映画『硫黄島からの手紙』
硫黄島と東条英機/映画『硫黄島からの手紙』より
太平洋戦争の激戦地「硫黄島」。米軍死傷者が日本軍を上回った唯一の戦場である。
その死闘を描いた話題の映画『硫黄島からの手紙』には、凄惨な自決シーンが描かれている。開戦時の首相であった東条英機の、「日本兵は捕虜になるな」という訓戒が引き起こした惨劇だった。
戦局は悪化の一途だった戦争末期、ついにサイパンも陥落し、本土への直接攻撃は避けられない情勢となる。
迎え撃つ日本軍の最後の防波堤は、東京の南1200キロに位置する硫黄島であった。
現在も東京都小笠原村に属するこの島には、栗林忠道中将率いる2万1千の守備隊が詰めていた。彼らに生きて帰る希望はない。一日でも長く米軍を食い止めるのが、使命だった。
栗林は、地下壕に立てこもる持久戦を企てる。
連日の穴掘り作業に、下級兵は不満をもらし、側近の幕僚までが、
「どうせ死ぬのだから、華々しく死ねばいいのでは」と訴える。しかし、知略家の栗林はこれを一蹴、全長18キロに及ぶ地下壕を建設して待ち受けた。
2月16日、ついに米軍が上陸作戦を開始する。援軍の望みも退路もない栗林は、敢えて自決を禁じ、最期は、米兵と差し違えよと厳命した。
しかし、弾尽き、負傷し、米兵の火炎放射で丸焼けにされるよりは、と上官の指示を無視して、自決を選んだ者が多かったことが映画に描かれている。
暗い地下壕の奥で、「靖国で会おう」と言い、手榴弾の安全弁を抜く。叫び出したくなる衝動を抑え、一人ずつ、「天皇陛下、万歳!」と叫ぶや、ヘルメットにスイッチをたたきつけ、手榴弾を抱きかかえるのである。
そんな日本兵の遺骨が今なお回収されぬまま、多数残っているといわれている。
■戦陣訓
彼らを自決に追いやった原因の第一は、〝死ねば靖国の神になる〟という鬼神信仰である。
日本神道では、死んだ人畜の霊が神社などに留まり、生きている人に禍福を与えるという。これを仏教で〝鬼神〟といわれる。戦争で死ねば英霊として「靖国」の神になれるとされ、若者を戦争に駆り立てた。
もう一つの原因は、昭和16年、陸相時代の東条英機が軍人の行動規範として公布した『戦陣訓』である。いわく、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。〝捕虜となるよりは、潔く自決せよ〟というこの文書の影響で、かなりの軍人が、自決を美徳と考えていた。
当の本人の東条英機も敗戦後、「自分は、皇室及び国民に対して最も重大な責任がある。このお詫びは死をもってするほかない。」「戦争中に自分が公布した戦陣訓中の一句―俘虜の辱めを浮くるよりも死を選べ―を自ら破ることはできない」(上法快男編『東条英機』)と自決の意志を固め、東京都世田谷用賀の自宅で時機をうかがっていた。
頭を射抜くのが、いちばん確実な自決の方法だが、GHQは遺体を写真に撮るだろうと推測し、遺体の見た目も大事にしたいと考えた。
自宅向かいに住んでいた医者に頼んで、心臓の位置に墨で印をしてもらい、自決した娘婿が使った軍用銃を携帯して、いつでも撃てるようにしていた。
■自決失敗
敗戦から約1カ月たった9月11日午後4時2分、アメリカ陸軍中佐一行が、東条邸に急行した。
戦犯の召喚は普通、日本政府を通じて書面で交付されたが、これは異例だった。しかも、新聞記者を多数、帯同している。正式な逮捕ではないと直感した東条は、観念した。
銃声と同時に踏み込んだ憲兵が確認すると、弾は心臓をかすっただけで肺を貫通し、一命を取り留める。
20年12月8日、傷が完治すると、野戦病院から巣鴨の刑務所へ移された。
エリート軍人として駆け上がり、抜群の記憶力から「カミソリ東条」と呼ばれ、独裁内閣を築いた。戦争が、赫々たる戦果を挙げていた時は、騎虎の勢いだったが、一敗地にまみれ、A級戦犯の筆頭として、板敷きの上にワラ布団を置き、毛布五枚のほか、何も持ち込めない刑務所の独房にぶちこまれるや、かつての総理大臣、陸相、参謀総長、内務、文部、軍需、外務の各大臣を歴任した威厳は微塵もなく、孤影悄然たる姿に、人間本来の実相を見せつけられた思いをしたことであろう。
人間のつけた一切の虚飾を、ふるいおとされたそこにあるものは、かよわき葦のような罪悪にまみれた自己でしかないのである。
■汗まみれの聞法
戦犯の九割が仏教徒だったので、浄土真宗の花山信勝(しんしょう)氏が、教誨師として法話をすることになった。
21年6月下旬、急ごしらえの仏間で始まった法話に現れた東条は、丸腰の軍服姿にトレードマークの眼鏡が光っていた。
