12人が体感している時間と観ている者の時間が融合され、まるで永遠と続くような不思議な体験をさせてくれた。この映画体験を“ノスタルジーが生み出す快楽”と称するとともにそれは一体何であるのかを説いていく。
ツァイ・ミンリャン監督が撮る映画は、何かを見つめる人々の視線と、その視線を誘導させる空間と時間の流れがゆらゆらと懐かしげに揺らめいている。廃墟とも思えるホテルのロビーのような一室が、ラストシーンで長回しで映し出される。外から差し漏れる自然光が窓を突き破り、ロビーに流れる時間が昼間であるのか、夜明けであるのか、錯覚する。その錯覚が時間感覚を忘却し、リラックスするような快楽が襲う。だがその快楽を更に煽るような人のうめき声のような音が時々響き渡る。現世であるのか、一体ここはどこで何の音なのか定まらない曖昧さが現実感を排除し、快楽をより煽る。
このラストシーンの快楽を味わった時、時間の逆再生を感じられずにはいられない。12人の人間が何を話し、何を見て、何を感じているかは顔の表情でしか分からないのがほとんどだ。ファースト・ショットは、随分と日に焼けた年老いた女性の顔が数分間、長回しで映し出される。感情を剥き出しにするわけでもなく最後に少し口角が上がったように見えるが映っているのは、ただただ顔ばかりだ。緊張しているのか顔が少しこわばったり、わずかであるか口元が動いたりする。2人目、3人目、と同じようにクロース・アップで顔をとる。3人目に至っては、それまでずっと固定だったカメラが、その人の体の小さな動きをわずかながらも捉えパンする。ちょっとした動きにカメラも追いつくような面白さも見られる。
4人目である女性に差し掛かった時、それまでとは違う、インタビューをしながらその女性の人生について質問をし、女性は自由に語る。12人全員が表情のみというのではなく、時々言葉を交えながら自由に語らせる。このひたすらに自由な形式が、“俳優でもなく演技でもなくそこにいるその人自身にせまる”というツァイ・ミンリャン自身が本当に映画でやりたかったことが全面的に表れているのではないか。『郊遊 ピクニック』(2013年)で商業映画から引退を表明したツァイ・ミンリャンの分かりやすい脱却でもある。と、同時に、自由に顔(人)を並べてその人に自由なことをさせる。過去を語り出し思わず泣いてしまう者や、若さを保つために突然カメラの前で体操をしだす老人やカメラの前で寝てしまう老人。「あの時こんな人を見た」「あの人に似ている」といった誰か身近な人を思い出させる感覚にさせてくれるところに再びノスタルジーを感じてしまう。
同じくツァイ・ミンリャン監督による『楽日』(2003年)も“何か”を見る人々の視線、顔、それに伴う空間と流れる時間を描く。ここでも“何か(映画)”を見る人たちの顔や仕草は自由である。映画を観る女性の顔のショットとスクリーンのショットが高速で切り替わるシーンは、スクリーンの光が女性の顔に映り、視線がスクリーンの中に溶け込んでしまっているかのようだ。更にここでもまた、廃墟のような古びた映画館という空間が、“忘れ去られたもの”として、それを見る人々の視線によって思い出となって映画館=空間は閉鎖する。そして、哀愁漂う音楽でエンディングを迎え幕を閉じる。このように何かを見る人の顔はその人そのままであるし、映画館という暗闇だからこそ時間感覚が鈍くなり、いつであるのか錯覚してしまう感覚が存在する。これもまた、ツァイ・ミンリャンの商業的とは少し離れた自己満足的な映画であるとともに、空間、縛りのない時間の流れ、人の顔、と通ずるものが『楽日』にもあるのではないだろうか。やはりそこには現世を感じさせないノスタルジックな空間と人が交差しているのだ。
12人の顔と、古びていて哀愁漂う空間、錯覚する時間の流れ。そこにはまさに思い出に浸りながら昔のアルバムを見るような懐かしむ体験が心地よい快楽を生み出し、ノスタルジックな体験に仕上がっているのではないだろうか。