【 本質を考えたい 】 いい体罰と悪い体罰 | 國體ワンワールド史観で考察するブログ

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日本の教育への疑問から始まった当ブログは、教育への関心を残しながら落合莞爾氏の國體ワンワールド史観に基づいた情報発信にシフトしています。
また最近はサニワメソッドを活用したスピリチュアル関連の情報発信も行っています。

世の風潮として、「体罰は悪」というのが広まっています。

 

一方で、わたしは体罰容認派です。

わが子が体罰を受けることも容認派です。

 

わたしは不良的なやんちゃではありませんが、こどもっぽい活動的な意味でやんちゃでしたでし、

末っ子気質の傍若無人さがあったので、よく先生に叱られていました。

なめていたので、先生の言うことを聞かないことも、幼稚園、小学校では特にありました。

そして、よくげんこつを受けていました。

当然、中学校、高校でもそれなりにげんこつを受けていました。

 

しかし、先生に対して恨みは一切ありませんし、

逆にあのときしっかり叱って下さったことに感謝しています。

 

多分、「体罰」によって己を律することができた経験がある人、

そしてそれが血肉になって逆に先生に感謝している人からすると、

今の「体罰は悪」という風潮には違和感があるのではないでしょうか。

 

では、なぜ今体罰に対する風潮がそのようになってしまっているのでしょう。

 

その大きな原因は、端的にいうと日本国民の劣化だと思います。

思考力が衰え、想像力が衰え、バカになったからだと思います。

 

右翼、左翼のような、単純な二項対立で考えないと判断がつかない、

二項対立でわかったつもりになる、というような。

一事が万事。

 

自分一人を考えても、保守的な考えもあれば、何か変えたいという革新的な考えがあるはずです。

日常生活でも、夫婦であったり、会社の同僚であったりに対しても、白黒つけれらない様々な意見があると思います。

考えればわかることがわからない。

 

公共機関での赤ん坊やその親への冷ややかな態度と同じです。

自分の幼少期を考えて自分は完璧だったのか、どれだけ周囲の愛情、厚意によって育ってきたか、

というような思考や想像を巡らすことができない。

 

自分の幼少期を想像できず、不完全な存在である子どもについても、

「言葉でわかる」という幻想を抱いている、ということだと思います。

 

馬鹿の一つ覚えみたいに、「体罰=悪」と考えてしまう。

先生に叱られたり、体罰を受けたことがない人間は、私に言わせたら、

「おとなしくて、活動的でなくて、自分の意思がなくて、若年期の経験が乏しかった人」です。

つまり、残念な人。

 

体罰についての善悪は、体罰という行為そのものでないところにあるはずです。

それは、何か。

 

一つは、「相手の成長や改善を望んで、同じことを繰り返そうとした時のストッパーとして注意の記憶を呼び起こさせるため」の体罰。

もう一つは、「教師の機嫌など単なる感情によって、パワハラ的に大人の子ども体力差の優越利用した」体罰。

 

前者は、いわゆる愛の鞭。

子どもなんて、言葉でいって理解して行動を是正できるほど完全ではありません。

全くもって不完全な存在です。

人間は、1つの感覚より複数の感覚に訴えた方が記憶に定着したり、行動意識を変えます。

勉強していても読むだけより、書いて覚えるというように、できるだけ多くの感覚を動員するのと同じです。

痛みを伴わせることで、行動を律しさせようとする。

 

後者は論外です。

単に教師がクソなだけです。

おそらく、日本各地の教師の多くは前者なはずです。

 

わたしの同級生は、高校時代に喫煙しているのが先生に見つかり、先生はびんたをかまし、

その同級生は鼓膜が破れました。

それでも、その本人並びに親も、その先生に感謝していました。

わたしも宿題を意図的にさぼったわけではなく、単に忘れた際でも、

教師が意識が遠のくくらい強く出席簿でたたかれましたが、全く恨んでいません。

感謝しています。

それは、自分が悪かった、自分のその悪かった部分の是正に少しでも意識が向くように仕向けて下さった、

という思いがあるからです。

 

思考停止で「体罰=悪」ではなく、もっと「体罰」の中身、先生の姿勢というようなところに焦点を当てて考えるべきではないでしょうか。