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あこのアトリエ

旅と山とハンドメイドの記録と、重症心身障害児たちへの愛を綴ったブログ

自分の頭の整理と備忘録が目的なので、毎回長いです

私も夏休みになりました。

 

今日は本腰入れて長ーいぼやきを書こうと思うので、最初くらいは写真で始まろうかしら。

 



横浜市にも、ひまわり畑があるんです。

前に住んでた家の近く。

公開が今日までだったから行ってみたけど、まさかの終了時間が早まっていて中に入れず。

ひまわりさんも、暑さでうなだれていました。

 

入り口近くの、小さめだけど姿勢がいいひまわりさんの写真です。

 

 


さてさてー。


ここからは、長いのでご無理なさらず。

あと教育関係者の方のご気分を害したらごめんなさい。

最初に謝っときます。

 

 

 

 

 

 

教採の結果が郵便で届いていました。

 


ふーん・・・

 

 

 

 

 

 

 

え?

 

59人中 4位??

 

あの低クオリティの指導案で?

 

 

 

 

点数を見ると100点満点の65点なので、低クオリティなのは伝わっているのでしょうが・・・

 

周りの受験者さん、いったいどんな指導案書いたんだ。

 

 

 

 

 

 

二次試験は来週です。

 

対策はやりようがないので、運任せで受けることにしました。

 

結果発表は10月頃らしい。

次も忘れそうです(笑)

 

例年の倍率を見ると、一次・二次あわせて倍率2.5倍くらいなので、二次試験で決まるって感じなんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教採を受ける覚悟が決まらない原因となっていた「モヤっと」。

 

言語化するか迷っていました。

言語化しちゃったら、形のないモヤっとだったものが可視化されて、余計に意識しちゃうんじゃないかと。

 

 

 

 

 

そんな危惧はあるけど、とりあえず書いてみます。

 

 

 長ーいぼやき、スタート!



 

 

 

最初にモヤっとしたことは、働き始めて2週間ほどして、技術家庭のMTをやるようになったとき。

 

 

 

単元は、「私たちの食生活」

 

 

調理器具について学び、体験する授業です。

サラダ作ったりしました。

 

 

 

でも、彼らは重症心身障害児。

障害の程度に個人差はあるけれど、将来自分で調理をしたり、自分で献立を考えたりすることは・・・・ないでしょう。

 

 

それでも、指導案の単元目標には、

「調理器具の使い方を知る」

と書かれています。

 

 

 

9月の単元「清掃に関する技術」の担当は私だったので、先輩のを参考にしながら指導案作りました。

やっぱり単元目標には

「掃除用具の使い方を知る」

と書かれます。

 

 

 

 

授業の、活動自体はいいんです。

 

先生と一緒に野菜をちぎったり、包丁で切ったり、盛り付けたりしてみんなで「できたね~」って言い合う活動。

先生と一緒にほうきや雑巾を持って、わざと汚した教室をみんなで掃除して、「きれいになったね~」って言い合う活動。

 

 

 

野菜を五感で感じること

何かを作るという過程を体験すること

友だちと一緒にやる経験をすること

場合によっては順番待ちを我慢すること

自分が環境に働きかけた、と体験すること

自分の表出に反応を返してもらう体験をすること

 

 

もっと深く掘り下げれば、

野菜の、湿っていてひんやりした感触を体験すること

野菜を握ったり、つまんだりする手の運動

野菜を見る、という注視

自己と他者の区別

 

 

こういう経験が、重症心身障害児たちの将来において、とても重要になってくるのはわかっているの。

たぶん、これは現場の先生たちよりも、私の方が体感として知っているはず。

 

 

 

今までの看護師の仕事で出会ってきた、成人の重症心身障害者さんたち。

いろんな人がいました。

 

ほとんどの人が、いろんな刺激に寛容で、刺激を楽しむことができていました。

 

例えばトランポリン。

 

未就学の子では、揺れや不安定さにびっくりして泣いたり、緊張が強くなったりします。

でも、大人の重心さんは、余裕の表情で揺れを楽しみます。

 

