先週の土曜日(7/30)川崎市民ミュージアムで開催されている 「『描く!』マンガ展」(開催期間:7/23~9/25)関連イベント「対談水野英子×丸山昭「トキワ荘の思い出…U・マイアのこと」」に行ってきました。

水野英子先生、石森章太郎先生、赤塚不二夫先生がペンネームU・マイアで共作された時の企画を立案し、また、トキワ荘にマンガ家が集まるきっかけを作られた丸山昭さんと水野先生がその時のエピソードや、トキワ荘の事などを話されるということで楽しみにしていたイベントです。

当日会場に行ってみると、丸山さんの体調がすぐれないため対談がキャンセルとなり、マンガ研究者のヤマダトモコさんが水野先生からお話を伺うという形式に変更されていたのは残念でした。「丸さん」の愛称で、手塚先生はじめ多くのマンガ家のエピソードに登場する丸山さんの尊顔を一目でも拝したかったのですが、体調不良ではしかたがないですね。まずは、ゆっくりと休まれて、体調を回復していただきたいと思います。

さて、ヤマダさんの水野先生へのインタビューですが、とても興味深く、面白かったです。「『描く!』マンガ展」に合わせられたのだと思いますが、U・マイアの原稿をプロジェクターでスクリーンに映して、それぞれの先生が分担された部分について丁寧に説明していただきました。背景や仕上げなどは赤塚先生がすべてやられたようですが、たいへん繊細なタッチで驚きました。後年のギャグマンガには感じられない雰囲気です。赤塚先生は、ギャグマンガに進まれた後、画風を変えられたのだと思いますが、テクニックに裏付けられた変身だったのですね。ピカソがリアルな画風からキュービスムに変貌したように。

はじめて知ったのですが、水野先生は、いったんトキワ荘を出られて実家に戻られ翌年再び上京されたのですが、その後もトキワ荘に足しげく通われていたとのこと。つのだじろう先生のように通いトキワ荘組だったのですね。トキワ荘という場は、地方から来た若者たちが安心していられるユートピアだったのですね。

インタビューの最後に水野先生が話されていたのですが、月刊誌しかなかった昭和30年代の初め頃は、多くの新進気鋭のマンガ家は、みな少女マンガを描いていて、少女マンガは、繊細な感情表現、かわいらしい画風を探求する場だったのでした。少年誌は、まだ、絵物語にスペースを割き、マンガは滑稽話が多かったようです。この時に生み出された表現手法の種は、その後週刊誌時代となり、マンガに多くのスペースが割かれるようになってから、多様な作品群となって花ひらくことになります。なるほど、そうだったんですね。
この少女マンガの進化の流れと、対極的な存在である劇画が交差して、現在のマンガ表現に繋がる基盤を形成したということかな?現在の、かわいい文化にも通ずるものがありそうです。