充実していない春休みの過ごし方に嫌気がさしたのでどこかに出かけることにした。観光旅行に行く気分でもなかったので、東北でのボランティアバスツアーなるものに申し込んだ。震災から2年もたった今さら、初めてそういうところに踏み込むのは、なにか偽善的で自分自身が寒々しい気もしたが、なにか今までしたことがないようなことがしたい、そしてなにより、ベッドの上でスマートフォンをいじりながら大半の時間を過ごすこの残念極まりない大学3年生前の長期休暇になにかを残したいというかすかな望みから、東北に行くことを決めた。
金曜日の深夜、参加者を乗せたバスは東北へと出発した。参加者は学生が大半を占めているようであった。中年のおじさん、おばさんが多く参加しているイメージを持っていたので意外だったが、春休みシーズンのいま学生が多いのは考えてみれば納得だった。なんだ、皆考えていることは同じか、そう思うと何とも言えないがこの旅行に期待する気持ちが少しずつ高まってきた。
眠れないバス移動を終えて、活動場所である岩手県一関市のとある農家に到着した。作業内容は、田んぼの奥にある小さな山のような区域一面に置かれた50cm~1mに分断された大量の木を一つの場所に集めるという、いたってシンプルな作業だった。どうやら、その木はシイタケの原木栽培に用いられていたものだったが、付着したセシウムの量が国の基準値を超えていたために、すべて処分しなければならなくなったとのこと。そして、その撤去作業には、膨大な労力が必要だったためボランティアの対象となった。
作業は思った以上に、きつかった。重いものは20kgあるのでなかなかの肉体労働だ。ひたすら、皆で作業をする。特に何も考えずに。なんとなく心地よい時間だった。不謹慎な言い方かもしれないが、金をもらわずに働く(あえて働くという言葉を使う)ことは何とも言えない爽快感だ。困っている人のためになるからとか、そういうのとも少し違う(もちろん根本的な動機はそこにあるが)。ふと思った。これは自己満足だ。自分が気持ちいいからやる。誤解を恐れずに言えば自分のためにやる。そういう人も多いのではないか。しかし、それは決して偽善とかではなく、依頼者の要望に微力ではあるが応えているので少なくとも迷惑にはならない。それはそれでいいのではないだろうか。
僕は、被災者のリアルな気持ちもわからないのに、そのことを語ったり、能力もないのに支援に手を挙げるのはおこがましいと思ってたし、多数の本格的に支援を考えて実行している人のようには自分はなれない、だから語れない、下手に語ればそれは偽善だと思っていた。しかし、少しでもプラスになるなら自己満足からでもいいのではないかと思う。
被災者や、多数の支援者。そのどちらにも属していなかった僕が今回感じたことだ。これから、もっと色々なこと知らなければいけないと思う。
