戦後日本を守った首相
戦後間もない頃の首相。東大卒。外務省に入り、公使・大使を歴任。戦後、東久邇宮・幣原内閣の外相を経て、昭和21年自由党総裁となり組閣。以後1954年まで五次に至る内閣を組織する。この間サンフランシスコ会議首席全権として対日平和条約・日米安保条約に調印。ワンマン宰相として知られ、引退後も保守本流の元老として政界に巨大な影響力を持った。1967年死去、享年89歳。
内閣総理大臣就任
吉田は外交官として入省後、20年間を中国大陸で過ごしている。その後、事務次官に就任する。
吉田は「親英米派」で、ドイツとの接近には常に警戒しており、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。
太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。
終戦後の1945年、東久邇宮内閣、幣原内閣の外務大臣を歴任。
翌1946年、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員の首相も吉田が最後である。
同年には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。
1947年、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、日本社会党に第一党を奪われた。社会党は吉田続投を企図していたが、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが、次の芦田内閣(芦田が逮捕)と共に長続きはしなかった。
第二次、第三次内閣
GHQ民政局は吉田を嫌い民自党幹事長の山崎猛を首相にしようとしたが、マッカーサーが承認し無かった為に第二次吉田内閣が誕生した。
直後の第24回衆議院議員総選挙で自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。
1949年、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に書簡を送り、共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動に対し、共産主義と戦う手段として、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が設置・施行されるきっかけを作る。
サンフランシスコ平和条約と朝鮮戦争
1950年に朝鮮半島で朝鮮戦争が始まる。
当時の米国は、できれば直接米国兵士が朝鮮戦争に介入するのではなく、日本に再軍備させ、その日本軍を朝鮮戦争に差し向けたいという明確な意図を持っていた。
吉田茂内閣は、日本の復興が第一の為、戦争の傷跡の残る日本人の若者を、ふたたび戦争に駆立てないために、占領軍が与えた憲法を、金科玉条とし、「あなたがたが日本に与えた憲法に戦争放棄と書いてあるではないか」と、朝鮮戦争出兵を拒否。
ちなみにこの当時、日本共産党は独自に日本共産党軍を北朝鮮側の兵力として独自派遣しています。
朝鮮戦争でアメリカ人の犠牲者が増える中で、日本を参戦させたいアメリカは、サンフランシスコ講和条約を急ぎました。そして、戦争放棄を謳う日本国憲法の破棄を認めます。
しかし、韓国大統領である李承晩はアメリカに助けてもらっているにも関わらず、日本に助けてもらうのを良しとせず李承晩ラインを勝手に引き、竹島を占領し、日本を敵にまわしてしまいます。
日本の朝鮮戦争の参戦を諦めたアメリカは、韓国の反対を押し切り、勝手に北朝鮮と休戦協定を結びます。
朝鮮戦争が終わってしまった為に、日本国憲法を破棄させる理由がなくなってしまいます。これが、占領憲法がいまだに使われている理由の1つです。また、サンフランシスコ平和条約と同日にアメリカと安全保障条約を締結しています。独立達成と日本の安全保障を得た吉田内閣は戦後最高の支持58%を得ます。
その後
サンフランシスコ平和条約締結後は、公職追放を解かれた鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。
1954年、野党による不信任案の可決が確実となると、内閣総辞職。自由党総裁を辞任。
日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。1967年死去。享年89歳。
人物像
ワンマンであったと知られているが、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。
吉田は典型的な明治時代の人であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。」と語っている。
また、京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたという有名なエピソードが残っている。
安全保障条約
安全保障条約を結ぶと国内の反対派を敵にまわすことになる。ゆえに吉田は日米安全保障条約に一人で著名している。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、無理やりついて来ようとしたが、室内に入れなかった。
保守本流
自民党内に、自主憲法を成立させる吉田路線を引き継ぐ者たちという意味で保守本流が誕生します。しかし、現在においては、その保守本流の中にもあくまで護憲という人たちと、自主憲法制定を求める人たちが混在する曖昧な状態になっています。