神戸の震災で倒壊した私の実家で
崩れた家から何が何でもと思って
取り出したのが、何故か
卒業アルバム。


自分の生涯で忘れられないのは
私が神戸市長田区生まれ育ちであること。


詳しくは、新長田。若松町。


昭和30年代の神戸で
カトリック系の幼稚園は
私が通っていた鷹取幼稚園と山手幼稚園だけだったそうです。


今考えると、何とも不思議な幼少を送っていたものです。
あの・・・


幼稚園の砂場で蟻んこを捕まえて遊んでいて
金髪の園長先生に叱られたことがあるんです。


まだ5歳なのに。
園長先生は確かドイツ人だったと
母親から聞いています。


全くわからない言葉なのに
「生き物を危めてはいけない。」という意味が
言葉(言語)を超えて伝わった経験があります。






只今61歳の、神戸市長田区生まれのこの私は
いったい何を書こうとしているのでしょうか?


実は、今でも思うのですが
日本って本当にグローバルになろうとしていますか?


私は、そのように思いません。


何故か。


当時幼稚園から家に帰るには
カトリックのシスターが手を引いて
家まで送ってくれていました。


あの、私は外国人ではないのに
見知らぬおっさんに
「こら!外人」って怒鳴られたことが
今でも、記憶に残っています。


まぁ、当時の新長田は
今からは想像もできない
雑多な下町でした。


当時、鷹取幼稚園は、
外国から来られた一家の子女の方や
ハーフの子供達も鷹取幼稚園に通っていました。


今でも、年老いた母は
新長田で暮らしていた頃のことを
楽しそうに話します。


当時暮らしていたのは
貧乏長屋。


お好み焼きのお店が所々にあって
工場に勤めているおじさん達が
お昼休みには、
お好み焼き屋さんに入って
何故か、そのおじさん達は
自分の弁当を出して
お店の人(当時私が住んでいた長屋の隣のおばちゃんのお店)に
「これと一緒にそばを焼いて。」
そう、そばめしだったんです。


朝鮮系の方や、沖縄・奄美から引っ越してこられた方や
みんなチャンプルーになって暮らしていた
新長田。
今考えると、暖かい人情の町だったな。


そんな雑多な下町で、他人から嫌な思いを
させられた事なんて、一度もありません。


私を嫌な気分にさせてくれたのは
いつも凝り固まった
日本人、です。


こだわりと偏見が根強かったのですね。
当時の終戦後の国民感情だったと思います。
しょうもない、根性主義とか。


狭い考え、狭い了見。狭い常識。


これは後世に語り伝えたい。
日本の昭和の原動力は
欧米に追いつけ、追い越せ
だったのです。


これは、根性主義ではない。
洋書を自分で訳しながらも
欧米の技術を取り入れようとした
技術者の歴史であります。


私の父は、いつも英語原文の
鉄を加工する技術書(洋書)を読んで
鉄工技術を学んでいた
幼なかった私には、そのような記憶があります。


今の若い世代の方々。
本当にご自分のことを
グローバルとお考えでしょうか?


インターネットを何に使っていますか?
今現在、海外で何が起こっているか
英語の原文で読んでいますか?
それに対して、ご自分の意見は持っていますか?


いつも、言いたい事を
言いたい放題の OpenSourceおじさんでした。


今日から、プロフィールの写真を
5歳だった頃の私の写真に変更しました。