最近・・・・でもないが、大震災後からテレビで同時手話通訳が盛んにテレビに映る。その手話は小難しい言葉を和語に巧みに変換して通訳している。
手話通訳能力 = 和語変換能力
だと言える。
勿論手は左右あるので、例えば「私はあなたの家に行く。」の「あなたの家」は文が修了するまで存在してしまう。手話は口話のように言ったそばから音が消えるような性質の言語では無い。あなたの家が片手で表されて、片手で移動を表して一つの文となる。つまり、家と行くが同時に存在するのである。これは口は一つの口話ではありえない事であり、心の底から音声を捨てなければ気が付かない事、いつまで経っても届かない部分である。
手話はまだまだ語彙が少ない。日本語の歴史と日本手話の歴史の差は1000年以上は有るだろう。「原子力」の手話表現を今回初め知った状態だ。勿論「原子力」は和製漢語であるが、現代にあわせて必要な単語を作り出す力がそもそも手話に備わっている。これは抽象的な概念を漢字を巧みに組み合わせて広めてしまう漢語にもにている。しかし、基本的な意味表現は外国人に判る日本語への変換を行い、それを手話で表現しているのである。
手話通訳者はすぐれた日本語の使い手でもあるのだ。
日本手話は孤立語である。多分他の国の手話も孤立語であろう。なので、英語や中国語のような孤立語の口話言語との馴染みは高いと私は勝手に思っている。
日本語は膠着語である。形容動詞や動詞が活用し変化をしてしまう。そして助詞が介在し、同じ意味を伝える際にも単語の位置を自由に変えられる。
日本手話は生まれた時から耳が聴こえない聾者が言語獲得期に聾学校で先輩から後輩へと受け継がれた文法構造が完全に完成したクレオールである。なので、先に例をだしたような「私はあなたの家に行く。」の文も文としてあなたの家が残るのだ。しかし、人の中には日本語を獲得してから失聴者や唖者になる人も沢山いる。そのような人が使う手話は後から学ぶ事になるのだが、手話単語を日本語の並びに並べる日本語対応手話である。これは活用や助詞が落ちてしまい文として不完全になってしまう。例えば「明日、弟があなたの家に行ったら、この箱を渡して」をそのまま手話単語を当てはめると「明日 弟 あなた 家 行く この 箱 渡す」となりこれでは「明日あなたが弟の家に行く」のか「明日あなたの家に弟が行く」のか判らなくなってしまう。このように日本語対応手話は文として不完全なピジンなのである。
私は今後は日本語を通して聴覚障害者への日本語教育、仕事言葉、書き言葉の教育を行って行きたい。そして、日本語対応手話をクレオールに昇華させたい。
だって、言語って面白いから。