花山氏の回想によれば、その日、東京の温度は32度以上の暑さだった。窓が一方にしかない仏間には風も入らず、蒸し風呂のような中、東条は扇子も使わず、身動き一つせず、真剣に聴聞した。顔から汗がダラダラ流れ落ちても、ハンカチでぬぐおうともしなかった。
その真剣さに引きずられて、花山氏も汗まみれで法話を続けたという。
それまでは、全く真宗の教えに疎かった東条も、獄中で『正信偈』をよく拝読し、こう語っている。
「ことに大無量寿経は偉いことですね。その中でも殊更に、(阿弥陀如来の)四十八願を読むと、一々誠に有り難い」
「この『正信偈』の中には、信ずるということを、何べんも繰り返していわれているですね。初めには応信如来如実言、終りには唯可信斯高僧説、その他お話の中にもあったように、信ということをくどくどいっておる。有り難いですなぁ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ。本当の仏様の目から見れば実に極重悪人ですよ。例えば肉を食うとか、米を食うとか、米にも生命がありますよ。そういう食事のことからだけ考えても、それらを食わねば生きて行けない人間だということは、全く極重悪人です。それがよくわからないと、極重悪人がわからない。ちっぽけな智慧、それが禍いしてくるのですね。だから、知識人は信仰に入れないのですね。この間私はある書物を読んだのですがね。シベリアに住んでいる人なんですが、樹を見ても泣いたり、呼吸したり、くさみをしているようにも見え、そこら中のものが、みな自分と同じように生きている。そういうふうに、自分たちの周囲をながめているのですね。ものの見方が違って来たのです。すべて人生ということを中心にしてこれを見るというふうに……首切られる時は御聖教も正信偈もいけない。ただ南無阿弥陀仏以外にない。人間は、生死を超えなければいかんですね。」(『巣鴨の生と死』花山信勝・著)
「個人からいえば、一、宗教に入り得たということ。二、人生を深く味わったということ。三、それに裁判において、ある点を言い得たということ。は、感謝しています。」花山氏は東条の様子をこう記している。
「その後、一ヶ月余りの期間に、七、八度面談したが、その都度、罪悪深重の自己反省、阿弥陀仏救済の法悦、その法悦の境地へ家族の人たちを勧誘せんとの念願を漏らされ、地上平和の建設には宗教心の絶対必要のことを繰り返し繰り返し説かれたことであった。また、仏説の真実、極楽の実在、政治と宗教、軍人教育と宗教、仏教と神道との関係、青少年の教育、戦死戦災者及びその遺家族の救護、戦争放棄と将来の国策、追放者及び拘置受刑者に関する問題等についても、意見を述べられた。」(『亡びざる生命』花山信勝・著)
■敵国の仏縁念ず
法悦は、相手の仏縁を念じる心となっていった。面会に来る家族にはもちろん、アメリカ人へも及んだ。
ある時、米軍将校の左手と手錠でつながった自分の右手を見ながら、花山氏に語っている。
「初めは、これがいやだったんですね。(中略)今では、これもいいと思ったんですね(中略)わたしがこうして、手を合わして仏を拝むと、この人(隣の米軍将校)も手を挙げて拝んでくれる。今、アメリカに仏法はないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」(『巣鴨の生と死』より)初めは、皮肉かと思ったが、東条の顔つきは、大まじめだった。深い宗教体験からの自然発露であったのだろうと氏は回想している。
■死の十三階段
昭和23年12月22日深夜。東条英機らは、廊下で立ったまま、花山氏と最後の勤行をする。仏前からお下げした葡萄酒を紙コップで飲み干した東条は、「ああ、うまかった」と満足げに言い、刑場に入るまで、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声高に称えていたという。
弥陀の浄土へ往生できる喜びをつづった歌が3首残されている。
○さらばなり有為の奥山今日越えて弥陀のみもとに往くぞうれしき
○明日よりは誰にはばかるところなく弥陀のみもとでのびのびと寝む
○日も月も蛍の光さながらに行く手に弥陀の光輝く
「この二番目の歌は、すぐそのあとで、『百燭光を昼も夜もつけているので、よくまあ神経衰弱にならなかったものと思う、信仰のあったお陰です』といわれた。
判決があってから最後の日まで、約四十日のあいだ、昼も夜も、三畳敷き位の独房に、百燭の大きな伝統がともっていた。そこであかるいからと毛布をかぶってねていると、すぐに鉄扉の錠がはずされて毛布がはがされた、というわけだから、無理からぬ。前晩、宣告の時苦情の一つに言われた。
