こんにちは♪
自分スタイルカレッジ学長のナオです
今回は、先日、子どもたちの授業参観に参加した際に、日本教育の縮図を見たなぁ、と思った話。

ショック、、、!小2娘の授業参観で見えた
日本の教育スタイル
小2の娘の授業は図画だった。
ある図形をモチーフにした生き物の絵を描いて、彩色するというもの。
図形を使った生き物の描き方にも、彩色の仕方にも、
先生方にはある程度のガイドライン(授業の進め方)が、
おそらく文科省なのか、教育委員会なのか、どこかしらから示されているのだろう。
※あくまでわたしの推測だけど。
「もう少しここは隙間を空けようね、、、」
「ちょっとバランス的に小さいからもう一度裏面に描こうか」
などなど、先生が子どもたちひとり一人に声掛けをする。
第三者から見ていても、授業の完成図として、
“ある一定のゴールの姿”
“ある一定の完成イメージ”
こういったものがあるんだろうなと想像できる。
ここまでは、まぁそういうものなのだろうと思いながら見ていた。
図形の学びだし、バランス感覚だったり、鉛筆の運び方など、
小学2年生の履修項目として必要なんだろうと思えた。
わたしがショックを受けたのはこの後。
彩色のタイミングだった。
「せんせー、混ぜてもいい?」が目の前で却下されてしまった
・クレパスを使う。
・好きな色を使って良し。
・混ぜるのもあり。
みたいな指示があったらしい。
黙々と作品作りに向き合う子どもたち。
すると、ある子どもが、手を挙げた。
「せんせー、黄色と紫と緑、混ぜてもいいー?」
おぉっ!と思った。
なかなか斬新な発想をするじゃないか。
クレパスでその三色を混ぜるとどうなるんだろうね?
やってみたいね、面白そうだね、いいやんいいやん。
やってみやってみ。
子どもの発想って自由でいいなぁ(*´ω`)
、、、と思ったのも束の間、
質問を受けた先生は、
「うーん、どうだろうねー。
汚くなっちゃうかもね。」
、、、、、、、、ファッ!?(゚д゚)))!?
加えて、
「混ぜるのは基本2色までだからね」
えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!!(゚д゚))))))!!!
なんと、先生はまっっっっったくの悪気なしに、
子どもの発想に無意識に制限をかけちゃったのだ。
しかも、
「黄色、紫、緑を混ぜたら汚くなる」と、秒で大人の結論を繰り広げ、
「混ぜてもいいけど2色まで」と謎のルールを示し、
(↑もしかしたら先生用のガイドラインにそんな項目があったのかも?)
二重に制限をかけちゃったのだ。
これにはびっくりした。
びっくりしたし、
先生にまったく悪気がないこともわかるだけに、
とっても残念に思った。
・好奇心
・大人にはなかなか生まれない斜め上の発想
・混ぜてみたいという色への興味
そういった子どもの自由な想像力を、根こそぎ踏みつぶされてしまった
(と言っちゃうとさすがにわたしも言い方が過ぎるが、、、)。
その瞬間を目の当りにしたのだ。
これは、今のわたしにはなかなかにショックだった。
・独自の発想でアクションを起こし、
・そこでなんらかの結果を得る
こんな経験ができる可能性を、
クリエイティブな授業であるはずの図画の時間に、
さくっと絶たれてしまった瞬間を目の当たりにしたのだ。
あぁぁぁぁぁ、、、
なんてもったいない、、、!!!( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)!!!
きれいに仕上げて、そつなく授業を終えることよりも、
もっと大事なことがあるはず
いいじゃないか、汚くなっても。
そりゃ汚くなるよ、クレパスだしね。
色の三原色の理屈で言うと、
三色混ぜたら黒になるもんね。
大人はそれを知ってるよ。
どっかで学んで知ってる。
汚くなっちゃうと、
作品工程になんらかの支障(ぜーんぶ真っ黒になっちゃうとか?)が出ると予想されることも、まぁわかる。
他には例えば、
- いずれ保護者に見せるとなった場合に、
その子の作品だけ黒になっちゃったことで保護者がなんだか「ちーん」ってなっちゃう、、、とか、 - 子ども本人が「黒になっちゃったぁーー泣」てなことになるとか、
- もう一回図形を描くところからやり直しとなるとか、
それらの事象が起きてしまうことも、まぁ予測はできる。
そう考えると、先生が授業を完遂するうえではちょっと面倒なのかもしれない。
でもさ、
それって、ぜんぶ大人の都合ですよね?
(ひろゆきさんかな?)
上記の予測がぜんぶその通りになったとしてもさ、
別にいいやん!!!
