ティールのグリーンの罠と情動と認知の「二元論の罠」って、もしかして、一致?
可愛い子犬同士がじゃれあって遊ぶ時、牙をむいてかんだり、引っかいたりします。
でも、決してお互いを傷つけません。
闘争状態(交感神経)をオンにしながらも、他者を気遣っています。
目と目を見つめあったり、声を出し合ったりしながら、お互いを確認しあいながら遊びます。
社会神経系と交感神経をともに開いてバランスを取りながらじゃれあいます。
そして遊びながら、神経統御の訓練をします。社会に適応していきます。
この適応段階のとき、どのようにして、友達か敵を識別しているか?
脳には生理学的運動と意向を拾い上げる部位があります。
その部位は親しみのある人、親しみのある声、そして親しみのある動きを検出し、意向を拾い上げます。
親しみがあると判断すると、友達として識別します。
つまり、安全に見える手のジェスチャー、顔の表情、そして声の調子は、戦う、逃げる、そして凍りつく反応を含んでいる脳幹や大脳辺縁系の部位の働きを左右し、友達か敵かを識別しています。
安全か危険かを判断できるという事は、交感神経によるトップダウンの意識と副交感神経によるボトムアップの無意識な臓器をリンクするのは、恐怖と共感であり、社会システムを錯乱する反射的な防衛反応であるどころか、かえってそれ自体が向社会的システムを錬成する不可欠の成分である。社会的に適度にブレーキをかけることによって、逆説的な形で社会性の成立に積極的に寄与する。自他の融合を前提とする同質的な情動的共感は、排他的であり、自他の分離を前提とする排他的な認知的共感は、全体主義的であるが、社会が安定的に持続するためには、この二者関係が成立する「心理的安全性」が成立する状態の維持が必要であり、この時、自分という存在が、他人という存在と協力する位置づけとなるため、創発的に何かを想像する創発特性を有する生命体となりうる。
どうやら、これこそが、人間を含むほ乳類だけに発達した最新の神経のようだ。
社会的なつながりを促す働きで、主に横隔膜より上にあり、目、表情、声質、声帯、口、顎、頭、心臓、気管や肺などに関わって、人と交流する時の「社会友好モード」に使われる神経として使われている。
微笑んだり、話したり、声のボリュームを調整したりして、人との社会的なつながりを保つ。
すると、協力して仕事や作業を行うことができ、一人では成しえないことを成し遂げることが可能となる。
しかし危険な状態におちいると、交感神経系が活性化して優位になり、逃げるか、攻撃するという防衛反応がオンとなり、それもできないとなると、最後に背側迷走神経系が優位となって、身体は硬直し凍りつき、乖離状態になるというように働く。これは、本能として、生き残るための戦略として身体が自然に選択する防衛反応のようだ。この防衛本能が働く、恐怖や恐れがある状態では、協力して仕事や作業が成しえないというという事になる。
つまり、社交に関係するシステムは、神経システムがその環境が安全だと検出した時にだけ表現が可能のようだ。顔の表情で社会とユニークにかかわり、私達の相互作用の力強い構成要素として、創発的に何かを生み出すようです。
フラットなワークショップ
フラットなワークショップに参加。
まず、チェックインで、相手を肯定するところから始まるから、
マーケティング的に何かを生み出しているわけではないが、
ワークショップが終わると達成感をもって、次の日以降にのぞむことができる。
肯定と否定
人は、肯定されれば、どんどん、元気になる。
否定されれば、凹む。何もやりたくなくなる。
人に弱さを見せると、人は、弱さを見せようとしてくれるとは、限らず、
関係性が希薄な人に弱さを見せた場合、異質なもの、気持ち悪い、
ととらえられて、逆に関係性が悪化することがある。
なぜだと、思います?
ただ、気持ち悪いとか、異質なものとか、とらえる空気がない場所で、弱さを見せたら、人は、どうとらえるのだろうか。
気持ち悪いととらえるのだろうか?
