津田恒美さん 18回忌
今日7月20日は津田さんの命日ですね
背番号14 津田恒美
俺は1986年 小学校5年生 でした。
俺が津田さんを好きになったきっかけの年 1986年の思い出を少し。
1986年に津田さんは先発からストッパーに転身した。
外野フライすらするされない場面の中 阿南監督は津田さんにストッパーを命じたのだ。
その影には手術により変化球の投げれなくなった津田への配慮からもある。
持ち球が直球だけ。 1回や2回だけならいける そう判断したのだ。
阿南「津田がいるから大丈夫だ」とよく監督ヒーローインタビューで語っている
テレビ放映は巨人戦のみなんで 巨人vs広島でしかも勝っててないと見れない津田恒美
当時のカープは3強といわれた時代で 巨人中日広島 この3チームが常にAクラスに居た
なので広島が巨人に勝つケースもまぁまぁあった。
阿南監督が出てきて
アナウンスが流れる
ピッチャー川口に変わりまして ピッチャー津田 背番号14
テレビで津田さんが出てくるとガッツポーズ をしてたなぁ
津田さんの剛速球が観れるだけでなんかうれしかったし 震えた。
男として 津田さんは憧れだった。
1986年は津田さんは最愛のお母さんを亡くしている。
野球の神様は時にいろんな場面を与えてくれる。
津田さんが巨人の原の手首をへし折ったのはあまりにも有名な話だが
その日 最愛のお母さんが病気と闘い ラジオで聴いていたのだ。
津田vs原
幾多の熱戦を繰り広げてきた 津田vs原
津田さんは入団会見で一番対戦したいバッターは「巨人の原さんと答えている」
病室で津田さんのピッチングを聞いてるお母さん
津田さんの球に魂が乗り移らないわけがない。
150kmの剛速球を憧れの原に投げ込む
津田さん「観ててくれ お母さん」といわんばかりの剛速球
手首をかばって4度もファールで粘った原だったが 津田さんの気迫のピッチングに
こう言っている
原「彼は僕の気持ちを察してくれたんでしょうね」
原「彼との勝負はボックスとマウンドで1対1でしたね 今 プロ野球界でもあれだけきっぷのいい投球をする人はいませんよ ほんとに正々堂々と真っ向からきました。 打ち取られたときには「参った!」打ったときは「どうだ!」というくらいの気持ちのよさがありましたね。 だからあの試合は今でも後悔していません」
だからこそ原はフルスイングで津田さんに答えたのだ。
この1球はのちに津田さん自身も自身最高のストレートだったと語っている。
当時の新聞記事
広島4-1巨人】絶対に負けられない天王山で、背番号8の左手はフルスイングでファウルを打った瞬間、悲鳴を上げた。
後楽園球場での巨人-広島25回戦。9回裏、1-4と3点ビハインドの巨人は二死一塁で、打者は原辰徳三塁手。打撃不振で84年9月22日以来、約2年ぶりに6番に降格したジャイアンツの第48代4番打者は5回、意地の36号ソロ本塁打を左腕大野豊投手から放っていた。
カウント2-1。広島の抑え津田恒美投手は直球で三振を取りにいった。強振した原。バックネットへファウルとなった直後、原は左手首を押さえてうずくまった。激痛で表情がゆがみ、脂汗が流れる。バットを握ろうにも握れない。王貞治監督の眉間にしわが寄った。厳しい表情の指揮官は、岡田和也球審にも代打を起用するしかなかった。
代打は山崎章弘捕手。勝負はあっけなく1球で見送りの三振に終わった。巨人首位陥落。同時に原の戦線離脱という最悪の状況に陥った。
当初、古傷の左手首のじん帯を痛めたとされたが、2日後に慈恵医大で精密検査を受けた結果、左手小指の外側付近の骨折で全治2カ月と診断された。
主砲1門を欠いた巨人は、ウォーレン・クロマティー中堅手が4番に座り、以後8連勝。残り10試合9勝1敗の成績を残したが、広島も負けなかった。残り15試合を11勝4敗。ゲーム差なし、わずか3厘差で王巨人は3年連続して優勝を逸した。
骨折の影響は少なくなかった。翌87年、原は現役生活15年の中で最高の打率3割7厘を残したが、本塁打数は年々下降の一途をたどった。「骨折以降、自分の思うようなバッティングはできなくなった」と原は後に振り返っている。
1000試合以上巨人の4番打者として出場したのは川上哲治一塁手(1658試合、3割1分7厘)、長嶋茂雄三塁手(1460試合、3割1分4厘)、王(1231試合、3割1分5厘)、そして原(1066試合、2割7分9厘)の4人のみ。チャンスに強かったかどうかは、議論の余地があるところだが、勝利打点通算91はプロ野球歴代1位の記録として残っている。
打者の指が骨折するほどの直球を投げた津田は「あれは自分でもスピードが乗っていたと思う」と最高のボールだったと後々まで自負していたという。その津田に翌朝悲報がもたらされた。
津田が19個目のセーブを挙げてから約2時間後、闘病中の母が肝不全のため、54歳で他界した。一晩明けてから知らされた津田だが、25日の巨人との最終戦にはベンチ入り。「最後に会ったのは10日前。私の病気は気にせずにチームのために頑張れと言われました」。
こうした名場面を見せてくれた津田さん
突如1991年 から表舞台からいなくなり まだ子供だった俺は 故障かなぁ? 程度に思ってた
同年11月6日 津田さん広島東洋カープ退団
そのとき なんで?なんでよ?って野球熱も冷める出来事で 子供だったこともあり 苛立ちだけが残ってた
1993年7月20日 津田さんの訃報
オールスターの試合中だったね
野球の神様って奴は…
広島のアナウンサーが泣きながら訃報をアナウンスしたことを思い出すとなけてきます。
大野豊さんが選ばれた1993年のオールスター
あのオールスターから18年…
今年もオールスターが開催される 来年には1993年津田さんがお亡くなりになった年に生まれたプロ野球選手が選ばれるかもしれない
津田イズムは永遠だ。
俺は今年 津田さんより3才年上になった。
パンクよりパンクに