『われわれは日本人だから、大便や小便をしているときまで監視されたのは、いい感じではなかった』と。
自殺しないようにと監視する立場からは止むを得なかったとしても、監視されるものにとっては耐え難かったと思う。そこで『明日よりは、誰にはばかるところなく……のびのびと寝む』になったのもうなずける。
これだけの歌を聞くと、東条という人は、自分だけそういった心境に達したのはよいが、残された我々をどうしてくれんだ、息子を戦死させられたり、父親を亡くしたり、大事な主人を失ったりした気の毒な人たち、ことに二千六百年栄えてきた日本をこんなにしてしまって……と。こういうふうに考える人も、もちろん少なくない。ところが、東条大将は、右の和歌のすぐあとに、われ往くもまたこの土地に還りこむ国に報ゆることの足らねばの一首に残された。
そして、『これは仏さまとなってから帰って来るつもりです。還相廻向ですよ』と付け加えられた。
自分の命令で戦争となり、そして汚した此の国を、どうかして早く再建しなければならぬ。立派な平和な国日本を、宗教国新日本を、そして世界平和を建設しなければならぬ、と。」
「わたしが口の中で「南無阿弥陀仏」と称えたところ、東条大将はことに声高く「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称え出された。かくして、自然に一歩一歩、念仏の声とともに、刑場入り口まで、うす暗い中庭一町ばかりを進んだ。
『刑場の入り口まで』という指令であったので、チャプレン・ウォルシュとわたしは隊伍を離れ、入り口の扉のところで、この四人の大将たちともう一度シッカリ握手のなかに、『どうか、しっかり』とはげましながら、後姿を見送った。その時、四人とも、腰をかがめて扉をくぐりながら『先生、あとをどうかよろしく。家内をたのみます。先生もお大事に』と、最後の言葉を残された。
このときはじめて、臨時構築の刑場の内部をチラッと見たが、皓々たる電燈の明るさで、今しがた歩いてきた中庭とは雲泥の差であった。
四人は、四列に分かれて、別々の十三階段を念仏を称えながら登られた。絞首の綱の長さは、四人の首の高さに応じて準備されていたという。そして足下の板が抜け落ちる最後まで、「南無阿弥陀仏」と称えていたと、あとで米軍将校から聞いた。
東条大将が生前、巣鴨の仏間でいっていられたことを思い出す。
『先生、いまは「正信偈」や「歎異鈔」を読ませてもらって喜んでおるけれど、いざという時には念仏だけだという尊い体験をさせられますね――』(『亡びざる生命』より)と。
日本と世界を巻き込んだ悪夢から醒めた彼は、大罪を犯したが、多生にも億劫にもあい難い、弥陀の本願を聞けた法悦に満ちている。
翌23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったという。
でわまたヾ(=・ω・=)o☆バイバイ☆ヾ(=・ω・=)o
そうそう、私はお店を開いてますのでもし良かったら遊びに来てください。
((ノ(_ _ ノ)ヨロシクオネガイシマス
http://japancommunications.net
死刑・・・
このような記事を見つけいつ何が起こるか解らない、常に生きていくうえで覚悟は必要と思いました。
死刑で何が解決されたか/宅間守
大阪の小学校で児童8人を殺害した宅間守死刑囚に、死刑確定から1年足らずという異例の早さで、刑が執行されました。
事件の重大性と被害者遺族の感情を考慮し、本人も早期執行を望んでいたことがその理由といわれています。
宅間守は事件直後の取り調べで、「たくさん殺せば確実に死刑になるし、道連れは多いほうがいい」と語っています。その後も一貫して反省のかけらも見せず、「幼稚園なら30人は殺せた。8人で死刑は少し無念」などの遺族感情を逆なでするような言葉を記していたと報道で知ると、確かに微塵の改悛の情も感じられません。
被害者の母親が、「法務相の判断に感謝。わが子を失って、宅間が生きているのは耐えられなかった」と語る気持ちは理解できます。
しかし、別の被害者の父親は、「贖罪の気持ちがあったのか確認できないまま執行され、複雑な心境。死刑で本人の希望がかなったのであれば意味がない」と言い、さらに、重傷を負った児童の母親は、「刑務所の中で罪を償い、ずっとしんどい思いで生き続けてほしかった」とも語っています。
カウンセリング心理学を教えるある大学教授は、「死刑執行で加害者の苦しみは終わるかもしれないが、遺族はその後も深い悲しみを整理していくことが必要」とコメントしています。
死んだら彼の苦しみは終わるのか?
