昭和62年「弥生賞」(GII、中山芝2000)衝撃の弥生賞。1勝馬で6番人気の低評価だったサクラスターオーが、昭和59年のシンボリルドルフに次ぐ史上2番目の好タイム(2分2秒1)で力を見せ付ける競馬をした。

 新馬戦を勝ったサクラスターオーには、ちょっとしたアクシデントが待っていた。骨膜炎によって4か月の休養を余儀なくされたのである。本来なら、賞金を積み重ね、きたるべきクラシックに向けて余裕あるローテーションを取りたいところであったのだが。

 このあたりで、スターオーが休んでいる間の牡馬戦線に目を向けてみよう。

 3歳(*現在の馬齢表記で2歳)の秋シーズン、クラシック候補の1番手と目されていたのは、芦毛のホクトヘリオスであった。ホクトヘリオスは不良馬場の函館3歳ステークス(現、函館2歳ステークス)で関西の評判馬マックスビューティを下して初重賞をモノにした後、京成杯3歳ステークス(現、京王杯2歳ステークス)でも小倉3歳ステークス(現、小倉2歳ステークス)の覇者ハセベルテックス以下を一蹴(いっしゅう)。しかも、常に鮮やかな追い込みを決めていただけに、その存在感は多くのファンの支持を得ていた。ところが、圧倒的本命に推された朝日杯3歳ステークス(現、朝日杯フューチュリティステークス)では、メリーナイスをとらえ切れずに2着。最優秀3歳牡馬(*現、最優秀2歳牡馬)の座はメリーナイスの手に落ちた。ただ、最大の大物と見られていたのは、メリーナイス、ホクトヘリオス、スーパーファントムといった朝日杯の上位組ではなく、別路線を歩んだ馬であった。新馬、400万下特別、府中3歳ステークス(現、東京スポーツ杯2歳ステークス)を3連勝した無敗馬サクラロータリーにほかならない。もっとも、サクラロータリーは故障のために檜舞台に立つことなく引退してしまったのだが。なお、関西ではゴールドシチーが阪神3歳ステークスを制して西の3歳チャンピオンの座についたが、当時の関西馬は関東馬に比べて小物という印象があり、それほど評価は高くなかったようである。事実、阪神3歳ステークスの内容も平凡なもので、東高西低の風評は崩れなかった。

 年明けた昭和62年、各々のステップレースが消化されたが、主役を張れる器と目される新星が登場してくることはなかった。京成杯のスーパーファントム、シンザン記念のヤマニンアーデン、きさらぎ賞のトチノルーラーと、比較的小粒な馬ばかりである。唯一“大物”と目されていたマイネルダビテも同様であった。本命視された共同通信杯4歳ステークス(現、共同通信杯)に勝つことは勝ったが、なんとなく底を見せた感じのレースだったのだ。

 そのように、なんとなく停滞加減の状況を呈していたころ、2月末の寒梅賞(400万下特別)で“これは”と思える馬が浮上する。マティリアルにほかならない。脚を余して敗れた府中3歳ステークス以来のひさびさであったが、スローペースをモノともせず、豪快な差し切り勝ちを収めたのである。マティリアルとは“好素材”という意味だが、名前どおりになかなかの素質と思わせるレースぶりであった。その後、マティリアルはスプリングステークスに参戦し、あの岡部幸雄をして「ミスターシービーしちゃった」といわしめた後方一気でバナレット、ウインストーン、モガミヤシマ、メリーナイスらを一蹴し、皐月賞の大本命に祭り上げられることになる。

 マティリアルの勝った寒梅賞には、新馬戦以来になるサクラスターオーも顔を見せていた。結果は5着であったが、後方からの伸び脚にはなかなかの見所があったといわねばならない。ファンやマスコミからすれば、勝ち馬の鮮やかさばかりに目を奪われ、その価値を見落としがちなレースであったといえるだろう。

 それだけに、サクラスターオーは次走の弥生賞でも6番人気の低評価であった。まあ、1勝馬の身であっただけに人気自体は妥当といわねばならない。本命に推されていたのは、朝日杯以来のホクトヘリオス、2番人気は共同通信杯4歳ステークスの覇者マイネルダビテであった。

 なおこのレースから、スターオーの鞍上は東信二に乗り替わっている(それまでは小島太)。サクラといえば、小島太というイメージがあるが、当時、小島には“モガミ”の馬に乗る機会が急激に増えていた。サクラの全演植オーナーにしてみれば、無名のころから乗せていたジョッキーが、ほかの馬主を優先させるようになったのは気分のいいことではない。「太にお灸を据えるために替えた」と全が話していたように、懲罰的な意味合いの乗り替わり劇であったようだ。その後、サクラスターオーの手綱はずっと東信二が取り続けることになる。

 東が初めてスターオーにまたがったのは、弥生賞の前日のことであった。そのとき東は、「反応が鋭いし、瞬発力もある。この馬には末脚を生かすレースがいいだろう」と感じたという。当時の東は“代打男”の異名を取るほどのテン乗り上手で、過去に制した17勝の重賞のうち6つ(そのなかにはアンバーシャダイによる有馬記念などがある)までもがテン乗りであった。初めての出会いでスターオーの特性を読み取るあたり、さすがは代打男というべきであろう。


昭和62年「弥生賞」(GII、中山芝2000)中団待機のサクラスターオーは、4コーナーで外目を回って一気に進出し、ゴール前では、先行するビューコウ、マイネルダビテを交わして先頭でゴールを駆け抜けた。


 レースのほうは、東が感じたとおり、サクラスターオーの末脚と根性がモノをいう結果となった。終始マイペースで逃げたビューコウをマイネルダビテ、キリノトウコウらが追う展開のなか、東・スターオーの新コンビはあせることなくじっと中団待機。勝負どころの3分3厘から徐々に仕掛け始め、4コーナーでは外目を回って一気に進出していった。そしてゴール前、先行するビューコウ、マイネルダビテをグイッと交わし、力強く先頭でゴールを駆け抜けたのである。

 この弥生賞は衝撃であった。昔からトライアルとしては格の高いレースであり、過去1勝馬が制したことなど皆無だったからである。スターオーの単勝がこれまで最高の1890円もつけたのは当然であろう。

 ただ、戦前の評価は別にして、内容的には決してフロックで片付けられるものではない。走破タイムの2分2秒1は昭和59年のシンボリルドルフに次ぐ史上2番目の好タイムであり、勝ち方自体も力なくしてはできない芸当だったのである。

 クラシック戦線に新星が登場した。

 サクラスターオーの快走は、そう印象づけるに十分な内容であった。