも伝えた人たちはパリサイ人だったので、イエス様を亡き者にしようとしていることは同じこと。彼らはすぐにでもイエス様をエルサレム近郊に戻し、自分たちの計画をすぐにでも行いたいのだ。それでイエス様は恐れたか?

32,イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。私は今日と明日とは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。
33,だが、私は、今日も明日も次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』

ビビっているとか、ビビっていないとかそんなことを言っているわけではない。イエス様は、パリサイ派とヘロデ派の関係を見抜いている。パリサイ派に向って、「行って、あの狐にこう言いなさい。」と言っているが、パリサイ派はヘロデの所へ行きたくなんかない。それなのにパリサイ派の人間がヘロデのことを伝えてくるなんておかしい。だから行きたくないなんて決まっているんだけれども、行けと言ったのだ。「」とは、ヘロデのことではない。」というと、聖書では女性のことを指す。だから、」はヘロデの奥さんを表す。原語では女狐になっているのだ。ヘロデを握ってるのはヘロデヤなのだ。なぜならヘロデはバプテスマのヨハネを殺すことを躊躇したが、サロメが仕掛けた。その裏ではヘロデヤが操っていることをイエス様は知っていたのだ。女狐と言っているのだけれども、ユダヤの文化ではこれはすごく悲しい悲惨なこと。それは狡猾さと、隙きを見て相手を殺すと動物への例えだからだ。

「『よく見なさい。私は今日と明日とは、」とあるが、ユダヤの文化では、「今しばらくは」という意味。危ないから今戦おうとか逃げようとかはできない。
悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。」今しばらくは悪霊などを追い出し、病人を癒すことができるが、「三日目に全うされます。」。これは何を意味してるかと言うと、やがて十字架にかかり三日目によみがえることによって、天の父の計画は実現するんだということ。つまりイエス様が言いたいことは、最後まで私はやり通す、ということ。
 今しばらくの間は、悪霊や病人を癒したりしているけれども、私は最後までやり通すよ、ということが言いたい。

33,だが、私は、今日も明日も次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』

イエス様はエルサレムに行かないと言ってるわけではない。神時に従って進んでいくよと言っているのだ。預言者はエルサレムで殺されるのだ。預言者が殺されるなら、あの悪名高いエルサレムしかないということ。
エルサレムいい街だと思われているが、多くの預言者が苦しみに遭い、殺された悪名高い街でもあるのだ。

34,ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、私は、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

 ルカはここで、イエス様は愛をもって奉仕をしたのに、彼らは拒否をしたと書いている。過去も今も何度もイスラエル人、イスラエル人と呼んだなのに、彼らは答えず、あろうことか、私のことを伝えていくものを殺してしまう。私もずっとやってきた。しかしあなた方はいつも拒否をする。

35,見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしは、あなたがたに言います。『祝福あれ。主のみ名によって来られる方に。』とあなたがたが言うが来るまでは、あなたがたは決して私を見ることができません。」

34節はイスラエル人がイエス様を拒否したこと。35節はイエス様がイスラエル人を拒否したこと。もちろんこれは再臨の要件になっているので、最終的には艱難時代の終わりに彼らが、祝福あれ。主のみ名によって来られる方に。』と叫ぶまではイエス様は帰ってこない。しかしこれは希望があるということでもある。後の者が先になり、先の者が後になる、という原則はあるが、最後まで希望は残されているのだ。イスラエル人は不誠実だったが、神様の方は不誠実ではない。今は異邦人にとっては恵みの時代だが、いつかは閉じられる時が必ず来る。それまでに私たちはやらなければいけないことをやっていかなければならない。自分が救われていることに確信を持って、進んでいくこと。選ばれている人達は必ず入ってくるから、私たちがやるべきことは福音を語り続けること。そのことに備えていかなければならない。