【 歴史追究 】 700年前後の女帝と草壁皇子 | 國體ワンワールド史観で考察するブログ

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日本の教育への疑問から始まった当ブログは、教育への関心を残しながら落合莞爾氏の國體ワンワールド史観に基づいた情報発信にシフトしています。
また最近はサニワメソッドを活用したスピリチュアル関連の情報発信も行っています。

(落合史観に基づく考察)

 

推古天皇は、國體の大物竹田皇子こと聖徳太子が政治をしやすくするために天皇になっていた。

(京都皇統からの話で、聖徳太子は用命と穴穂部間人皇女の息子ではなく、推古天皇の息子竹田皇子で実の父は敏達天皇)

 

ということなので。

持統、元明、元正も、その下、裏である皇族が動かしていた、と考える方が筋が通るかもしれない。

 

軽皇子の孝徳から有間皇子が出てファンドを何かしたのであるなら、同じ軽皇子を称していた文武も同様であったということか。

(有間皇子は、渡欧して中ピピンになった、と落合莞爾氏は最近発表している)

 

天武の子とされる高市皇子が、彼の子らしからぬ話は残っていて、天武が美濃の湯沐邑に関与できていたということは、國體黄金に触れたということになる。

(湯沐邑は、古代は國體黄金の秘匿地)

 

とすると、高市皇子は、天武と親子ではないが國體黄金に関与できる人物で、表に持統が出たのかもしれない。

高市皇子は、大友皇子と同じく太政大臣の称号を得ているので、準天皇と言える立場であったことも考慮して。

 

そして、出てくる草壁皇子。

音の発音だけなら、日下部皇子とも書け、日下部で養育された皇子となる。

 

 

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この本で、「日下の地域は、日向諸県君氏と核とする日向・隼人系集団の一大移住地」とある。

 

つまり、日下部はその集団に属していることになる。

 

蘇我氏と関連するということは、日下部は実質的には八幡殿と近い関係にあったことが推測できる。

(蘇我氏は、孝元天皇の子ヒコフトオシノマコトの子孫の武内宿禰の一族で、ヒコフトオシから北朝鮮羅津に集積された國體黄金を守る八幡殿が出た。応神天皇は、八幡殿で奉迎され日本へ。蘇我氏は八幡殿との連絡役でもあった)

 

とすると、高市皇子の頃の国家的出費は、藤原京の造営では、と思いが至る。

694年に完成で、高市皇子の死去が696年。

そして、天武と持統の子とされる草壁皇子と持統の姉妹の元明から生まれた文武が697年に即位。

この近親婚は異常

 

草壁=日下部としたら、草壁皇子は八幡殿からやって来たか、泊瀬王か山背大兄の子か孫が日下部で育てられた、ということかもしれない。

 

草壁皇子の子が文武で軽皇子なので、國體黄金に関係が深い人を探してみると、上記が考えられるかなと。

そうすれば、元明との婚姻も近親婚ではなくなる。

 

なぜか710年には平城京に移るので、また國體黄金が必要だったはずで、それが高市皇子の子の長屋王あたりが実は裏で動いてのかもしれない。

 

長屋王については、太政大臣とまでは呼ばれた高市皇子の子ながら、長屋親王と記したものもあるので何かあった人物のはず。

 

この辺りが、女帝が現れる理由かなと。

 

日下の由来がこの本通りなら、上記で予想できたりもしそう。