黄色と紫と緑を混ぜてみたいと思った好奇心、
そして実際に混ぜてみたら黒になった!( ゚Д゚)!( ;∀;)という、
自分の選択したアクションによって結果を得る、体験を得る、生きた知識を得る
その子がそんな豊かな経験値を得られることを思えば、
その先の諸々の大人の都合なんて、ものすごくどうでもいいことじゃないか。
混ぜさせてあげてほしかったな、、、
体験させてあげてほしかったな、、、
混ざったところ、見てみたかったな、、、
だからわたしたちは、自分なりの答えを出すことが苦手なんだ
これです。
今回の結論。
だからわたしたちは、
ほんとは自分の内側にあるはずの、
自分なりの答えを出すことが苦手なんです。
ついつい、外側に正解を探してしまうんです。
それだって幻かもしれないのに。
どこかに正解があるんだと勘違いしてしまう。
これ、
パーソナルスタイリストとして発信していたときにも
すごく感じていたこと。
おしゃれの唯一の正解なんてないのに、
それにすがろうとして、迷い悩む人の多いこと。
そしてその悩み方は、そのまま人生の悩みになってる。
先生は悪くないし、
先生を責めたいわけでもないし、
先生の判断を否定するつもりもないんです。
この展開、めちゃくちゃ残念だなとは思うけど、先生にはまったく罪はない。
なぜなら、
先生も含めたわたしたち大人が、
そもそもこういう教育を受けてきてしまっているから。
わたしたちもわたしたちの親世代も祖父母世代も、
いつの頃からか(たぶん昭和初期くらいじゃないかな)面々と、
こういう教育がなされてきているから。
「学校という場所」は、わたし個人としては現役学生の時代から大好きな場所なんだけど、
「教育」となると、こういった残念な点がほんとに多いなと思う。
- 自由な発想を持たせない
- 生きた体験をさせない
- 型どおりにできればそれをゴールとする
現状の教育マニュアルはこうなってしまっている。
それが、件の授業に如実に表れていた。
だって、「学校」は、
従順に国の言うことを聞いて、
従順に納税してくれる働き人を育てる場所だから。
それが良い悪いという論点ではなく、
どうしたって、現状そういうものなのだ。
この現状がそっくり生まれ変わるには、まだ何十年~数世代分はかかるだろう。
(日本の現状として)学校は、
ひとりの人間を個性豊かに育てるなんてことはしない。
決してそんな場所ではない。
(モンテッソーリ教育は違うとか、そういう論点も置いといて)
“学校”が育てるのはあくまでも“大人しい納税者”だ。
納税者を育てる過程で、
たまたま、
人間育成を大切に考えている教師に出会い、
たまたま、
人間育成につながるような友情関係や部活動に参加する機会があり、
そういった要素によってたまたま、
人間育成がなされる、かもしれない、可能性はゼロではない。
そんな世界なんだ。
先生自身もそんな世界で小さな教育を受けてきてしまっている。
だから、先生自身には罪はない。
この記事を書いているのも、どこかに罪を見つけて言及しようというものではない。
(厳密に言えば矛先はあるけどw)
ただ、
わたしたちはそういう教育を受けてきてしまっているんだ。
ということ。
ここを自覚するところから、本当の自分の人生が始まる。
そう言っても過言じゃないくらい、
わたしたちは、こうやって、
自由な発想に制限をかけられ、
突出した個性を伸ばすことなく、
だひとつの、周りとおおむね同じようなゴールを目指させられてきた。
だから、
本当に自分らしい人生を生きる
なんていう、
ひとりひとり答えが違う問いに答えを見出すのが苦手なんだな。
自覚しよう。意識しよう。
自分の人生を生きるために。
自覚しよう。
無意識でいると子羊のまま、一生が終わるかもしれない。
いや、ほぼそうなる。
小さなことでいい。
- やってみたいな➡やってみよう。
- こっちの方が好きだな➡そっちを選ぼう。
- これで合ってるのかな?➡正解不正解ではなく、わくわくする方を選ぼう。
- がんばらなくちゃ➡休もう。
- 周りの目が気になる➡型どおりかそれ以外かという日本の教育の弊害だと自覚しよう。
そんなふうに、日常のささいなアクションを変えてみよう。
正解通りに動こうとしてしまうくせがあるかもしれない。
「一般的な」とか、
「常識的に」みたいな口ぐせや思考ぐせがあるかもしれない。
まずはそんな自分の、
無意識に型どおりに収まろうとしている
習慣に気付くところから
自覚するところから
ひとつずつ始めて、
ひとつひとつの選択を変えてみよう。
ほんとはこうしたい
今からは、これをとことん大切にしていこう。
勇気がいるかもしれない。
でも大丈夫。
決してひとりじゃないよ。
少なくとも、
わたしもチャレンジしてるから。
自分スタイルカレッジを、
みんながみんな
自分の人生を個性豊かに育んでいく、
そんな場所に育てていきたいな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分スタイルカレッジは、
インスタの中の
“とある学校”
入学(=フォロー)はどうぞご自由に♪
いつでもお待ちしております♪
入学(=フォロー)した瞬間から、
カレッジ生(=フォロワー)となります。
(あたりまえ体操)