これは、今まで学校とか療育とかで、いろんな刺激を体験してきたから。

「トランポリンで揺れるのは楽しいんだ」と彼らが学習してきたから。

 

 

このような様子を見てきて、成長期にいろんな刺激を体験し、それを楽しかった記憶として学習していくことってすごく大事なんだ!と気づきました。

 

だからこそ学校の役割って大事で、それをやってみたいと思ったのよね。

 

 

 

 

 

 

 

なんだけれども。

 

 

 

 

 

 

「〇〇を知る」

とか

「〇〇をわかる」

という目標で授業が考えられているとは思わなんだ。

 

 

その、○○を知るという目標の活動を通して、別の大きな目標を達成しようとしているのは、感じる。

 

たぶん先生方も、

実際のところはできるとか知るとかに重点はおいてなくて、体験を重視しているんだろうなーというのは感じるよ。

 

でも、なんか、どこにもそんなこと書いてなくて、きっと暗黙の了解なんだと思う。

 

 

 

 

 

音楽とか美術とかは、「楽しむ」とか「余暇活動」という要素の強い科目なのかなぁと思うけれど、

やっぱり「曲の速い/遅いを知る」とかの目標はくっついている。

 

一番疑問なのは、技術家庭とか、高等部の職業家庭の教科。

障害レベルからして、

革細工を作って工賃をもらえる子は一握り。

お金を管理して買い物を楽しめる子も一握り。

 

どちらも体験としてなら納得できるんだけどなぁ。

 

 

 

 

これがね、最初のモヤっとです。

 

 

 

 

 

第二のモヤっとに行きましょう。

 

 

 

学校という場所は、療育施設とはちがう。

 

ぜんぶ、型にはめなきゃいけない息苦しさがある。

学習指導要領にそってやらなきゃいけない。

 

 

もちろん個別の教育支援計画や個別指導計画はあるけど、

それを読んでも具体的にどうしたらいいのかはよくわからない。

 

同じ「計画」でも、看護計画とは全然違った。

看護計画は、誰が担当しても標準的な看護ができるように意識して作っているからね。

 

看護用語に当てはめると、

 

看護過程→個別の教育支援計画、個別指導計画

看護計画→指導案

看護記録→週案の記録

 

といったところだろうか。

 

 

看護は、目的が明瞭。

さらに評価もしやすい。

何が正解かわかりやすい。

 

教育は、何が正解かわからない。

分かったとしても、数年後。

評価がとても主観的。

 

 

 

この先生は、この子をこうみる。

という主観が、公式みたいになっている。

 

だから発達検査とかの客観的データを参考にしようと思ったけど、ほとんどの子が受けていないという衝撃の事実。

 

うちは肢体不自由の学校、という区分だからなのか、知的とか発達とかの検査は基本的に受けさせてないらしい。

そういう検査を受けさせるのは療育センターの仕事なのかな?よくわかってないんだけど。

 

重症心身障害児の定義って、重度の知的障害と肢体不自由を併せもつ状態 なんだけどなぁ。

意思疎通が多少可能な子も検査を受けていないので、驚きです。

 

 

 

 

 

第三のモヤっと。

 

なんでもかんでも歌を歌う。

 

朝学活を始める歌

朝学活のテーマソング

各教科のテーマソング

帰りの学活のテーマソング

帰りの学活の終わりの歌

 

など。

何かを始める時には、歌を歌う。

 

 

中学生として、どうなんだろうか。

 

特定の活動の合図になる歌が決まっていて、子どもたちがその歌によって活動の始まり・終わりを意識できる

というのはわかる。

 

 

なんだけど、中学生なんだよねぇ。

 

彼らが将来行くであろう、生活介護の事業所や、長期入所施設では、そんなに歌わないと思うんだわね。

 

高等部でも歌うのかなぁ・・・

教育実習で行ってた知的の高等部は、歌っていませんでした。

 

 

 

この歌いすぎな件も含め、

学校という場所が、子どもたちが生活しやすいように過度な環境設定をしているな、と感じたんです。

 

子どもたちの気持ちを盛り上げるための、先生たちのテンションの高さとか。

私はまだ慣れなくて、子どもの前でずーっと演技を続けると疲れ果ててしまいます。

 

