しゃがみこみ小さな鼻先を押し当てる。
いちゃ、いちゃ、いちゃ、いちゃ。
ははは。
いちゃ、いちゃ、いちゃ、いちゃ。
ははは。ははは。
岸田が煙たそうに床から両目をあげた。まるで至近距離での睨めっこ状態。部屋の端で薄く光るモニターとマウスの距離なんかよりも、二人はもっと密接している。
セール品の桃みたいにまだらに焼けた岸田の顔面を改造された二つの瞳で見つめたまま猫は控えめな声で問い掛けた。
「やはりお主はKなのか?」
彼はまばたき一つせずに、改造を施された猫の黒光りするレンズを、何でもないいつも通りのやや重たい無表情な顔で眺めた。
ぼんやりとした月のようなこの視線こそが、もはや答えである。
「あぁ、そうだよ」
この町の独特なイントネーションで岸田が発する。それは寝起きのように渇いてザラザラしていた。
「そうか、そうか。ははは。K発見か」
「ははは。K発見ときたもんだ。ははは」
岸田と鼻相撲でもするかのように膨れた顔を接近させたまま猫は頷く。
猫の目玉のレンズの微動作を、岸田は気だるそうに開いた目で職業病のようにゆったりと観察した。
「やい、K」
猫のアニメ声は健在である。
「なんだ?まだ何か聞きたいことでもあるのか」
「やい、K」
「なんだ?」
「お主は科学者なのか?」
「まあ、そうだが」
「ほー、ほー、ほー。ポリ、ポリ、ポリ、だな」
猫は執拗に足で尻を掻いた。そして視線を岸田に合わせたまま、もう少しだけ言葉を続ける。薄カーテンの奥の夜空には無数の銀の筋が光って見えた。気がつけば閉めきった窓が濡れている。
「のぉ? 科学者とは偉いのか?」
ぷつりと猫は言葉をきると、小さな丸顔は、これ以上の言葉をつけたさずに、じっとKの返答を待った。
その間に、岸田のまばたきがあり、鼻が小さくすすられた。指先で猫のヒゲを触りながら、彼は妙に甘ったるい顔をして前歯をのぞかせた。
「本当の科学者というのは、神様のかわりのことを言うんだよな」
「神か。ははは。お主は神か。ははは。神あらわるだな。るんるんるんるん」
やり取りを聞いていると、激辛スープを飲みにタワーから下りてくるこの町の吸血鬼Kの自己評価は青天井も良いところで、猫が言ったとおり彼は神の代理人の自覚を持っているようだった。
顔を真近に猫は続ける。
「なあ神よ?ははは。なあ神?」
夜の呼び込みが発する社長くらい安く聞こえる神だ。
「なんだ?欲しいゲームでもあるのか?」
「ゲームではないぞ。ははは。ゲームではない」
「で?」
「Kが神ならば、悪人ではないアヤツを助けられなかったのか?仲間ではなかったのか?」
「それは、お前なんかが思ってるよりも、もっと事情が複雑なんだよ」
「ほー、ほー、そうか、そうか」
ぶつ、ぶつ、ぶつ、ぶつ、だな。ははは。
ぶつ、ぶつ、ぶつ、だ。ははは。
尻を掻き、顎を床にこする猫。そばに転がっているナイロンのリュックに駆け寄り、頭を中に入れてまた戻ってくる。丸顔はらしくない真面目な表情で言った。
「そうだ、そうだ。そう言えば、母上はなにか言っていたかのぉ?」
「母上?」
「誕生日だからだ。お主の誕生日だから、母上から何かあったかなと思ってな」
「別に、特にないよ。もうだいぶ会っていないしな」
「ほー、そうですか。ははは。左様か。ははは。ちなみに、なのだがな、ぶつ、ぶつ、ぶつ、ぶつ」
「なんだ?」
「私にも母上がおらぬものかなと思ってな。ははは。私にも」
にや、にや、にや、にや。
にや、にや、にや、にや、だ。ははは。
猫は鼻をこすり、尻尾を左右に揺らす。じっとKの顔を見つめる。
「いるわけないだろ? お前にそんなもんが」
「相談したいことがあるんだ。最近私は、母上に話したいことがたくさんあってなぁ。母上に会いたくてしかたがないのだ」
母上に会わせろ。
母上に会わせろ。
母上に会わせろ。
ぶつぶつぶつぶつぶつぶつ。
真顔で猫は食らいついた。うつ伏せのKはフローリングに肩肘をつき上体を持ち上げる。そしてぼんやりした目で猫を見つめ返す。
「何かあれば、俺に言えばいいだろ。いい加減、静かにしろ」
次の瞬間、床の車雑誌が放られ、その下に寝ていたテレビのリモコンが空を切った。猫は頬を張られ、うずくまりながらKから後退して行く。足が8本くらいあるのではないかというほど勢い良く暴れている。
わー、いた、いた、いた、いた。
いたちだ。いたちだ。
折れた。間違いなく折れた。
責任をとってもらおう。
一生面倒をみてもらおうか。ははは。
「いいから黙れ」
「母上に会わせろ。お主に言えぬこともあるのだ。私はそういう年頃。私だってそういう年頃だ」