いじめの定義 | 催眠心理療法士のつぶやき

いじめの定義

昨日、インターネットでニュースを見ていると、いじめの定義が広がり、いじめ認知が6倍増とのこと・・・。


以前のいじめの定義とは 同一集団内の相互作用過程において優位に立つ一方が、意識的に、あるいは集合的に、他方に対して精神的、身体的苦痛をあたえること。
逃げられない閉じた集団の中で、対抗力のない弱者に対して、正当な理由なく繰り返される私的制裁。

とありました。

それが今では「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」となっているそうです。


その定義を広げることは確かに、いじめの小さな芽の時から摘むことなのでしょう。

私的に言えば、いじめはそんな小さなものまで意識しても摘みとることができないと考えます。

だって誰にでも精神的な苦痛を感じることはありますよね。

しかもこれは子どもの世界の話だけではなく、当たり前のように大人の世界でも多くの方が悩まれていることでしょう。

現代社会の中で確かに様々ないじめが存在するでしょう。

しかし精神的な苦痛を感じ、その出来事を乗り越えることができることによる成長も私はあると考えております。


温室育ちの囲いの中で、害虫もいなければ、雑草もない。

水も栄養もすべて誰かがくれる。

そんな囲いが突然無くなれば、その時その芽はちゃんと成長できるのでしょうか?

すべてのことが本当に自分の思い通りにできる世の中になっていればその考え方もありでしょう。

しかし自分の思い通りにできないこの世の中で突然囲いを無くしてしまった芽は本当に実りのある収穫ができるのかを考え世の中を再生して欲しいものです。


いじめの問題・・・。

これはこの世に存在している以上、避けていくことはできないことなのではないかと思います。

植物であろうが、動物であろうが、すべては生存競争の中で生きているのだと思います。

そう自然という仲間でもあり、敵でもある友と一緒に・・・。

生存競争とは本能よりももっと奥深く持ち続けているものではないかと思います。

その深く持ち続けていることに人は理想や理性により抑えようとし続けているのではないでしょうか。


ちなみにこの考えは勿論いじめをやってもいいとは言っておりません。

わざわざいじめの定義を広げることよりも、もっとその個人(当事者)の気持ちにそれぞれがなり、その中での教育をもう一度考ええなおしてはみてはいかがかと思います。


子どもよりももっとえげつないいじめのある大人の世界、子どもよりも賢い分やっかいだと思います。

しかもそこには、上下関係(力や権威)を脱することができない世の中に、そしてそんな大人に子どもに対してどんな教育ができるのでしょう?

信念のない建前だけでは、相手にしっかり見抜かれてしまいますよ。


と色々と考えてしまうニュースでした。