Neverending Struggles in Myself

Neverending Struggles in Myself

音楽の話題を中心とした思いつきや気持ち(気分)、徒然の記録。

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前回、自分の聴いている楽曲がほとんど変わらない、と書いた。昨日の通勤時のBGMはグランドファンク・レイルロード。朝からよくもこんながさつな音楽を聴くものだ、…って。
まぁ、朝から懐古に浸りたかったんだな、きっと。

グランド・ファンクなんて言ったって今の人は知らないだろう。ただ、最近ではソフトバンクのCMでBGMとして流れていたロコ・モーションはグランドファンクだった。テクニックだのなんだので言ってしまえばお世辞にも巧いとはいえない。マーク・ファーナーのギターはかなり怪しい部類に入ると思うが、バンドトータルとしてのリズム感やパワー感が好きだ。多感な時代に聴いた音楽というのは形容しがたいエネルギーをもたらす。当時やっていたバンド活動を含めた部分でさんざん聴いてライブで歌ったことが起因していることなのかもしれない。懐メロ感覚にも似た追体験をこの年齢になってもしている。質が悪いのは、ただ聴いているだけではなくいつの間にかそのまま声に出して歌うという異常行動に出てしまうところだ。(怖) まぁ、周囲に人がいないのを確認して歌ってるんだけど、傍から見たら変人、というかまさに頭のおかしい人だね。

グランドファンクを最初に聴いたのは中学1年生の時。5歳上の従兄弟が当時ロックのテープを見つくろってくれた時に入っていたのがGFRだった。"Heart Breaker""Gimme Shelter"といったあたりだったか、カーペンターズやビートルズあたりのビートしか聴いていなかった少年にとっていままでにない強烈で野卑(荒々しい)なものを感じたわけで、やたら凄いというか爆弾落とされた感じだった。

ハードなだけじゃなく、メロディといいリズムのノリといいとにかく動かされるものがあった。あの頃はどうしてもギターとボーカルのマーク・ファーナーにいきがちだったけど、今聴くとやっぱりリズムセクションがいい。ドン・ブリューワーとメル・サッチャーのリズムセクションは本当にキテいた。リアルタイムでは73年にトッド・ラングレンをプロデューサーに迎えて出した "We are an American Band" 。時代背景もあったんだろうけど、曲にどこか憂いを感じるものがあってそのほの暗さが惹かれる理由かもしれない。(私の場合、とにかく、暗いというか影の要素がないと駄目だ)

力強さっていうのかな、ロックの過激さと熱さを教えてくれたバンドだった。Loco Motionなんてキャロル・キングが作曲してリトル・エヴァが歌ったのが原曲だけど、僕にとってはグランド・ファンクという印象が強いわけで、あれ聴くとついついでかい声で絶叫したくなる。

聴くより行動に向かわされるバンド、現在でも僕にとってグランドファンクはそんなバンドだ。

グランドファンク聴く度に、「考えてるより動け!」とどやされているような気がする。

それにしても、自分の聴いている曲やバンドを見ると同じものを何度も何度も懲りもせず、飽きもせずに聴いている。これじゃまるで人工衛星だ。それも、 Grand Funk Railroadを除けば全てブリティッシュという偏向ぶりだ。ついでに、一部を除いては全て70年代のものばかりとなっている。まさに偏執狂。

そうした中で頻繁に聴いているのがキャメル(Camel)だ。カンタベリー系にカテゴライズされているみたいだけれど、今ひとつ私はピンと来ない。曲調はかなり叙情的かつメロディアス、耽美的とも言える。彼らを知ったのは1976年あたりで、当時所属していたバンドで彼らの曲をやるというのでテープを渡されたのがきっかけだった。ハードロックのボーカルをやっていた私にとっては最初、彼らの歌があまりにも地味で演奏の添え物のような感じだったのに落胆した記憶がある。メロディアスポップのようでもあり、きれいすぎて柔な印象もあった。最初に聴いたアルバムは「Mirage(ミラージュ)」。LPからカセットテープに録ってもらって聴いていたので知らなかったのだが、後年、LPを買って初めてB面が "Lady Fantasy"一曲で占められた大作だったことがわかった。バンドではこれをライブでやったのだが、とにかくあの時代にはこういう長大な大作が多かった。それにしても、良くこんなに長い曲をやったものだ。

その大作"Lady Fantasy"、イントロの入りはハードだがそのうちメロディアスで甘いタッチのギターフレーズへと移行する。当時高校生だった私は毒気を抜かれる思いだった。ただ、ソフトとハードな部分とのメリハリの付け方やドラマチックな展開に聴き込むうちに病みつきになる。最後の方は同じフレーズを何度も繰り返すなか各楽器パートの絡み方や組立も面白い。