8人の幼い命を奪っておりながら、死刑という極刑をもってしても、本人に反省の気持ちを起こさせるどころか、「死ぬことは一番の快楽で、怖くない」とうそぶかせるに至っては、法の無力感と人生の不条理さだけが漂います。ご遺族の心情は、やりきれないことでしょう。
だが本当に、死んだら彼の苦しみは終わるのでしょうか。
仏教には、善因善果、悪因悪果、自因自果の厳然たる因果の道理から、まいたタネは必ず生えるし、原因が異なれば必ず結果は異なる、と説かれています。肉体の1度の死刑で、生前犯した罪がすべて消えてしまうことなど絶対にありえません。
宅間守は、死んで楽になれると考えていたかもしれませんが、因果応報、己の罪悪の結果は、死後、間違いなく受けていかねばならないのです。
因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず。(阿含経)
厳粛な因果律に狂いはありません。
また彼は、人生をくだらないと手記で書いているように、己の人生に何の価値も喜びも見いだせず、だから他人の命も尊く思えず、いわば身勝手な自殺の道連れとして、犯行に走ったともいえます。人生の無意味感が、動機の根底にあったことは想像に難くありません。
困難なことではありますが、三世十方を貫く因果の理法を根幹とする仏教、人生の目的と生命の尊厳を明らかに示された親鸞聖人の教えを伝える以外には、本当の救済はどこにもないのです。
でわまたヾ(=・ω・=)o☆バイバイ☆ヾ(=・ω・=)o
そうそう、私はお店を開いてますのでもし良かったら遊びに来てください。
((ノ(_ _ ノ)ヨロシクオネガイシマス
事件
記事を見つけましたので掲載します。
私はこの記事をみて考えさせられました。
オウム事件の本質
松本智津夫被告への死刑判決より
平成16年2月27日、オウム真理教の「教祖」松本智津夫被告に死刑判決が下されました。
地下鉄サリン事件の惨劇から9年後の判決でしたが、各メディアでの大規模な報道は、多くの人々の関心の高さを物語っています。
私たちはこの事件から、何を学ぶべきなのでしょうか。
1つは、親鸞聖人がすでに、「九十五種世をけがす」と言われているとおり、宗教には厳然と正邪があるということでしょう。
「どの宗教もいいところがあるのだから、他を排斥するのはよくない」という主張は、宗教に対する無知からくるものであって、今回のオウム事件に関する初動捜査の遅れや、マスコミのまずい対応も、彼らの危険性にあまりにも幼稚な知識しか持たなかったことに、大きな要因があると言えないでしょうか。
第2に、オウムは断じて仏教ではない、という点も、改めて確認しておかねばなりません。
生命の尊厳を説き、人間として生まれた喜びを教示された釈尊の教えからは、殺人を肯定するオウムの教義など、絶対に容認できるものではないからです。
最も大切な本尊をヒンズー教のシバ神としていたことや、一連の事件が、聖書の「ヨハネ黙示録」に書かれたハルマゲドン(神と悪魔の最終戦争)を引き起こし、教祖自身が日本の王となって支配する野望を果たすためであったことからすれば、仏教の仮面をかぶった邪教であったことは明白でしょう。
そして、最も重要な点は、なぜあれほど多くの若者がオウムに迷ったか、そして現在も、以前と変わらぬ教義を信奉するアーレフと改称した教団が1251人(2003年 教団が公安調査庁に報告した数)もの信者を抱えているのか、という疑問の解明ではないでしょうか。
今回の判決でも、多くの識者のコメントやマスコミの大報道でも、実は、この点は何も明らかにされていないと言っても過言ではありません。
判決の翌日、『読売』の一面に「オウムの呪縛どう解く」と題して社会部長が論考を寄せていますが、その結論はこうです。
底知れない恐怖、漠然とした不安は、オウム事件後、この社会に取りついて離れない。その意味では、オウムは、多かれ少なかれ私たちすべての心に住みついている。松本被告によるその呪縛をどう解いていくか。一審判決は長い道のりの始まりに過ぎない。(平成16年2月28日 読売新聞朝刊)
いたずらに不安感を助長させるだけで、これでは何も語っていないのと同じです。
「何がオウムを生んだのか」と題した『朝日』の社説は次のとおりです。
