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               「手塚先生、締め切り過ぎてます!」福元一義(集英社)

 手塚ファンクラブの会誌で。福元一義さんの訃報を知りました。。。

福元さんは長い間、チーフアシスタントとして手塚先生を支えられました。
福元さんは、昭和20年代の手塚番編集者の時代から手塚先生が亡くなられるまで、何らかの立場で手塚先生の近くにいらしたわけですから、まさに、貴重な手塚治虫ウォッチャーでした。

たぶん、1974年の夏だと思いますが、私は富士見台の手塚プロに押しかけたことがありました。
大学受験のため夏期講習で上京し、宿泊したアパートが富士見台の近くだったので、倒産した虫プロの様子を見に行ったのですが、閉ざされた虫プロの門に手塚プロの転居先を伝えるための張り紙があり、その場所まで行ってしまったのです。駅前の小さなビルでした。

今思うと、まったくの衝動で、何しに行ったか意味不明でしたが、いきなり、手塚プロの入り口で呼び鈴を押してしまったのです。すると、若いお兄さんが出てきたので、「手塚先生のファンです。」と言ったら、奥へ行き眼鏡をかけたおじさんを連れてきました。この人が福元さんだったのです。福元さんは、しばらくじっと私の顔を見ていましたが、「手塚先生に話しかけなければ、中に入っていいよ。」と言ってくれたのです。そのとき、私はきっと思いつめたような顔をしていたんだろうな。よく入れてくれたものですね。

中に入ると、手塚先生とアシスタントが同じ部屋で仕事をされていた頃でしたので、もちろん手塚先生が仕事をされていました。手塚先生はベレーを被っていなかったな。原稿をドライヤーで乾かしながら、「XX君はどこに行ったの?パチンコ? 」なんて話されていました。

私は、ぼーっと手塚先生の姿を眺めていましたが、約束を破り手塚先生のそばまで行って話かけてしまいました。すると、福元さんが、それをさえぎるように、「君はどこの出身だ?」と私に声をかけられました。「仙台。」と答えると、「奥州仙台かね?」と尋ねられました。後で知ったのですが、福元さんは鹿児島のご出身で、鹿児島の川内を思い出されていたのかもしれません。すぐ、手塚プロをお暇したので、私の福元さんとの接点はこれだけです。あの恩人のおじさんが、福元一義さんであったということも、だいぶ後に知りました。

短い時間ではありましたが、手塚先生と同じ部屋に存在したという体験は、私にとって未だに手塚体験では一番の思い出です。福元さんには、とても感謝しています。ありがとうございました。。