1974年にリリースされたこの"Mirage"、Camelのセカンドアルバムに相当するが全曲ともに聴き応えは充分だ。というより、当時以上に今聴いた方がはるかにその良さがわかるというか、伝わってくるものがある。

一般的にはこのアルバムの後に出した"Snow Goose"や4枚目に当たる"Moonmadness"がキャメルの名作として挙がるけれど、私自身は個人の思い入れが一番深い"Mirage"がベストだ。アンサンブルやアレンジが緻密で、キーボードのピーター・バーデンスとギターのアンディ・ラティマー絡み方も秀逸。繰り返し聴いても飽きない。ロック作品でありながら、疲れているときに聴ても案外リラックスできてしまうという変わり種だ。

それぞれ楽曲は聞きやすくわかりやすいにもかかわらず、実は奥が深くて難しかったりするのがキャメルだ。はまると抜け出せないバンドという部分では同時代に活躍したGenesisと相通じるものがあるかもしれない。それ故なのだろうか、30年以上経った現在でも飽きもせずに聴いてしまうのがキャメルだ。
暑かったり、肌寒かったりとよくわからない今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?

年を重ねるとこうした寒暖の差に体が敏感になって、調子が悪くなるんだな。もっと別のことに敏感になればいいんだけどね。他の事柄はどんどん鈍感になっていく。どうせなら、全部に鈍感になっちゃえば楽なんだな。そんな脱敏感宣言をしようかと考え中。

自分の聴いた音楽のPlay Listを書いているブログを見かける。かくいう自分もかつてはプレイリストを書いていたことがある。でも悲しいかな、だんだん聴くものが同じになってきてしまう。毎回同じのを書いているのも脳が無いしつまらないと思い止めてしまった。MP3プレイヤーのラインナップを毎週換えること自体が面倒臭い。ブログのプレイリストを書くために無理していろんなのを聴くのも不自然だしストレスだ。

そんなわけで、今年の3月にデビューアルバムを出したイギリスのプログレバンドHakenの"Aquarius"というアルバム以外は半年間まったく差し替え無し状態だ。毎日必ず聴くのはPorcupine Tree (ポーキュパイン・トゥリー)でこれは2006年以来ずっと続いている、あとはPeter Gabriel、King Crimson(Redと宮殿)、Camel、Cold Play、Radio Head、Fish、Pink Floyd、Genesisあたりを交互に聴く毎日だ。朝からほとんど70年代系暗いブリティッシュに染まりきって自分に向けてグサグサと刺さるような問いかけを繰り返す毎日である。偏屈だの根暗だのいわれようが、これが自分の性分に合っている、というより好きなのだからしょうがない。世界は温暖化で大騒ぎしているが自分の中ではもっぱら気分は夏どころかどんどん厳しい冬なのだ。差し当たって氷河期といったところか。

自分的には時代に媚びるような無理な進化をするよりも、自分の好きな世界を掘り下げてどっぷりと深化したい。だから、音楽的にいろんな感動をして気づきたいのだ。が、今をときめく日本のヒットソングや有名ミュージシャン達の楽曲に感動できるような代物が殆どない。

J-を付けて何やらお洒落っぽい呼び方をしてるけど、内容は殆ど絶望的。J-はJunkのJ-なんじゃないか…。音楽もすっかりファーストフード化してしまった。自分でいろいろ聴いて探し出した音楽じゃなくてどこかの会社か業界が作り上げた製品を聞かされている感覚に等しい。

音楽を聴く環境も大きく変った。私の学生時代にCDなるメディアはなく、LPをターンテーブルに乗せて聴くか、カセットテープで聴くしかなかった。それでも、どちらもスピーカーから音を出して聴いていたわけで現在のようにインナータイプのヘッドフォンなんて無かった。それにヘッドフォンこそ、なにやら専門的なアイテムに見え、一般的な代物ではなかったと記憶している。音楽メディアがコンパクト化して行くにつれ聴き方そのものもどんどんコンパクト化していった。

前回のブログにも書いたが、その一方で80年代にはMTVなどの海外音楽の映像コンテンツが一気に広まり、音楽は聴くものから限りなく見る行為へと変貌を遂げた。音楽は映像のBGMという本末転倒をいたるところで目にするのが今のミュージックシーンだ。視覚の刺激というのは音以上に凄いし、より直線的(直接的)なインパクトがある。今や音楽というよりは映像用音楽といった方が正しいのではないだろうか。ある映像が流れるとたとえそこに音楽が流れていなくても自然と自分の頭の中で曲が流れ出すといった条件反射がおこるようになる。全てが全てではないにせよ、現在の流行歌 (古っ!) はその傾向が顕著だ。

