実家の仙台で震災の後片付けをしています。
今日は震災で発生したごみを近くのグラウンドに捨てに行きました。壊れたステレオ、額縁、バラバラになった古いハードカバーの本などを捨てに行きました。
そのグラウンドには、さまざまなモノが捨てられていました。中にはブロンズの立派な彫刻みたいなものもありました。
 
ここ数日、亡き父が残した膨大な本を片づけました。地震により書斎の本棚に入れられていた本はほとんど棚から飛び出て床に山積みで散乱していました。父が亡くなってから5年ほど経ちましたが、これらの本はあまりにもたくさんあるので、家族の中で整理しようという勇気がある者がなく、書斎にひっそりと置かれていました。今回、すべて本棚から飛び出たので否応なく父の本達を見ることになりました。今の家に引っ越した時以来、数十年ぶりの棚卸です。
 
私の父は、大正生まれで昭和、平成を通して、昭和金融恐慌、太平洋戦争、戦後の混乱、高度経済成長、バブル経済とその崩壊など激動の時代を生き抜きました。その間一貫して本を読み続けて、家に本の山を築きました。父は本のコレクターというわけではなく、その時々で興味を持ったり好きな事について書いてある本をただ読み続けただけでした。それだけに、この本達は父の人格を反映した、父の写像の一種と考えることもできます。
 
私達子供の記憶では、父の晩年の衰えた姿が印象強く残っているため父全体のイメージがそれに引きずられてしまうのですが、父の青春時代である戦前に父が読んでいた本達からは、若い、元気はつらつとした父の精神が湧き出てくるように感じられます。
 
父は詩歌が好きだったらしくたくさんの詩集、句集などが残されていました。今回はじめて知ったのですが、父は、その頃読んだ本のいくつかに簡単なコメントを裏表紙や巻末に残していました。達筆すぎてなんて書いてあるかわからないものも多いのですが、たぶん旧制高校時代のものでしょう、父の若い気魄に触れ感動してしまいました。晩年からは想像できない若々しい父の精神がそこにありました。
 
その後、戦争の影がちらつきはじめ伏字が入った本などもありました。終戦直後の本は、厚さが薄く、紙質が悪い本がたくさんありました。でも、たぶん父は一生懸命それらの本を読んだのでしょう。大切に保管されていました。日本が復興されるにつれて父はあらゆる分野の本を読み漁ったようで、その時代の本が一番多く残されています。
 
世の中が落ち着き、父の世代がしだいに晩年に達し始めると、文化、思想、歴史などに関する昔の回顧本を読み始めています。やはり、戦争中の事は忘れられないようで戦記本も多くあります。父の世代は多くの人が戦争により若くして亡くなられました。そういえば、テレビで戦争中の画像が流れると父は泣いていることもありました。亡くなった友達や同世代の人達に想いがいってしまうようでした。
 
父の最晩年は体力がなくなって、なかなか本を読むことができなくなったようですが、読みたい本を枕元などに置いていました。何故かハイデッガーの「存在と時間」もあります。
そして、
父の死とともに父の本の収集も終わりました。
 
これらの本達を通してある時代のひとりの人物の一生を俯瞰することができたように思います。いつかこれらの本のリストを製作してみたいと思っています。