はじめまして
心のサプリメントをこれからお届けしていこうかなと思います。
よろしくお願い致します。
こんにちは!今日もいい一日です
今日のことば
子供の態度は家庭そのもの。
ジョセフ・マーフィー
「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」
山川宏治(やまかわ・こうじ=東京都多摩動物公園主任飼育員))
■「殺人ゾウ」の汚名
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武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた
東京・井の頭自然文化園に、
今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。
彼女の名前は「はな子」。
私が生まれる以前の昭和24年に、
戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。
当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない
小さくかわいい彼女は、
子どもたちの大歓声で迎えられました。
遠い南の国、タイからやって来たはな子は
たちまち上野動物園のアイドルとなりました。
ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、
はな子は思いがけない事故を起こします。
深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、
その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。
「殺人ゾウ」――。
皆からそう呼ばれるようになったはな子は、
暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、
身動きひとつ取れなくなりました。
餌をほとんど口にしなくなり、
背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、
かわいく優しかった目は人間不信で
ギラギラしたものに変わってしまいました。
飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を
希望する者は誰もいなくなりました。
空席になっていたはな子の飼育係に、
当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた
私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。
それからはな子と父の30年間が始まりました。
「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」
と睨みつけてくるはな子に怯むことなく、
父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、
着任して4日後には1か月以上
繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。
そこには
「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、
「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」
という気持ちがあったのでしょう。
父はいつもはな子のそばにいました。
出勤してまずゾウ舎に向かう。
朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、
外へ出るおめかしをしてあげる。
それから兼任している他の動物たちの世話をし、
休憩もとらずに、暇を見つけては
バナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。
話し掛け、触れる……。
「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、
その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、
はな子の楯になりました。
そんな父の思いが通じたのか、
徐々に父の手を舐めるほど心を開き、
元の体重に戻りつつありました。
ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、
はな子は餌を食べることができなくなりました。
自然界では歯がなくなることは死を意味します。
なんとか食べさせなければという、
父の試行錯誤の毎日が始まりました。
どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。
考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど
100キロ近くの餌を細かく刻み、丸めたものをはな子に差し出しました。
それまで何も食べようとしなかったはな子は、
喜んで口にしました。
食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。
それを苦と思わず、いつでも必要とする時に
そばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。
定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れず
はな子に寄り添ってきました。
自分の身体ががんという病に
蝕まれていることにも気づかずに……。
はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。
後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。
動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に
一度も会いに行きませんでした。
~ボルトよりメッセージ~
人も動物も一緒。
はな子は人殺しではなく、動物の習性を理解せず近づいた人間が責められる
べきでしょう。ましてや、自然という環境ではなく、動物園という特殊な環
境に人間のエゴで囲いこまれた動物にはなんの責任もない。
むつごろうさんがドキュメンタリー番組の中でライオンから指を食いちぎら
れたのをご存じでしょうか?ライオンはちょっとジャレついたつもりだった
んですね。ムツゴロウさんはライオンを非難することはありませんでした。
動物と触れ合うことにちゃんと責任をもってらっしゃる。
またそのライオンも悪いことをしたと自覚があって、その後、一切ムツゴロ
ウさんに近づくことはありませんでした。
自立したものどうしの対話をみたような気がします。