恥ずかしながら、こどもの頃、マンガ家志望だったんです。墨汁でケント紙なんかにカリカリマンガ描いたりしてました。

小学生の頃、石森章太郎先生の「マンガ家入門」を読んで、マンガ研究会なる活動にあこがれ、まねして肉筆同人誌を作りました。当時は実際に墨汁でマンガを書いている子供は少なく、たまたま近くのマンガ好きの同級生など、何人か仲間を集めてなんとか本にしました。そういえば、苗字が「石森」という子がいて「君の名前はマンガを描くのに向いてる。」なんて言って無理やりまんが描かせたりしました。ひどいね。

原稿を集めて、順番を決め、頁数を書きこみ、目次、表、裏の表紙をつけると内容はともかくとして、なんとなく達成感がありうれしかったものです。(この本、実は、まだ残っていますが、怖くて見れません。)その快感がたまらなくなり、自分で編集してまとめるという作業にはまって、その後、中学、高校、大学、そしてなんと社会人になってからも同人誌を作ってしまいましたが。。。

私が最初に手塚先生の仕事場を訪問したのは、中学1年の頃でした。その時は、手塚先生が缶詰(〆切が厳しくて。仕事に専念してもらうため、旅館、出版社などに監禁状態(!?)となること。)になっていて、結局お会い出来ませんでしたが、手塚先生のお母様がお世話してくださり、とても丁寧に対応していただけました。手塚プロと虫プロを見学することができましたが、特に手塚プロでは、たまたま部屋にいたアシスタントの方とたくさんお話することができました。

そのアシスタントの方は、まだ幼い私を見ながら、「そういえば、ちばてつや先生は中学生でデビューしたみたいだよ。きみもがんばってね。」とか「手塚先生はシェークスピアなんか読んで、今でも色々勉強してるんだ。きみも、まんがばかり描いてたらだめだよ。」なんていうことを話されていました。その内、部屋にたくさんアシスタントが集まってきて、めずらしく、ひまだったのか、私達を囲んで、わいわいと、話しの輪ができはじめました。たぶん今では有名な方もいらっしゃったのでしょうね。

みなさん、とてもいい方ばかりで子供の私とも隔たりなくお話してくれましたが、その内、「そうだ、きみの作品を手塚先生に見せたらいいよ。」「そうだそうだ、せっかくここまで来たんだから、手塚先生にご指導いただくといいよ。置いてけよ。」などという論調で場が盛り上がってしまったのです。私としては、恥ずかしいやら。恐れおおいやらで、冷や汗がたらたら。「今、原稿持ってきてないんです。」、「じゃあ、送ってきたらいいよ。」、「はい。」という事で、お開きになりましたが、実はその時、私のかばんの中には、私が作った、肉筆の同人誌が入っていたんです。。。

手塚プロを出て、富士見台の駅から帰る電車の中で、その同人誌を眺めほっと一息ついたのを、今でも良く覚えています。あの時の事は私の中ではちょっとしたトラウマになっているようで、その後もたびたび夢を見て冷や汗をかくことになりました。

今思うと、手塚プロの方々は、お世辞で私に原稿を置いてけといわれていたような気もしますが、そんな事をしなくて良かったかなと思います。あの段階では、マンガ家になりたいごっこをしていただけですからね。

(2005.12.3)