音への感覚は鈍磨し、音楽が奏でる旋律から自分なりの絵を描くというような楽しみ方ができにくくなっている。何が自分にとって良いのか、そういう部分で聴くことはなくなってきてるんだろうな。導き出された映像に乗せて音楽が鳴り出す。できあがった景色の中で泳ぐしかないのだろうか。映像無しの音楽に反応できない人がいてもおかしくはない。

音楽は聴くより見るインパクト(刺激)と化してしまっているかのようだ。
とある方とのメールでのやりとりの中で「(僕のように)50代でライブハウスに足を伸ばすのは少数派でしょう」という下りがあってちょっと振り返ってみた。全くその通りだ。よくよく振り返ってみると自分より上の世代のオーディエンスは一部のライブを除いてはあまり見ない。特に若い人が主体になったライブにおいてはそれが顕著なようだ。細かなことはさておき結局のところ、私のようなのはやっぱり少数派か、ということがあらためて分った気がして愕然とする。ショックと言うより笑ってしまった。そんなものなんだ、という思いが強かった。また、洋楽ものばかり聴いている同世代も一部を除いては極めて珍しくなってきているようだ。俺は絶滅危惧種か?

年を経ると洋楽を聴かなくなるものなのだろうか…。それは人によるだろうけど、同世代の友人と飲みながら最近聴く音楽の話をしても話がちっとも噛み合わない。とにかく昔話になるだけで、今の洋楽は何も出てこない。いつの間にか、友人もJ-Popオジサンになっていた。

バンドを組む、音楽を人前で奏で聴かせる、ライブハウスに出演する等々、音楽をそこそこの場でプレイするという敷居は昔と較べて間違いなく低くなった。その一方で音楽を聴く量や幅は狭小化しているように感じることがある。(時に、矮小化とも)そんな風に感じる。インターネットといった情報収集には事欠かないメディアや手段があるにも拘わらず実際の世の中には新しいものへの関心、冒険、チャレンジはあまり感じられない。若年層になるほどそういった印象を受ける。画一的な印象を受けてしまうことが多い。例外はあるにせよ、音楽的な冒険やチャレンジをしているバンドやミュージシャンに出会えるチャンスが減っているのは事実だ。

80年代のMTVに始まり現在のネット上での動画まで一連の流れを鑑みるに音楽は聴くというよりも見る要素が強くなっていった。見ながら聴く。今やプロモーション・ビデオ、ライブ映像などプロからアマチュアまで何かしらの映像を好きなときに好きなだけ見ることができるようになった。音源もわざわざCD一枚騙されたと思って買わなくとも試聴ができる。プロモーション・ビデオやライブ映像をサッと見ただけでバンドのアウトラインがある程度わかってしまう(本当はそれじゃ駄目なんだけどね)、ような気になる。まぁ、最近のライブハウスなんかのアマチュアバンドは大外れのことが多いから行くか行かないかぐらいの判断材料にはなるけれど。それでも何か夢がない、ときめきも感動もない。自分で探して見つけたのではなく、結局見さされているだけに近い。YouTubeなどの映像を見ただけで全てを見たような、試聴を聴いただけで全てを聴いたような、わかったような気になってしまってんじゃないだろうか。どんどん実体がなくなって、なーんちゃって的に流されちゃってんだな。そのうち、ライブハウスなんかでやらないでオンラインのセッションライブになっちゃうんじゃないのか。そんな気がする。

本質や実感がすごく希薄になる中、小ざっぱりとクールな空気を醸しだし、外見という装いだけで臭いも熱もない。(音楽も無菌、無臭がいいのかなぁ)知識や情報に反応する一部の器官だけを働かせるだけと化しつつある。次から次へとやってきては通り過ぎる、そんな刹那的記憶で落としどころも、とどまるところもない。なんかテスト前の一夜漬けの丸暗記作業と同じだ。テストが終わったらすぐ忘れちゃうみたいな。なんかしみじみしないな。

私はライブハウスにいくのはもっと土着的なものを感じたいのだと思う。発せられる熱をリズムを音楽的なにおいを…。見るとか聴くではなく感じたいのだ。そうしたものと出会いたい、見つけたいがためにライブハウスに足を向けるのかもしれない。本当は年は関係ないと思うけれど、ライブハウスに足を伸ばす50歳は、理屈ではない人間の激しさが奏でる音の波に埋もれたい。

脈絡のない文になってしまったけどこの頃、ずっとそんなことが頭の中を逡巡している。