戦前の旧制高校は正にエリートの集団だった。小学校が最終学歴の人が多かった当時としてはドイツ語を知ってると聞いただけですごそうだったに違いない。確かに勉強もできる連中で、めったに出ない高校進学者を村長さんはじめ村中の人達に送られて出てきたり、実家は貧しいが神童のうわさが有力者に届き学費を支援されて進学したというような人たちも結構多かった。そんな連中が全寮制の男子だけの寮に入りこわい先輩たちの薫陶を受けて野蛮人になっていくというパターンがバンカラの気風を生んだのだろう。無論、当時はそのような振舞いを好しとする社会の雰囲気、学生を大切にする風土が確かにあったようだ。そして、卒業生は文字通りの“大"学という最高学府に進み学士様となって、今度は背広を着て社会を支える人材となっていったのだ。

戦後旧制の教育体系が見直され旧制高校は廃止される。戦前の中学校が新制高校となるが、もはや戦前のエリート養成システムではなく、新制大学進学のための予備校のようになってしまった。バンカラも絶滅したが、戦前からある中学の伝統校を前身とする新制高校の一部にかろうじてその気風が引き継がれた。私が進学した高校もそのような学校の一つだったのである。校風などというものは、簡単にできるものではないし、あえて作り上げようとしてもできるものではない。私の学校は、戦前から多くの卒業生を旧制高校に輩出しており、バンカラを愛する校風はたぶんそれらの先輩に影響されたものだろう。先輩にあこがれマネしたんだろうね。

当時、私の学校では男子校ゆえの習慣というか恒例のイベントがあり、中にはよくわからないものもあった。

まず、入学するとはじめの試練が歓迎会というもので、暗い体育館に一人ずつ入れられ、先輩たちに“歓迎”されるという行事があった。歓迎といっても、通路の両側を先輩たちが人垣を作りそこを歩く進入生の胸ぐらを掴んで「きさまの自己紹介をしろ!」とか果ては「何か唄え!」などと叫ばれて、言われたとおりの事をして進んで行くのだ。学生服のボタンを毟られてしまうのはごくあたりまえの歓迎で、体操部などはトランポリンに投げつけたりして歓迎した。ひどいやつになると、玉ねぎの汁で顔を洗ったりする輩もいた。進入生はこのような歓迎を受けながらゆっくりと人垣の間を進み、やっと出口から出た時は、泣きながらボロボロになってたものだ。この学校では、とにかくこの歓迎会を経験し一人前になるのだ。そして、その時怒ったり、泣いたり、抗議してた連中が次の年になると大喜びで新しい新入生を歓迎するものだった。もちろんこのようなものについていけない生徒もいたが多くの生徒はこのような蛮行に対しあえて否定せず「大事な事」だと思っていたふしがある。

今は私の出た高校でもこのような風習はなくなったという。(続く)