特別支援学級で学校看護師のバイトをしていたとき、環境(ハード・ソフト含め)が障害児仕様になっていなくていろいろ大変だなと思うことはありました。

でも、社会ってそういうもんです。

 

障害があることで、好奇の目でみられたり、

優しさに出会って嬉しくなったり、

いろんな友達と一緒に生活して、

中には一緒にできないこともあるけどそれも現実で。

 

 

特別支援学校は、結界の中の聖域みたいです。

守られている。

それはいいことだけど、環境設定された聖域の中でしか生活できなかったら、それは生きる力と呼べない。

 

※段階的に、まずは設定された環境でできるようになって、徐々に社会に広げて・・・というのは理解できるけど。

 

 

あとは学校では先生が子どもを呼び捨てにするのも気になっちゃうんだよねー。

まぁ一般の小学校とかでもあることだから、私が気にしすぎなだけかもしれないけど。

 

でも、そこに上下関係というか、そういう目に見えないものが存在する気がして、ちょっと嫌です。

施設の職員(看護師含む)と利用者は、対等。

でも、教師と児童生徒は、それとはちょっと違う気がする。

 

まだその関係性というか、立ち位置に慣れられていないし、

正直なところ慣れないようにしている自分がいます。

 

対等でいたいのよ。

 

 

 

 

 

 

 

そんな、こんな、もやもや。

 

 

 

 

教育現場で、「生きる力」という言葉をよく使う。

 

 

重度の障害児の生きる力を考えると・・・

 

彼らは、一人じゃ生活できない。

誰かに介護してもらわないと生きていけない、意思決定すら支援が必要。

これを前提とした生きる力。

 

私が考えるのは、

 

〈生きる力〉

・いろんな人が介護に入っても受け入れられる柔軟性

・環境の変化への適応力

・苦しいとか、不快とかを表出する力

 

〈生きるを楽しむ力〉

・楽しい、好きを伝える力

・いろんな刺激を受け入れる力

・コミュニケーション力

 

かな。

 

↑重度の知的障害や肢体不自由がある子どもたちが、こういう力を育むのには、なんども繰り返し体験していくことが必要です。

 

だから、学校という場は大事なんです。

 

それはわかるんだけれども。

 

だけれどもね。

 

(冒頭にもどる)

 

 



 

 

極論だけど、特別支援学校なんていらないんじゃないか、と思っちゃいました。

 

 

特別支援学級でいいじゃん。

 

聖域をとっぱらおう。

 

 

だって、卒業してから急に冷たい風に当たるより、子ども時代に経験しておいた方がいいもの。

 

 

その方が社会も良い方に変わっていくよ。きっと。

 

 

 

 

 

 

 

とても長いぼやきにお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

今、こんな気持ちで新米教師をやっております。


私がモヤっとしていることは社会の仕組みそのものなので、ぼやいたところで根本的には変わりません。

 

だから、自分がこの社会のどこに身を置くか。

どこに身を置くのが、社会を変えやすい位置なのか。

 

時間をかけて考えていくことになりそうです。

だから教採を受ける覚悟が決まらないんだよねぇ。

 



 

さいきん、ちょっとしんどい。

枠にはまらずに生きよう!と思って頑張ってきたけど、

枠にはまった方が絶対にラクなんですよね。

 

枠にはまらず生きるのは、孤独だとしんどいんです。

看護師のときは、こういうぼやきを話せる同僚がいたけど、今はいないし。

職場で友達ができません(笑)


思考を停止して、個性を殺して、枠にはまってしまえば楽になれます。

 

そういう選択肢もありですね。

簡単ではないけれど。



教採に受かったら、個性を殺して枠にはまって楽しちゃうかもしれません。

私はそれを恐れているのかもしれません。


学校の先生方に個性がないって言ってるわけじゃないですよ!

ただ、私のような考えはアウトサイダーな気がしています。




はぁ。。。







いかんいかん!

せっかくの夏休みです。


楽しまなきゃもったいない。

感染対策をしっかりしつつ、やりたいこと・行きたいところは押さえておかないとねニヤリ



お付き合いありがとうございましたハート