【 古代史の考察 】 ヤマトタケルと吉備(主に岡山県)との関係 | 國體ワンワールド史観で考察するブログ

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【 ヤマトタケルと岡山の関係についての考察 】

 

わかりやすく作ろうと思って作り出したものの、作ってみたらグチャグチャになった系統図・・・

 

@鍋島直亮

 

パッと見で気づくのが、孝霊天皇の息子の稚武彦命をきっかけにして、

ヤマトタケルが吉備系統と関係が深くなっている点。

 

稚武彦命の息子の吉備武彦(新撰姓氏録では子と孫が混在)は、

ヤマトタケルの東征にあたって大伴武日連と共にお供になっている。

 

母親は、稚武彦命の娘で播磨稲日大郎姫。

名前が播磨で紛らわしいが、吉備系統。

また、同じ稚武彦命の娘ということになっている稲日若郎姫とは父の景行天皇は婚姻して、彦人「大兄」命が生まれている。

(ただし、彦人大兄命の母については、別の説もあるので別途。)

 

そして仲哀天皇を生む吉備穴戸武媛は、吉備武彦の娘。

母が吉備武彦と兄妹(姉弟?)で、妻の吉備穴戸武媛は従妹。

大変な近親婚になる。

ちょっとおかしい。

もしかしたら、ヤマトタケルという人物が複数いたのでは?

(これについても別途。)

 

では、なぜヤマトタケルが吉備との縁が深くなるのか、を考えてみる。

一つは、崇神天皇が持ち込んだ罌粟に関係すると思われる。

落合莞爾氏の著書によると、罌粟は崇神天皇によって持ち込まれたとのこと。

罌粟は持ち込まれた際、まず豊国で栽培されたらしい。

罌粟は黄金と表裏一体であり、また薬としても使われたが、神事にも使われたと思われる。

 

そこで、関係してくると思われるのが、纏向遺跡。

纏向遺跡からは、沢山の桃の種が発見されている。

纏向遺跡が卑弥呼の都と騒がれるので、時期としては3世紀頃のものであるので、

奈良の方では崇神朝は垂仁か景行あたり。

 

桃は、古代日本では薬と神事で使用されてきたようだ。

そのため、阿片と桃もまた不可分のものであったと思われる。

また、纏向遺跡は磯城郡と近い。

なぜここで磯城郡を出したかというと、吉備津彦と稚武彦命の母の絙某弟(はえいろど)の父系をたどっていくと、

師木津日子命となり、彼は懿徳天皇と兄弟であり、安寧天皇の息子となる。

師木津なので後裔は磯城郡に地盤を持ったと思われる。

 

ところで、纏向遺跡は周囲に食糧生産の跡が見当たらず、

宗教都市であったとも言われるので、もしかしたらこの一族が祭祀を担ったのかもしれない。

物部氏と共に。

 

なお、吉備と宗教の関係の深さは前から指摘されていて、

前方後円墳の原型が吉備エリアで見られると言われてきた。

 

以上から推測されるのは、豊国で栽培が開始された罌粟は、

その後吉備でも栽培が始まり、これを管轄したのが稚武彦命の系統の吉備勢だったのではないだろうか。

 

ヤマトタケルと吉備の関係はここにあると思われる。

そして、ヤマトタケルが八幡殿として羅津に行った以上、

罌粟と黄金が表裏であり、ヤマトタケルが全国を巡ったのは湯沐邑の候補地探しでもあった、

と落合莞爾氏も記述していたので、同じく罌粟の栽培地もセットで探したのではないだろうか。

罌粟とライ病も関係があったようであるし。

 

そして、吉備武彦がお供についたのも、罌粟栽培の候補地を共に探すためだったと想定される。

大伴武日連は、武人なので用心棒?

 

別途とした点は、別途。