例えば、突然、立小便をしだすとか、気持ち悪い行動をすれば、それは、当然、気持ち悪いと感じさせるだろう。
人が見せる弱さには、たいていの場合、理由がある。
人は、自分の好きなことを自分の好きなようにしていれば、弱くはならないのではないだろうか。
誰かに、否定されると、図星ではなくても、メンタルが凹む。どんどん弱くなる。
その弱さを肯定してくれれば、また、元気になることができるのに。。
例えば、会社というモンスターが、効率化、効率化、カット、カット、と人間を機械のように働かせると、
その人は、人間だから、心があり、取り組んでいることに体がついていけないから、心が悲鳴をあげだす。
「身体的に辛い。」「休憩取りたい。」「楽しくない。」「苛つく。」「雑談したい。」となるのではないだろうか。
これは、組織の中で自分がやりたい役割を果たすことが目的ではなく、
組織の中でやりたくない人間のできる機能を機械としてやらされていることが、原因のような気がする。
みんな、人間であれば、自分に対してフィードバックがあり、何かやれば、感想を持つ。
自分がやったことに対して、責任をもつという言葉をよく聞くが、
他人に対して、体裁を整えて、格好つけること「コンピテンシーモデルによる評価がそれに該当する。」
が責任をもっていると会社では評価されてしまうところに問題があるのだが、
なかなか、今の会社組織は、そこに気づく人が少ない。
自分がやったことに対して、責任をもつというのは、
「自分が自信をもって、達成感を味わうことができるかどうか」
だと私は思うのだが、なかなか、そういう議論にならない。
会社は、一年前に計画した変わり果てた目標に対して、見た目や数字が達成できているかどうか、
で、評価するから、自分が頑張ったことに対する自分に対する達成感は、ゼロの評価結果で、
心が凹むことになるのである。
なぜなら、会社の中では、組織員が、結果を出してくれれば、いいわけで、
組織員が、プラスの効果「楽しかった。」「ここにいると安心感がもらえた。」「ここにいると幸せ感が増した。」
とかそういうものは、会社から見ると、どうでもいい事柄としてとらえるのが普通と思い込んでいる、
思い込みがあることがそもそもの間違いだからである。
会社を例にとると、
会社に対して、弱さを見せると、
会社は、コンピテンシーモデルから外れているから、こいつは、異端児だから、
評価結果は、10段階のランク最低の1をつけてしまうから、
頑張った当の本人からすると、会社との関係性は、悪化するという事が起こっている。
そう考えると、
人に弱さを見せると、人は、弱さを見せようとしてくれるとは、限らず、
関係性が希薄な人に弱さを見せた場合、異質なもの、気持ち悪い、
ととらえられて、逆に関係性が悪化するのも、納得がいく。。( ノД`)シクシク…
マインドマップカフェに参加してきました。
マインドマップがいいのはわかる。でもどうやればいいのかわからない。書いてみても、ネタが決まっていると、そのネタに囚われて、ペンが途中で止まる。そして、思考も止まる。慣れていないからなのかなと考えておりました。
自分だけで考えても仕方がない。。
そう考えて、昨年末に、インストラクターの康 宝心さんのお話を聞きに伺い、自分なりに自己紹介でマインドマップを書いてみました。
やはり、貧相だ。。
と思ってみてもらうと、加筆してくれ、セントラルイメージを始めに書く必要がないという発想やばらばらになってしまったブランチを矢印でつなげてくれました。
う~ん。なるほど。なるほど。
何年も前からマインドマップ関連の書籍を買い、読んでいましたが、日本の学校での詰め込み教育にすっかりとなれてしまったため、創造性を自分で封じ込める癖がついていたようです。
ただ、坂本竜馬を敬愛しているせいか、人の話はすんなりと受け入れ、考え方も柔軟に変える性格なので、人と会うと結構、簡単に自分が変わります。
今日は、五十嵐順子さんのお話を聞いてきました。
司会進行がとてもうまかったので、そちらのスキルを感心し、吸収しようと努めたりしつつ、マインドマップに関して、色々と学ばせていただきました。
同席し、お話をさせて頂いた方々は、講師の方々とは異なった部分で優れたスキルをもっている人が多数いました。本当にすごいなぁと思うスキルをもっている人達でした。
五十嵐さんが、出会いに意味があるという事を照れながら話されていましたが、今日に関して言えば、驚くほどに自分にとって意味がある有意義な時間となりました。
座った席が良かったらしい。。
