さて幼少の清和天皇を即位させ、自らが外戚の立場となって、臣下で初めて摂政となった藤原良房。
その後その養子である藤原基経が光孝天皇が即位する際に臣下で初めて関白となり、摂関政治が展開されていきます。
この基経,光孝天皇のお気に入りであり、剛腕ぶりを発揮します。
皇位は光孝天皇の子の宇多天皇へと引き継がれます。
<887年 阿衡の紛議>
宇多天皇は藤原基経を関白に任ずるための勅書を出そうとし、「阿衡(あこう)に任ず」と書かれた勅書を出します。
しかし基経は、「阿衡とは位だけの名目で職をともなっていない」として、文句をいいます。
要はもと上司であった光孝天皇から宇多天皇へと、上司が変わったので、朝廷に出仕しなくなったのです。
このクレームを基経に進言したのは藤原佐世(すけよ)です。
もともと宇多天皇の勅書を起草したのは、橘広相(たちばなのひろみ)という、天皇お抱えの学者であり、この藤原佐世と橘広相との、学者同士の対立もあり、こういった進言をしたんでしょう。
結局宇多天皇は勅書の非を認め、起草者である橘広相を処罰しました。
これにより基経は、関白の政治的権力を高めていくことになります。
そんな良房の死後、藤原氏を外戚としない宇多天皇は、摂政・関白をおかず、菅原道真を登用し親政を行い、藤原氏を抑制していきます。
これに対し藤原氏は、遣唐使を再開し、道真を任命し、外国へ追っ払おうとしますが、道真はそれを防ぎます。
これが894年、遣唐使の廃止です。
(廃止の理由は、唐の衰退と、遣唐使が無事に帰ってきた例が少ないことなどから)
その後、宇多天皇の皇子である醍醐天皇が即位します。
醍醐天皇も道真のことを信頼し、この時右大臣になります。そかしこの時左大臣になった藤原時平の策謀によって、道真は大宰府に左遷されます。
というのは、時平は「道真が醍醐天皇を廃して、自分の娘の夫である斉世親王を皇位につけようとしている」と天皇に進言し、無実の罪で退けられてしまいます。
(実際にはそういう考えも持っていたらしいが…)
そして道真は左遷先の大宰府で、その生涯を終えます。
その後この道真の怨霊の祟りを恐れてまつられている京都の北野天神は学問の神として崇められ、天満宮はその後全国各地に建てられました。
さてその後…摂関政治の中休み…?
天皇親政が復活した時期があります。延喜・天歴の治です。
