
先日父親と揉めた。
今考えても、本当に些細でつまらないことがきっかけであったと思う。
私がリビングでテレビを見ようとしたことに対し、何の理由を挙げるわけでもなくただ他のところで見てくれ、そう言ったのだ。私自身滅多にテレビを見るわけでもなく、たかがほんの少し見ただけで何故そんなことを言われなければならないのか、そう思った私はそれを拒否。それに対し、滅多に感情的にならない父親が怒った。ここは俺の家だ、主導権は俺にある、なぜ言うことを聞かない、等といった類いのことを言い連ねる。はっきり言って正論である。正論ではあるが、自分の中では納得がいかなかった。
滅多に、と言うよりほぼ全くと言ってよいほど怒らない父親が、なぜそんなテレビごときでそこまで感情的になるのかは分からなかった。が、しかしそこまで言われるとさすがに居心地も悪いので、しぶしぶ別の部屋でテレビを見ることに。結局30分程見た後、すぐに飽きて自室に戻ることに。ここに来て少し考え直す。以前、私に理不尽なことが起きた時、父親に愚痴を零したことがあった。その時、父親は私にこのように教えてくれた。「理不尽なことが起こると、人は怒りに満ちてくる。感情はいい加減なもので、そこで口に出した言葉に屈服してしまう。ではどうすればいいか。その理不尽なことに対し感謝すればいい」と。それはまさにその時私が求めていたようなアドバイスだった。
だが、今回の件にこれを当てはめてみると、父親にとっての理不尽なことというのはテレビを見ている私になる。それに対し、父親は私に対して言い放った言葉と共に感情的になる。まさに教えの通りだった。父親はそこまでは頭で理解しつつも、いざ理不尽が現れたその時、自身本来の考え(理不尽に対し感謝するということ)を行動に移すことができなかったのだ。そして私も然り、父親の要求に対しつまらない反論をした結果、揉めてしまった。これでは全く以て意味がない。ただこれのおかげで、心に留めている(留めたつもりでいる)ことに基づいて、日々起こることに対して臨むのは非常に難しいという良い教訓になった。恐らく頭では理解したつもりでいても、実際ことに直面すると中々そう上手くもいかないのだろう。ただこのように上手くいかない経験があってこそ、その考えがより一層固まるのではないかと思う。
父親は前述した通り、普段本当に怒らない。私が22年間生きてきた中で、父親が怒っているのを見たのはなんとこれで二度目だ。と言っても一度目は、幼い頃寝ている父親におもちゃのボールをぶつけたか何かした時だったのだが、これも少し苛立ちを見せた程度。理不尽、ストレスが蔓延するこの世の中で、これだけ怒らずにいられる父親は本当にすごいと思うし尊敬できる。また彼の世の中に対する姿勢というのも非常に立派だと思っている。特に自分が今までやってきたことに対しても、客観的に見ることができ、間違っていると思ったらすぐにやめられるその姿勢は本当に素晴らしい。そんな父親が珍しく怒ったかと思えば、こんな些細なことが原因とは本当におかしな話だ。しかしそのおかげで、このように長々と考える良い機会となった。
冷静に状況を客観視することが出来る今だからこそ言える。「些細なことで怒ってくれてありがとう」と。次はもっと早く感謝まで辿り着かなければ。きっと父親も同じようなことを考えているのではないだろうか。