知識や分別があると思われる人たちが教祖の指示に従ったのはなぜなのか。その不可解さが社会に衝撃を与えた。(中略)脱会して再び教団に戻る者がいれば、新たに入信する者もいる。教祖への帰依も変わらない。いま教団にいるのは、ほかに居場所がない人たちだ。社会から排除するだけでは解決にならない。そこにむずかしさがある。(中略)なぜ事件は起きたのか。なぜ教団がなくならないのか。私たちも考え続けなければなるまい。
解決の糸口さえも、つかめていないようです。これで、オピニオン・リーダーとしての新聞の責務を果たしうるのでしょうか。いやそれよりも、これが、日本の代表紙の論説委員たちの結論なのかと思うと、暗然たる思いに沈んでしまいます。
なぜなら、これではオウム信者のだれ1人説得することはできないでしょうし、第2、第3のオウムの悲劇を食い止めることはできないと確信するからです。
『毎日』の一面コラム・余録は、こう警鐘を鳴らしています。
(オウムから)抜け出せなくなってしまった多くの若者の存在は、この文明の何か根本的な欠陥の表れではないのか。
まさに、そのとおりでしょう。しかし、その根本的欠陥が何かは、余禄子も示し得ないようです。
事件が起きた当初、この問題の本質を、私はこう書きました。
大衆はノドの渇きに苦しんでいる。オウムの泥水を飲むなと、いくら言っても、飲料水を与えねば、他の泥水に走るだけだろう。
速に、清らかな水を徹底提供することこそ急務である。
「ノドの渇き」とは何か。これこそ、万人が持つ精神の飢渇であり、人生の目的が知りたいという、強烈な魂の欲求にほかなりません。
「何のために生まれてきたのか。生きているのか。苦しくとも生きねばならぬ、真の理由は何か」
「この社会のどこに、生きる意味があるというのだ」
人間存在の意味を問う、この根本問題に対し、世の学問も仕事も恋愛も、レジャーも快楽も、その他いかなる生きがいも、解答しえなかったのです。
いや、病気直しや出世、金儲けなど、現世のご利益を売り物にする新興宗教も、見てくればかりでまったく中身のない既成伝統教団も、真摯に人生の意義を求める人々には、何の魅力も感じられないでしょう。
人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、と不条理の哲学で有名なアルベール・カミュは言っています。どうしても生きる目的を知りたい、いや知らなかったら生きていけないのが人間です。
意味なき人生に耐え切れない、人生の目的に渇き切った心は、オウムの泥水でもすすらずにいられなかった。
社会復帰を呼びかけても一向に応じない彼らの心は、「この社会のどこに、生きるに値するものがあるというのだ」と、反問しているに違いありません。
決して、オウムに迷った若者たちだけではない。世界一の豊かさと自由を享受しているかのようなこの日本で、毎年3万人以上もが自殺してゆく現実は、何を物語っているのでしょう。
真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。(カミュ『シジフォスの神話』冒頭より)なぜ生きる。人生の目的は何か。
この究極の問いに答ええない人類は、今もなお深い闇の中にいます。
親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、その解答を次のように明示されています。
難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
"弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破る太陽であり、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す大船である。この船に乗ることこそが、人生の目的なのだ"と。
難度海(苦しみの人生)からの救出の叫びは、今なお充満しているのです。
でわまたヾ(=・ω・=)o☆バイバイ☆ヾ(=・ω・=)o
そうそう、私はお店を開いてますのでもし良かったら遊びに来てください。
((ノ(_ _ ノ)ヨロシクオネガイシマス
http://japancommunications.net
