このあいだ、水木先生と手塚先生との外遊の事を書きましたが、その後いろいろ調べてもそのような事実を書いている資料が見つかりません。私がその会合に参加したのは昭和58年です。手塚先生は、ひだまりの樹を描かれていた頃です。。少し自信がなくなってきました。確かそんな事言ってたんだけど、ツアーはなかったのかもしれません。すいません。もう少し調べてみます。
 
そういえば、その時水木先生は、旅行(確かインドだったと思います。)に行かれたという話をされていました。先生は、南方がお好きなようでしたが、南太平洋の島の方がお好きそうな感じでしたが。
 
一方、水木先生が手塚先生をライバルだと思っていられたのは確かだと思います。手持ちの資料を探したら、「水木サンの幸福論」(日本経済新聞社)という本に、わざわざ「手塚治虫氏のこと」という章を設けられていて、手塚先生への想いをつづられています。ちょうど、水木先生が、平成15年に第7回手塚治虫文化賞特別賞を受賞された頃でしたのであえて話題にされたのかもしれません。
 
その本で、水木先生は、昭和20年代に紙芝居を描いていた頃から手塚先生を意識されていたと書かれています。 今では、水木先生は、ひょうひょうとした枯淡の域に達されているように見えますが、お若い頃は、業界の他の作家たちに対してライバル意識を持たれていたようです。たとえば、ビッグコミック創刊物語(プレジデント社)には、水木先生が創刊号の表紙に印刷された作家達の名前の並び順を気にされていたとのエピソードが紹介されています。良く考えてみると、競争が激しい漫画界でがんばるのは、相当な覚悟と闘争心がなくては生き抜けないわけで、水木先生も当然がんばられたわけですね。
 
あのように厳しい状況で戦地から生還することができたのは、水木先生が生来お持ちだった「力」が並はずれていらっしゃったからではないでしょうか? 戦後ご苦労されながら今も漫画界で活躍されているのは、先生のこのような「力」によるものかもしれません。
 
そういえば、今日の朝ドラではいよいよ悪魔くんが出てきましたね。早速読み直してみたいです。(続く)